大衆、説得力、デマゴギー
私は先日或る代議士候補者の応援演説というものをやって見たが、弁士の控室にいると、一人のよっぱらいが這入って来て、是非自分にも応援演説をさせろと云って承知しない。諸君のような学者の話しは固くて大衆向きでない、諸君は大衆というものを知らぬ、大衆に向っては、よろしく、天に輝く星よ、地に咲く一輪の花よ、という調子でやらなければいかん、というのである。
誰もこんな酔払いの云うことは相手にしなかったが、併し大衆というものが実際何であるかを具に知ることの少ない私などは、この酔払いの主張するような説の内には多少は真理があるのではないかというような譲歩の気持ちもないではなかった。なぜというと、要するにこの酔払いは世間一般の連中(政治屋や新聞記者や床屋のお客など)の通念を代表してそう云っているのだからである。
それに之までの理論家の多くによると大衆という言葉が何か特別に都合のよいような意味に用いられてはいなかったかという懸念もなくはなかった。進歩的な無産者だけを大衆という概念の代表として選んで、社会の大多数の人々は大衆の名に値いしないかのように片づけてしまっていたという憾みがあったかも知れない。
そういう次第でその場に居合わせた私などは、事実多少懐疑的にもなったのだが、処が併し、実際に演説をやって見ると意外にも決してそうではないということが判って来た。下手な講義のような私の咄し、理屈や数字で以て説明を縷々としてやる咄し方、そういうものでも聴衆は可なり熱心に耳を傾けるのである。要所要所では拍手をやる。聴衆は小商人や職人が多かったのに。
尤も政壇演説の聴衆をすぐ様大衆だとは云えないかも知れない。併し総選挙に於ける投票者は少くとも大衆と見做して、まず差支えはあるまい。その結果によると、少くとも理屈っぽい数字入りの説得が確に大衆に対して効果があったということが判る。言論の威力とか云うが、それが現実の生活に触れる限り、如何に複雑な理論も簡潔な説得力を持つものだということを、之は証明しているのである。
今日の大衆は確に理論的な被説得力を持っている、或いは科学的に説得され得る可能性を獲得するに到った、という発見をして私は非常に愉快だったのである。
大衆の頭脳は、今や理論的で科学的だ、彼等の生活がそれを要求している、之を知らないものは、例の酔払いの類だけだという結論になる。酒を須いずしてすでに酔払の範疇に入る者とは誰と誰か。
総選挙の結果は一見無産派の前途を祝するように見られる。だが議会に於ける少数の無産派(?)議員を以ってしては実際へは何等の議決上の実力を持たないだろう。それを他にしての政治的機能についてはここでは政治を論じるつもりはないから触れないが、少くとも所謂無産派の進出なるものは、政治教育の上から云って、極めて大きな教育的な効果と啓蒙的な意義のあるものだと云わねばならぬ。つまり大衆は理論的な被説得力の所有者だぞという、政治常識に対する教育と啓蒙なのだ。
だが之は云うまでもなく大衆の事柄であって、大衆を指導したり支配したりする社会の一部の人達のことではない。だから之によって「世間」そのものが理論的な被説得力を有つようになったとも結論出来ないし、又もつようになるだろうとも結論出来ない。世間というものが現わす現象は、正にその正反対であるかも知れない。
それにこの大衆自身でも、今日有っているこの理論的被説得力がいつもそのまま身についたものだと即断することは危険だろう。大衆がこの理論的被説得力の裡に、超理論的な妄動性の一面を、可能性として持っていることを忘れるならば、被説得能力の誤算となるだろう。大衆に対する理論的説得力の問題は、大衆のこの妄動性(デマゴギー)の可能性をもその内に計算したものでなくてはならぬ。――大衆の理論的説得力の次には対デマゴギーの問題が現に来つつあるのだ。
(四三号・一九三六・三・一五)