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わが親友シャーロック・ホームズくんは八九年の春、過労のため神経症になったのだが、これはそこから健康を取り戻すより少し前の話である。蘭領スマトラ会社やモーペルチュイ男爵の大計画といった件のあらましは、今も世間の記憶にたいへん新しく、また政治や金融とあまりに密接な関係があるため、この連載の題材には適していない。ところがそれは間接的な形で複雑怪奇な問題へとつながり、犯罪との生涯の戦いで用いる多くの武器のうちでも、ある新しいものの価値を証明する機会をわが友に与えたのだった。
自分の覚え書きをたぐると、四月の一四日だったことがわかる。その日に私はリヨンから電報を受け取り、ホームズがオテル・デュロンというところで病に伏せっていると知らされた。一日もせず私は友人の病室へと行ったのだが、その症状に危ないところがないとわかってほっとしたのだった。にしても、その鉄の身体でさえもが二ヶ月にわたる捜査の重圧で参っており、その期間は一日の活動が十五時間を下ることが決してなく、当人の話では一度ならず五日間も立て続けに机にしがみついていたことまであったという。その成果がいかに誇らしくとも、それだけ過酷な努力のあとでは反動も避けられまい。欧州じゅうが友人の名に沸き、部屋じゅうが祝電で文字通り足が埋まってしまったときも、見ると友人は黒々とした憂鬱の餌食になっている。その知識にしたところで、三国の警察のしくじったことも解決し、欧州一の腕を持つ詐欺師のあらゆる裏を掻いたと言えども、当人の神経衰弱を盛り返すには足りなかったのだ。
三日後にふたりしてベイカー街へ戻ったのだが、友人に転地療養させた方がなおよいのは明らかで、一週間でも春の田舎をとの考えが、私にもきわめて魅力的に思えてきた。私の旧友であるヘイタ大佐は、アフガニスタンで私の治療を受けた男なのだが、当時はサリィ州のライギット近くに館をあがなっており、訪ねてこないかとよく誘いを送ってくれた。最近の話では、友人もついてくるなら喜んで等しく歓迎すると言ってくれていた。いささかの説得が必要だったが、ホームズも向こうが独身であることと最大限の自由が許されることを理解して、ようやく私の企てに同意し、リヨンから帰って一週間後に我々は大佐の館に宿ることとなった。ヘイタは立派な老兵で、世の事々を知っていたので、期待通り自分とホームズに通じるところが多々あるとすぐに悟ったようだった。
着いた日の晩、我々は夕食後に大佐の銃器室で腰を落ち着けていた。ホームズはソファに身を投げ出し、ヘイタと私とは火器に着いた小さな徽章をながめていた。
「時に。」と出し抜けに大佐は切り出した。「この辺の拳銃を一丁、上の自室へ持ってった方が良さそうだ、危険を感じたときのためにな。」
「危険!」と私。
「そうとも。近頃ここいらの者はみなおびえておってな。アクトンのご老公はこの州の大物なんだが、先の月曜に家へ押し入られてな。被害はそれほどでもなかったのだが、一味はいまだに捕まらずじまいだ。」
「手がかりは何も?」とホームズが大佐に目を注ぐ。
「今もって何も。だがこんなものささいな事件、田舎の小さな犯罪といったもので、小さすぎてあなたの関心を引くまでもないもので、ホームズさん、例の国際的な大事件のあとではね。」
ホームズはこのお世辞に手を振ったが、その微笑みから喜んでいることが見て取れる。
「でも何か面白みはあるでしょう?」
「いやおそらく何も。泥棒どもは書斎を引っかき回したが、成果はほとんどなし。部屋中ひっくり返され、引き出しを開けられ、戸棚はかき回され、結果としてはポープ訳ホメロスの一方、めっきの燭台を二台、象牙の文鎮ひとつ、楢の小型気圧計に糸撚玉ひとつしか消えておらんかった。」
「なんと変わった取り合わせだ。」と私は声を張り上げる。
「ほう、どうも者ども、手当たり次第にひっつかんだようだ。」
