Chapter 1 of 4

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チビの魂

徳田秋声

彼女も亦人並みに――或ひはそれ以上に本能的な母性愛をもつてゐた。間歇的ではあつたが、五年も六年も商売をしてゐたお蔭で、妊娠の可能率が少ないだけに、尚更ら何か奇蹟のやうに思へる人の妊娠が羨ましかつたり、子持の女が、子をもつた経験のないものには迚も想像できない幸福ものであるやうに思へたりしてならないのであつた。子供といへば豕の仔でも好きな彼女であつたので、散歩の途中犬屋の店で犬の子が目につくと、何をおいても側へ寄つて、本当に可愛ゆくて為方がないやうに見てゐるのだし、町の店屋などで綺麗な猫が見つかると、そこで余計な買ひものをしたりして、それは其の場きりのものだけれど、その子供を貰ふ予約をしたりするくらゐだつたから、母親に手を引かれて行く子供を看ると、別にそれが綺麗な子でなくても、ぽちや/\肥つてさへゐれば、蓮見に何とか話しかけて振顧るのであつた。

「あたい一度子供産んでみたい。」

「いや、真平だ。」

「療治すれば出来るといふわ、森元さんが……。」

「その時は相手をかへなけあ。」

子供が産めない躯だといつてゐた蓮見の死んだ妻は、こんなに沢山の子供を次ぎ次ぎに産みのこして、大きくなつてしまへば、経済や何かの問題は兎に角として、感情のうへでは別に何でもないやうなものの、人の赤ん坊を見てさへ、彼はうんざりするのであつた。それに生きてゐるうちに、子供の一人々々は何とか片が着かなければならないのが、普通人間の本能であるらしかつた。子供の運命が自身の寿命と生活力の届かないところへ喰み出ることは、誰しも苦痛であつた。母性愛はそれに比べると動物的なものらしいのであつた。

兎に角圭子は一人の子供をもらふことにしてしまつた。それはちやうど猫の仔か何かを貰ふやうに、いとも手軽なものであつた。

或日の夜彼はポオトフォリオをさげて入つて行くと、その女の子が皆んなと瀬戸の火鉢に当つてゐた。年は十だといふのであつた。色の浅黒い――と言つても余り光沢のある皮膚ではなかつた。細い額に髪がふさ/\垂れさがつて、頬が脹らんでゐるので、ちよつと四角張つたやうな輪廓だが、鼻梁が削げて、唇が厚手に出来てゐる外は、別に大して手落ちはなかつたし、ぱつちりはしないが、目も切れ長で、感じは悪くなかつた。虫歯の歯並が悪い口元に笑ふと愛嬌があつた。どこか男の子のやうで、少ししや嗄れたやうな声も大人のやうに太かつた。余り小綺麗でないメリンスの綿入れに、なよ/\の兵児帯をしめて、躯も小さいことはなかつた。

「今までどこにゐたの。」

「あたい? お父ちやんとこにゐたんです。」

「お父ちやん何してゐるんだい。」

「お父ちやんね、おでんやしてんだけど、体が悪いんです。」

「お母さんは?」

「お母ちやん私の三つの時死んだんです。」

蓮見は昨日圭子から聞いて、この子の生立や環境について一ト通りの予備知識をもつてゐたが、身装や何かに裏町の貧民窟らしい匂ひはしてゐても、悪怯れたところや、萎けたところは少しもなかつた。寧ろその反対に、大人の前に坐つてゐても、羞かしがりも、怖れもしなかつた。圭子の話によると、咲子といふこの子供の父親は、長いあひだ治る見込みのない腎臓や心臓の病気で、寝たり起きたりしてゐた。商売にも出られなくなつて、間代や何かうんと溜まつてゐた。それも整理しなければならないし、何うせ死ぬなら生れた田舎で死んだ方が安心だから、いくらかの金をもつて上州の兄のところへ帰りたい。それで咲子をどこか好い人に籍ごとおいて行きたいといふのであつた。

圭子はその前にも近所の人の口入れで、二人ばかり子供を見たことがあつた。一人は籍がないので、蓮見に見せないうちに還したが、それが近所の待合に貰はれて、今でも外で圭子の姿を見ると、駈けつけて来て、何か話しかけるし、今一人は月島の活版屋の子だつたが、其の家の地理や隣り近所の有様や、又は小さい子供を多勢もつた親達の夫婦喧嘩をして、瀬戸物や何かを打壊す時の紛紜を、六つにしてはまめ/\しすぎるほど細かに話して、もう自分の家へ来たやうに、二階へ上つたり、物干へ出たりして、圭子の後を追つてゐたものだつたが、それも着替へを拵へる隙もなく、余り手がかゝるだらうといふことで、帰してしまふと、ちやうど電車通りを越えた高台のところに、其の口入屋があつたので、そこへ還つてゐるあひだ、屡々圭子の家を覗きに来たり何かして、一晩でも泊めると、もうそこに淡い愛着が出て来るのが、切ないやうなものであつたが、今度の咲子にはさういつた哀れつぽいやうなところもなかつた。

