四
鷲尾は帰郷してこのかた、二タ月も以前からプランをたてていた小説に何度もとりかかった。子供達を寝かしてから室の隅に電灯をおろして、指先まで凍えながら幾晩も座ったが、どうしても駄目だった。油気のない文章の中に泛びあがる人間は生気も熱情もなかった。そしてどどのつまりはそれが作者である自分の態度にあるんだ、このフラついている気持にあるんだと気がつくと、もう壁にぶっつかったようにペンを鷲づかみにして、原稿紙をピリピリさせながら――この臆病者、卑怯者、子供にも親にもひかれるこの偽者め――などと殴り書きした。
その癖もうすぐ気が滅入り、M君がきた翌日などは、終日戸外へも出なかった。いつもの伝で、…………………書物や原稿紙まで始末してから、軒先の陽だまりにボンヤリ腰かけていた。
どっかで演習でもあるのか、朝からひっきりなしに兵隊が、県道筋を百姓部落のある方へ通っていった。みんな頭から緑と黄のだんだん染の網を冠って、二人、三人ずつで機関銃をかついでいた。背嚢、弾薬帯、短剣、小銃、黄色い鉄帽、その他鷲尾が知らぬようなものを背嚢わきにくくりつけていて、近頃の歩兵は歩くだけでも大変だと思われるほどだった。
腰から下は濛々と舞いあがる埃にかくして、歩兵の一群が過ぎると、間もなく輜重兵の隊列が、重い弾薬車の軌りで町並の家々をゆすぶりながら通った。馬は湯気の様な息を吐き、兵隊達はもう水を浴びたように汗に濡れている。激しい怒声がきこえて、そく足の伝令騎が泡を噛んで一散に駈けすぎる。……
そンなとき鷲尾は思わず呼吸をつめていた。威迫されるような光景に、吾れ知らず懐中の赤ン坊を抱きしめているのである。――
白い埃の渦がしだいに遠のき、だいぶおくれて、指揮官らしい三四人の……が、しずかに馬の上で揺れながら、笑い声をひびかして通りすぎると、いままで軒先や、道傍に避けていた荷馬車や、百姓達がホッとしたようにうごき出した。
「あれは何だい?」
うしろの団子焼の釜の上から首を出している妹に、鷲尾は訊いた。リヤカーに白米を積んだのや、天秤でつっかけた笊に、味噌とか野菜とかを入れた百姓女達、中には赤いネルの腰巻をたらした娘なぞも雑じって、毎朝のように群をなして通る。
「ありゃああた、町ィ売りい出らすとたい。このごろはどうして、よか百姓でん現金な無かとだもん……」
よか百姓でない貧農の女房たちは、売る物もないせいか、ヨイトマケなどに働きにゆく群が、夕方などは鷲尾の家の軒先に、泣き声を嗄らした脊の赤ン坊を揺すぶり揺すぶり近よってきて、赤銭の一枚か二枚かで団子を買って赤ン坊を黙らせ、暗くなった県道筋を帰ってゆくのだった。
県道筋に沿うた土堤上を、鷲尾の末弟たちが勤めている郊外電車が、一時間おき位に通った。塗の剥げた赫ちゃけた電車はグラグラ揺れながら、いつも空らッぽであった。鷲尾が軒先にいると、車掌台からまるくて寒さで赤らんだ弟の顔がツン出て、オーイと叫びながら弁当箱のあいたのを、道傍へ抛り出してゆくことがあった。
そして空らッぽの電車をやりすごし、やりすごし、赤錆びた枕木の上を百姓達が歩いていた。草鞋ばきの古トンビや、市の学校へゆく学生や、大きな風呂敷を脊負った行商人たちや、そんなのがウルさそうに電車を見送ってはあるいていた。
「この不景気は、ナカナカなおる見込みがないんだね……」
夜、めずらしく大工の妹婿が早く帰ってきたので、父親をまじえて酒をのみながら鷲尾はそンなことを喋べりだした。
「第一、世界の資本主義国の何処見渡したッて、景気が回復する材料がないそうだよ」
「はァ、そぎァんですかな……」
一二杯でもう眼をトロンとさせている大工は、さされた盃を不器用に大きな掌をそろえて受取りながら、間の抜けた返辞をした。