ホームズはソファからつぶやくように言った。
「州警察は何か講ずるべきだ。まあ、はっきりしているのは――」
だが私は注意の指を差し向ける。
「休みに来てるんだ。いいかい、頼むから新しい問題に取りかかったりしないでくれ。君の神経はずたずたなんだから。」
ホームズは肩をすくめ、おどけた視線を投げて、大佐にあきらめたことを伝え、話はもっと危険の少ない方面へと流れていった。
ところが結局、私の医者としての注意など無駄に終わる羽目となった。というのも翌朝、その問題の方から我々に突っかかってきて、見て見ぬふりも出来なくなり、この田舎滞在はふたりの予期せぬ展開を見せたのだった。我々が朝食を摂っているときのこと、大佐の執事が礼儀も何もかなぐり捨てて駆け込んできた。
「もうご存じですか、旦那さま。」と息を切らし、「カニンガムさまのお宅が。」
「押し込みか!」と大佐がコーヒーカップを持ち上げたまま叫ぶ。
「人殺しです!」
大佐は口笛を吹く。「なんと! で、誰がやられた? 判事か、息子か?」
「いいえ、御者のウィリアムです。心臓を撃ち抜かれて、事切れて。」
「で、誰が撃った?」
「その夜盗がです。鉄砲玉みたく逃げて後には何も。食料庫の窓を破って入ったところをウィリアムが出くわして、命と引き替えに主人の財産を守ったわけです。」
「いつ頃だ?」
「ゆうべです。一二時あたりでしょうか。」
「そうか。ではあとで伺わんとな。」と大佐は言って、静かに食卓に着く。「よからん話だ。」と執事がはけたあとで大佐は言葉を続ける。「ここらでも指折りの名士でな、カニンガムのご老公は。きちんとした人物で、この件では相当の痛手だろう。その男は長年仕えた忠実な使用人だったのだ。きっとアクトンのところに押し入ったのと同じ悪党だな。」
「盗んだものが実に妙な取り合わせだった、あの。」とホームズは考え込む。
「まさしく。」
「ふむ! これは世界一簡単な事件と言っていいですが、とはいえ一見したところではいささか妙なところもあるではないですか。由来、田舎で働く強盗団とは仕事場を転々とさせると相場が決まってまして、数日内に同じ地方で二軒も押し入らないものなのです。あなたが昨晩用心を口にしたとき、そういえばと頭によぎったのは、おそらくイングランドではこの教区がいちばん強盗もしくは強盗団の関心を得られそうにないということで――ですが今の話では、まだ学ぶべきことがたくさんありそうです。」
「土地勘のあるやつのようで。」と大佐。「となると、もちろんアクトンもカニンガムも狙った家というわけだ。ここらじゃ段違いの豪邸だからな。」
「財産の方も?」
「ああ、そのはずだ。もっとも両家はしばらく訴訟でもめとるから、互いに相当の血が流れておるようで、アクトンのご老公はカニンガムの地所の半分の権利とかを主張しておって、双方の弁護士が争っていてな。」
「土地勘のある悪党なら、追捕するのもさほど難しくはないでしょう。」とホームズはあくびをする。「わかってる、ワトソン、手を出すつもりはない。」
「フォレスタ警部がお見えです。」と執事が扉を開け放つ。
身だしなみのいい切れ者風の若い警官が部屋に立ち入った。「おはようございます、大佐。」とその人物は言う。「お邪魔でなければ、その、ベイカー街のホームズ先生がおられると聞いたのもので。」
大佐が友人の方へ手を振ると、その警官はお辞儀をした。
「きっとご参加くださる気になろうかと存じます、ホームズ先生。」
「運命の神は君に反対だとさ、ワトソン。」と友人は吹き出す。「入ってきたとき、ちょうどその事件の話をしていたところで、警部。きっと君なら、詳しい話を聞かせてくれるね。」
友人がいつもの体勢で椅子に寄りかかったので、状況は最悪だと私は悟った。
「アクトン事件の手がかりは何も。ですが今回はかなりよりどころがありまして。いずれの事件も同じ一味に違いありません。男が目撃されてます。」
「ほお!」
