一
浅黄色の色硝子を張ったような空の色だった。散り雲一つない、ほとんど濃淡さえもない、青一色の透明さで、かえって何か信じられないような美しさである。例えば、ちょっと石を投げる、というような些細な出来事で、一瞬どんな変化が起るかも知れない、と危ぶまれるような美しさだった。そのとき、私には大空を落下する無数の青い破片を想像することもできた。
しかも、そんな美しさは、時も、空間も、失なわれてしまったような静かさの中にあった。それがかえって私を、不意に激しい不安に陥れたのかもしれない。
妻は隣室で眠り続けている。そう思ったとき、やっと時計の音が、私の耳に返って来た。
時計の音というものは奇妙なものである。小忙しく、いかにも、刻刻と、時の経って行くのを告げ知らせるかのようである。「そらそら」とね。しかも私達はその音をどんなに聞くまいと思ってみても無駄である。聞くまいとすればするほど、その連続音は執拗に耳もとに鳴り響く。しかし、いつかその音は消えてしまう。というよりは、ふと、再びその音に気づいたとき、今までのその音の無い数刻を何か空しく思い返すのである。不思議なことには、そういうとき聞く、時計の音というものは、一種の安心感にも似た、懐しさを持っているものだ。
妻はまだ眠り続けているようだ。静かである。
昨、夜中のことだった。私は深い眠りの中で、妻の呼び声を聞いたようだ。が、より深い眠りが襲ってきて、私はその中に沈んで行く。が、暗い靄のような眠りの中にまた妻の呼ぶ声が聞こえる。
「誰か、誰か、起きてほしい」
眠りを振りきるようにして、目を開いた。
「どうかしたか」
「痛い、痛い。按摩さん、呼んで来てほしい」
時計の音がはっきり耳に響いて来る。時計は十二時近かった。
「按摩さん、それは無理だよ。もう十二時だものな」
「そんなら、ちょっとでいいから、揉んでもらえないかな」
「やれやれ。じゃ、ほんのちょっとだよ」
私は妻の骨ばった、皮だらけのような肩を揉み始める。妻は黙って揉ませている。今夜のは、それほどの痛みとも思われなかった。
この頃、夜眠れない妻は、昼うつうつと眠る癖がつき、そのため余計眠れず、長い夜の不安と、片時も鎮まることのない神経痛の痛みとが、黒闇から湧き起る、一種の強迫観念となって、狂おしく人の名を呼び叫ぶのではなかろうか。しかし私には明日の仕事もあった。
「じゃ、これぐらいで、止すよ。あんたのは限りがないのだからな」
「そんなら、按摩さん、呼んでもらえないかな」
睡眠の関係からか、妻はよく時間を錯倒するらしく、この間も、夕方私が酒を買いに出ると、妻はうふふうふふと笑いながら、
「こんな朝っぱらから、お酒売っている所なんかないのにね」と言った由で、酒を提げて帰って来た私を、いかにも怪訝そうに眺めていたこともあった。
「また、時間、間違えているんだね。按摩さんて、もう、そら十二時半だよ。真夜中なんだよ」
「痛いなあ。どうしよう。眠れんなあ」
「あんたなんか、いつ眠ったっていいんだ。夜眠れなかったら、昼眠ったらいいんだからね。無理に眠ろうなどと思わずに。そら、いつかいいこと言ったじゃないか。呻くのは、痛いのを訴えているのではない。痛さに調子を合わせているんだってね。そういう風に、痛さにも眠りにも、抵抗せずに、隙を見て、すうっと眠ってしまうんだね。とにかく、僕は眠るよ」
私は蒲団の中に入った。軈てうとうとと浅い眠りが纏りついてきた。
「いいなあ。直ぐ眠れて」
「あああ、痛いなあ」
確かに、私はこの快い眠りとの戯れの中に、妻の声を聞いた。闇の中に、ただひとり目を開いている、妻の姿を思わぬでもなかった。しかし、もしもこの眠りとの戯れをちょっとでも中断すれば、眠りは忽ちどこかへ消え去ってしまうことも私はよく知っていた。私は狡く聞こえぬふうを装って、眠りとの戯れの中に、身を委ねていた。
変な音に、はっと目を覚ました。妻は畳の上に嘔吐していた。
「えっ、どうしたんだ」
私は飛び起きて、妻の背を撫でた。しかしそのときには妻の嘔吐はもう収っていた。