鷲尾はいろいろと酒の勢も加わって、社会情勢や、近頃の出来事について語った。こんなとき自分の理解を、聴き手の知識程度まで調節して話すことに馴れている鷲尾であったが、今夜はひどく主観的に相手構わず喋べっていた。判るのか判らんのか、それでもいつもは飯が終るとすぐ眠りこけてしまう大工も、それから冷えた盃をポツネンと抱えている父親も、ボンヤリ口を開けたまま彼の顔を眺めていた。
「そういった時勢だからみんな苦しい。ぼくらのような一小説書きでもそれが労働者の立場にたっていると、却々ラクでない、これからも益々ひどくなるだろう――」
いつの間にか、対社会的な話が、自分個人におちていったのが、鷲尾には別に作為があった訳ではなかった。
「おやじの事だって、長男であるぼくとしてはしょッちゅう気にかかっているし、君達におっつけておいて、それでいい気でいる訳じゃ毛頭ないんだが……」
傍で、むっつりとめしを喰っていた妹が、そのときガタンと飯びつの蓋をして、台所の方へ起っていったのを、鷲尾は酔ってる頭にピンと感じたが黙っていた。
「いや、わしらにゃ恰度子供も出来まッせんけん、なんのおとっつぁん一人くらい……」
人の好い大工は、べつにとりなし顔でもなくそう鷲尾に云った。
「義兄さんは学者じゃけん、まァ一つ兄弟じゅうば代表して名前ばあげて下はりまッせ」
「ありがとう――」
鷲尾は苦笑どころでなく、あらたまった気持で盃をもらいながらこたえた。
「いいとも、ぼくが君たちを代表してそのゥ、名前ばあげるよ」
しかし父親はポツンと淋しそうに肩をすぼめていた。こんなときの癖で、反向けた顔のどッかをボンヤリと見つめているのが、まるで子供のようだった。鷲尾は何かハグらかすようなことでも云わずに居られない気がした。
「それにネお父っつぁン、なかなか老人は東京に居つかないんだよ」
皺くちゃな横顔を追いながら、そんな事実を憶い出しながら云った。
「金持の家じゃべつだけれど、貧乏人の工場町じゃ青い草一本ロクに育たないんだ。家と家とがくっつき合って、太陽のめもささんし、老人の茶呑話なンてしたくも出来ァしねえ――」
「はァい、そうでッしゅなァ」
傍から、妹婿が合槌うった。鷲尾は工場時代からの友達、KやMなどの実例を話した。Kは印刷工で、田舎の兄弟が死んでしまったために、年老った両親を東京へひきとったが、眼のうすい父親も、耳の遠くなった母親も、半年も経たぬうちに田舎の土を恋しがりはじめ、それでも倅のKに怒りつけられれば悄々と、近所の省線電車の土堤などから雑草をぬいてきては、軒先三尺の路地口へそれを植えて、陽のめのささぬ廂ごしに、見えない太陽を振り仰いでいるんだと、Kはいつだったか鷲尾に眼鏡をはずして涙をぬぐいながら語ったのだった。――
「実際、そんなこたァ東京の工場町じゃザラなんだ。田舎が何とかしてるうちぁ貧乏人の年寄ァ東京に来ない、ホンとだよお父っつぁん――」
鷲尾は父親のおこられてでもいるようにしだいに俯むく顔をのぞきながら
「若い者ァ東京だってすぐ育つ、プロレタリアになれるからなんだ。けれど骨の髄まで百姓の年寄ぁダメなんだよ」
老人はクスンと鼻を一つこすっただけで、矢張り何とも云わなかった。勢いあまって喋べってしまったものの、鷲尾はとっつきないような気持で盃をとりあげたが、酒はすっかり冷えていてニガかった。
気がつくとまたすっかり気持が上ずっていて、醒めかかった頭脳がズキズキしていた。妹婿は昼間の疲で、飯台に凭れたまま眠ってるし、鷲尾はいつものように台所へいって水枕をつくると、子供たちの傍にいって横になったが、とても寝つけそうでなかった。――
襖の破けたとなりの室では、亡母の位牌に灯明をあげたらしく、黄色い光が洩れて、やがてチーンと鐘が二つばかり鳴ると、父親の「お題目」を唱える嗄がれた声がきこえてきた。――