「そうなのです。つまりそいつは哀れなウィリアム・カーワンを一発で撃ち殺したあと、脱兎のごとく逃げたんですが、カニンガムさんが寝室の窓からその姿を見ておりまして、それにアレク・カニンガムくんも裏口から見たと。突然声がしたのが一二時の一五分前のこと。カニンガムさんは寝台に入ったばかりで、アレクくんは化粧着でパイプを吹かせていました。ふたりは御者のウィリアムが助けを求めるのを聞いて、で、アレクくんが何事かと駆け下りていきますと、裏口の戸が開いていて、階段の下に着くと外でふたりの男が取っ組み合いをしてるのが見えたとか。一方が一発撃つと、もう一方が倒れて、犯人は庭を抜けて生け垣を乗り越えて走り去ってしまって。カニンガムさんは寝室からそれを見ていたのですが、そいつが道に出たところまでで、すぐに見失ってしまいました。アレクくんは立ち止まって瀕死の男を助けられるか確かめてましたから、悪党も姿を消せたというわけで。ただ、そいつが中肉中背、暗色の何かを着ていたというのがわかるだけで、それ以上そいつの手がかりはありません。ですが我々は精力的に捜査を続けてますし、やつがよそ者ならまもなく見つけられるでしょう。」
「そのウィリアムとやらはそこで何を? 死ぬ前には何も言わず?」
「一言も。母親とともに番小屋に住んでまして、実にまじめな男でしたから、見回りでもするつもりで母屋へ行ったのだろうと我々は踏んでいます。もちろん先のアクトンの一件でみんな用心してますからね。盗人がちょうど戸を押し破ったところだったのでしょう――鍵がこじ開けられ――そこへウィリアムが行き会った。」
「ウィリアムは出かけに母へ何も?」
「耳の遠い老婆ですから、情報は何も得られずで。今回の衝撃で茫然自失ですが、元から耄碌してるんだとは思います。しかし、ここにひとつたいへん大きな証拠が。ご覧ください!」
警部は手帳から小さな紙の切れ端を出して、膝上に広げた。
「これが死体の指のあいだに見つかって。どうももっと大きな紙の切れ端のようで。ここに記された時刻と、哀れにも男が死に見舞われた時間とが一致することはおわかりでしょう。また下手人が彼の手から残りを破り取ったか、あるいは下手人からこの切れ端を彼が取ったか、のどちらかということも。これは何かの約束のように読めますね。」
ホームズはその紙切れを取り上げた。ここにそのまま再現しておく。
「これが何かの約束だと仮定すると、」と警部は続ける。「このウィリアム・カーワン、正直者という評判があるとはいえ、強盗団の一味であるかもしれないという見立てももちろんありえてきます。そこで待ち合わせ、戸を押し破る手助けまでして、そのあと仲間割れしたのかもしれません。」
「この文章、飛び抜けて面白い。」とホームズは気を集中させて紙切れを調べていた。「予想以上に険しそうだ。」と友人が頭を抱えると、警部は自分の事件がロンドンの有名探偵に響いたとにんまりする。
「今の話では、」とすぐにホームズは続ける。「強盗と使用人が通じ合っていて、これが渡された指示書かもしれぬとのことだが、独創的であながちありえない読みではないでしょう。しかしこの筆跡から見えてくるのは――」と友人は再び頭を抱え、そのまましばらく考え込んでしまった。そして頭を戻すや、私は見て驚いたのだが、その頬には色が差し、その目は病む前と同じくらい輝いていたのだった。以前の元気を取り戻して勢いよく立ち上がる。
「では、」と友人は言い出す。「いささかばかりこの事件を詳しく見させて頂きたい。ここにはきわめて惹かれるものがある。よろしければ、大佐、僕はワトソンくんとあなたに失礼して、この警部と回って、若干の思いつきをひとつふたつ正しいか確かめたいのですが。三〇分もあれば帰って参りますので。」
一時間半が経って、警部がひとりで戻ってきた。
「ホームズ先生は外の原っぱをあちこち歩いておられます。」というのが彼の話だ。「例の屋敷へ、四人一緒に出かけたいと。」
「カニンガムさんのところへか?」
「そうです。」