「私めそ/\したのより、てきぱきしたの好きなの。それに世話する人も、周旋屋のやうぢやないんです。田舎では県会議員までしたんださうですの。親類が神田であの商売を手広くやつてゐるので、隠居仕事に手伝つてゐるといふ話で、実直さうなをぢさんだわ。」

蓮見はそんなことも聞いてゐたけれど、見て見ると子供には余り好い感じがもてなかつた。

その晩圭子は咲子を風呂へつれて行つて、体を見た。胴と脚の釣合も悪くなかつたし、皮膚も荒い方だとはいへなかつた。圭子は一躍、一人前の子持になつたやうな気がしてゐた。

毎晩そんな時間になると、大抵蜜豆とか、芋の壺焼とか、鯛焼、葛餅のやうなものを買つて来て食べる癖がついてゐたが、その晩もいくらかメンタルテストの意味で、咲子におでんを買はせにやつた。所を教へると、咲子は悦んで立ちあがつて、台所から手頃の丼を持出して来て、この子の癖で目をばしばしやりながら、入口へ飛び出した。

「煙草屋のところを左へ曲つて……。」

咲子は振返つて念を押した。

「それから自動の前を通つて右へ行くの。すると左側に黒い暖簾に古里庵と書いた家があるわよ。」

鏡台の前に坐つてゐた抱への一人の蝶子が言ふと、咲子はまた自分の頭脳へしつかり詰めこむやうに復習つてから、下駄を突かけた。

「私はしのだ巻ですよ。知つてる?」

「えゝ、知つてますとも。お父ちやんおでんやだつたんですもの。」

「さうか。駆出して行くんぢやないよ。」

言つてゐるうちに、咲子は駈け出した。

蓮見は首を捻つてゐた。

「何うかと思ふね。君あの子をつれて歩くかい。君の子にするんだつたら、もう少し何とかいふ子がありさうなものだ。籍はちよつと見合したら何うかね。後で迷感のかゝるやうなことがあると困りやしないか。」

蓮見も別に咲子が好きとか嫌ひとかいふのではなかつた。母の子で育てれば好い子になるかも知れないが、ならないかも知れない。好いとか悪いとかいふことも色々で、単純にはいへない。抱へのうちに顔や姿は綺麗だが、物事を単純に考へがちな圭子がじれつたがるほど不決断で、お座敷の取做しなどについて、何か言つて聞かせても、いつも俛いて何時までも黙つてゐる子が一人あるのに、かね/″\業を煮やしてゐた矢先きなので、咲子のてきぱきしたのが、直ぐ気に入つてしまつた。この子だつたら余り何かに世話を焼かせるやうなことはあるまいと思つた。圭子は一直線に進むやうな質の女で、そのために後で悔いるやうなことが出来ても、それに拘はつてゐるのが嫌ひだつた。金を使ひすぎたとか、着物を買ひ損つたといふやうな事があつても、何時までもそれを気にするやうなことはなかつた。

「でも世のなかにそんな好い子供がざらにある訳のものぢやないでせう。それだつたら貴方探して来てちやうだいよ。」

圭子が気色ばんで言ふので、蓮見も、「ぢや、君の好いやうにするさ」と言つて口を緘んだのだつたが、彼とても別に定見のありやうもなかつた。

皆でおでんを食べはじめた。咲子は誰よりも楽しさうに食べたが、そんなにがつ/\してゐるのでもなかつた。

「あんたとこのおでんと、孰がおいしい?」蝶子がきくと、

「うゝん、お父ちやんずつと商売に出ないんだもの。だからね、家ぢや御飯のないこともあるの。馬鈴薯をふかして食べたり、糠にお醤油ついで掻きまはして食べたりした。それにお父ちやん、お酒呑まないと何も出来ないの。元気がなくなると、お酒を呑んぢやおでん売りに行き行きしたもんだけど。」

咲子は「えへゝ」と虫歯を剥き出して笑つた。

圭子は十二三歳の時分、父が大怪我をしてから、貧乏の味はしみ/″\嘗めさせられた方だし、蝶子も怠けものの洋服屋を父にもつて、幼い時分からかうして商売屋の冷飯を食つて来たので、それを笑ふ気にもなれなかつた。