「何がいけなかったんだろう。小野さん、呼んでこようか」
「もういいの。小野さんなんかいい」
枕もとの汚物を、始末しながら、私は妻に言うのだった。
「ねえ、こんな時には、起こしてくれるんだよ」
「だって、あんまり度度、すまないもの」
「すむも、すまないも、場合によるよ」
「そんなら、ついでにおしっこしようかな」
「よしきた」
私は妻の蒲団を撥ねのけた。途端に、蒲団の中から白い煙が捲き上り、きな臭い匂が鼻を突いた。その夜、初めて子供が作った電気炬燵が引っくりかえり、櫓を焦がしているのだった。火は蒲団にも移っていた。
「電気炬燵が大へんなんだ。ちょっと、ここへ避難してね」
私は妻を畳の上に寝かせておき、流もとにあった鍋の水を蒲団の上にぶっかけた。ジュッと短い音をたてて、火は直ぐ消えた。真黒に焦げ固った綿の中へ、私はもう一杯水を流し込んだ。
「さあ、もう大丈夫、寒かったろう」
私は妻を抱き上げた。妻は私の手の上で、泣き顔して、子供のような声を上げた。
「怖いよう、電気炬燵は怖いよう」
「うん、僕もあんなもの好かんね。子供のやることは、ほんとに油断出来ないよ」
妻が用を足している間に、私は私の蒲団を敷きかえたり、押入から破れ蒲団を引きずり出したりして、妻の床を敷き、ようやくその上に妻の体を抱き下した。
「さあ、やれやれだったね。どうかな、これで寒くないつもりだが」
妻の蒲団を掛けてやると、私は子供の蒲団の間に潜り込んだ。十二歳の少年の体と、十五歳の少女の体が温っていた。が、どちらの蒲団も丈が短く、私は足の置き場にも困り、今度はなかなか眠れそうにもなかった。不意に、妻の泣き声が聞こえてきた。
「寒い、寒い、寒いなあ」
「そうか、炬燵をうっかりしていたわい」
「怖いなあ、電気炬燵は怖いなあ」
「そんな電気炬燵じゃない。父さん式、粉炭こっぽり入れて、ほこほこしたの入れたげようね」
紙屑を集め、マッチを擦って、火を移した。ばたばたと軽く団扇で煽ぎながら、炭かけもその上に乗せた。深夜の台所の電灯というものは侘しいものだ。蜘蛛の巣、大根の干葉、蜜柑の皮、汚れた折板、空瓶。板の間の隙間洩れる風が、裾の間から入ってくる。睾丸が縮むようだ。またばたばたと団扇を動かす、ピンピンと炭がはぜる。隣家の時計が二時を打った。と思った途端、自家の時計も、五分前の時を刻んだ。
「さあ、おこったよ。暖いの、入れてあげるからね」
私は妻の床の中に炬燵を入れ、痩せ細った脚二本、はだけているのを直してから、蒲団を伏せ、その裾の上を二つ三つ軽く叩いた。そうして、私は再び子供の蒲団の間に潜り込んで、いつか眠ってしまったのであった。
四囲、深い夜陰に包まれた中で、いかにもぽつんと五燭の電灯一つ点っているような出来ごとであった。まるで夢のようでもあった。今朝、起きてみると、妻はすやすやと眠っているではないか。珍しく、頭の痛みも鎮まったのか、穏やかな顔して、いかにも安らかに眠っていた。しかもこれはまた何という素晴らしい空の色であろう。雲もなく風もなく、光さえも吸い取ってしまったような、ただ青一色の空の色だった。
しかし、それにしても、この空の色はあんまりに美し過ぎた。騙し舟。折紙の、帆先をどんなに一生懸命持っていても、目つむれば忽ち舳先と変っている。それは少年の頃の幼い哀しみ。これにはもっと恐しい仕掛からくりがあるかも知れない。それに白昼、あんまりに静か過ぎた。何かに吸い込まれて行くような静かさだった。
私は、思わず立ち上り、隣室の妻の所へ行ってみた。妻は相変らず眠っている。私は妻の枕許に跼み、暫く腕組んで、その様子を眺めていた。吐く息、吸う息、いかにも安らかな呼吸だった。が、私は妻のいつにないそんな平静な状態が、かえってある不安を呼び起した。
「母さん。母さんよ」
私は妻の肩を揺ってみた。しかし妻は何の応えもなく眠っている。初めて、それかと気づいた私は、泣き声を殺して駆けて行く子供のような顔をして、医者の所へ走って行った。