咲子は長い舌を出して、ぺろ/\小皿のお汁まで舐めて、きり/\した調子で皿や丼を台所へ持出した。そこへ電話のベルが鳴つた。咲子は押入の前にある電話機に駈けよつて、畳につく這ひながら、悪戯さうな表情で受話機を耳のところへ持つて行つた。

「駄目よ、駄目よ。」

「むゝん、ちよつと聞かさして……。」

圭子は微笑ましげに見てゐたが、まごついてゐるのに気がつくと、急いで受話器を取りあげた。

「何方さまでせうか。……はあ有ります。どうも有難とう。」

圭子は受話器をかけて、

「蝶子さん月の家!」

手捷こく顔直しをした蝶子の仕度が初まると、咲子は圭子と一緒に立ちあがつて、さも自分が悉皆それを心得てゐるもののやうに、「それをぐる/\捲くのね」とか、「今度これでせう」とか言つて、蓙のうへに一緒くたに取り出された帯揚を取りあげたりした。

「駄目よ、あんた邪魔つけだわよ。」

でも咲子はなか/\引込んでゐなかつた。

「あたいお父ちやんに教はつたんだから……。」

「下駄そろへときなさい。」

「母ちやん私も蝶子さんについて行つて可いでせう。」

「さうね、お出先き覚えときなさい。」

そして仕度が出来あがると、心得たもので、咲子は爪立して、けんどんのうへから燧石を取りおろすと、下駄を穿いてゐる蝶子の後ろからかち/\切火をして、皆んなを笑はせた。

「こいつは大したもんだ。何だか子供らしくないね。」

「でも少し気の利いた子は、皆んな面白がつて、あの位のことするものよ。」

「どこか商売屋にゐたんだね。」

「さうかも知れないわ。あの子の姉さんが十五で余所へ仕込みに住みこんでるさうだから、そこで覚えたんでせう。」

咲子は息急き帰つて来た。

「あゝ可かつた。これで皆んな極まつたんだ。」

蓮見は知らんふりして火鉢のうへで大衆雑誌を拡げて読んでゐたが、咲子は熱心に芸者の玉のことなぞ圭子に聞くのだつた。

「あゝ、さうすると一時間が三本で、二時間になると四本ですか。それから三十分、三十分に一本ですね。」

「さうよ。」

「一本いくらですか。」

「貴方子供の癖に、そんなこと聞かなくたつて可いわよ。」

咲子は肩をすぼめて、「ひゝ」と笑つた。

「お父ちやんお医者さまですか。」

「お父ちやんといふんぢやないよ。」

蓮見が少し不快さうに言ふと、

「だつて此方がお母ちやんでせう。」

「でも、をぢさんといへば可いの。をぢさんには沢山子供さんがあるのよ。」

「あゝ、さうか。ぢやをぢさんとお母ちやん結婚してないの。解つた。ぢやをぢさんに奥さんがあるんだ。」

「ないんだ。」

「ないの! 死んぢやつたんですか。」

「さうよ。」

「あゝ解つた。ぢやあお母ちやんは……。」咲子は独りで呑み込んで、

「ぢやをぢさん先刻家から来たの。こゝにゐるんぢやないの。」

「ゐることもあるし……。」

咲子は圭子を指して、

「お母ちやん今に棄てられる。」

「馬鹿!」

「さお早くお寝なさい。蒲団出してあるから、自分で敷いて……。」

「むうん、眠くないんです。」

蓮見は何か気味悪さうに、しみ/″\子供の顔を見てゐたが、むづと頭を掴んだ。

「抽斗頭だね。おれもさうだが……。鼻も変だね、こゝんとこが削いだみたいで。」

「をぢさんの鼻だつてさうですよ。」

咲子は負けない気で主張した。

日がたつに従つて、この子供の特異性が次第にはつきりして来た。貧乏でも、別にさう悪くは育つてゐないどころか、事によると乱次のない父親の愛情がさうさせたものらしい、子供にしては可愛気のない矜りのやうなものが、産れつきの剛情と一つになつて、それをどこまでも枉げまいための横着さといふものがあつて、何うかすると、現実的な利益の外には、どこまで掘つて行つても、他人の愛情の手に縋るとか、飛びつくといつたやうな可憐しさは微塵もなかつたが、決して卑屈ではなかつたし、柔順では尚更なかつた。後で段々わかつたことだが、圭子と同じやうな商売屋を既に三十軒も引き廻はされて来たくらゐだから、彼女はどこに落ちついて眠り、誰の手に縋つていゝか解らなくなつてゐるのに無理はなかつたが、それは環境が段々さうさせた事には違ひないとは言へ、そんなに多勢の人に見切りをつけられるのには、理由がなくてはならなかつた。

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