Chapter 1 of 5

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古井戸

豊島与志雄

初めは相当に拵えられたものらしいが、長く人の手がはいらないで、大小さまざまの植込が生い茂ってる、二十坪ばかりの薄暗い庭だった。その奥の、隣家との境の板塀寄りに、円い自然石が据っていた。

「今時、これほどの庭でもついてる借家はなかなかございませんよ。それですから、家は古くて汚いんですけれど、辛棒して住っておりますの。」

「そうですね。手を入れないで茂るに任してあるところが却って……。それに、あの奥の円い石が一寸面白いですね。」

そんな風に、彼は主婦の房子と話したことがあった。

その円い自然石の側に、梅雨の頃、いつとはなしに、軽い地崩れがして穴があき、それが次第に大きくなっていって、流れこむ雨水をどくどくと、底知れぬ深みへ吸い込んでるようだった。

「片山さん……こんな大きな穴が……。いつ出来たのでしょう。」

梅雨あけの爽かな朝日を受けて、房子が箒片手に、こちらを振向いていた。

「今気がつかれたんですか。呑気ですね。」

縁側から庭下駄をつっかけて、彼はわざわざやって行った。

が、よく見ると、石の側にぱくりと口を開いて、斜めに深くおりていってる穴は、広さはさほどでもないが、何だか大きな洞窟の一部分とでもいうような、測り知られぬ感じを持っていた。その上、穴の口から大きく半円を描いて、二筋三筋断続した地割れがしていた。

「土竜のせいでしょうか。」

「さあ、土竜にしちゃあ……。」

「では……。」

「何だかえたいの知れない穴ですね。」

「ええ、気味の悪い……。これからせっせと塵芥を掃きこんで、埋めてやりましょう。」

然し、彼女が時折掃き込む塵芥では、なかなか埋まりそうもなかった。一時口が塞ったかと思うと、次の降雨の後には、またぱくりと口を開いていた。

彼は何故ともなく、その穴と穴の上の自然石とに、注意を惹かれていった。

二抱えほどの、ただ円っこい普通の石だったが、木石の配置上そこに据えられたものではなく、掘り出されたのか転ってきたのかをそのまま投ってあるような、不自然な位置を占めていた。その石から一二尺離れて、半円形に断続の地割れがして、その一端に、一尺足らずの細長い穴が、斜めに深く、横広がりにあいていた。棒を突込むと、柔かな泥の感じでずるずるはいりこんで、それから先は石の壁のような固いものにつき当った。穴の周囲を足で踏むと、石との間の地面だけが、五寸ばかり崩れ凹んだ。石の下深く、大きな洞窟にでもなってるかのようだった。

「片山さん、何してるの。」

或る時、娘の光子が、家の中から見付けてやって来た。

「あら。」

大きくなった穴と彼の顔とを、じろじろ見比べていたが、俄に真面目な顔付になった。

「そんなことをすると、お父さんに叱られるわよ。」

「え、どうして。」

「危いんですって。」

「なぜ。」

「なぜだか……この辺で悪戯をしちゃいけないって、お父さんがそう仰言ったの。」

「じゃあ、この石の下に何かあるの。」

「知らないわ。」

光子は実際何にも知らないらしかった。

彼は棒を投げすてて、首を傾げた。

――或るところで、古金銀貨幣、時価約三千円ほどのものを、庭の隅から掘り出した。維新当時、壺に納めて埋めてあったものらしい。

そういう新聞記事を、彼は二階の室に寝そべって、心の中で繰り返していた。馬鹿馬鹿しいが、それだけにまた空想を誘われた。

ふと、半身を起して眺めると、檜葉や椿の茂みごしに、庭の奥の穴のところに、人影が動いていた。彼が幾度かなしたと同じように、棒切で穴の底をつついてみたり、穴のまわりを踏んでみたりしている。それが、主人の松木庄作だった。

ははあ………という気持と、太い奴だ……という気持とで、彼はのっそり立上って、階下の縁側へ降りていった。

庭の植込の影から、松木は陰欝な顔付でやって来た。朝早くから何処へともなく出かけて行き、夜分になって帰って来て、訳の分らない書類と睥めっこをしてる、いつもの通りの顔付だった。

「今日はお出かけじゃないんですか。」

「ええ。」

ぶっきら棒な返事だけで、縁側に来て腰をかけた。

「何でしょう、あの向うの穴は。」

「さあー、土竜か何か……。」

事もなげに答えて、彼の顔をじろりと見た。が暫くすると、ふいに口を開いた。

「あの分だと、上の石がめり込んでしまうかも知れません。」

「いい石ですね。」

「何に使ったものですか……惜しい石ですよ。あれくらい大きな、自然に円みのある石は、なかなか安かありません。惜しいものです。」

そしてまた彼の顔をじろりと見た。その眼付が、いつぞや、格安の売物だが知人に買手はないだろうかと、住宅の図面を二三枚彼に見せた時のそれと、同じように底光りがしていた。

「じゃあ、わきにどけたらどうでしょう。」

彼もちらと松木の顔を見返した。

「二人で動かせますかね。」

「大丈夫です、あれくらいの石なら……。」

石が問題じゃない、後が見物だ、と思って、彼は勢よく跣足で飛び下りた。

鉄棒、荒縄、鍬そんなものが用意された。

石は半ば土に埋ってるように見えたが、案外底が平らで、実は地面にのっかってるだけだった。深く掘る必要はなかった。然し、鉄棒を梃にして押し動かそうとすると、そこの地面が崩れ落ちたり、足がめいり込んだりして、一寸困難だった。がそれが却って仕合せで、荒縄を下から通すことが出来て、二人で運び動かせた。

ほっと息をついて、見ると、思いもよらない大きな穴が、宛も陥没地のような風に、縁に一尺ばかりの断層を見せて、そこに口を開いていた。

「一体何でしょう、ここは……。」

彼はちらと松木の顔を見やった。

「池でも埋めた跡ですかな。」

松木はそっぽを向いて、額の汗を拭いていた。

「それにしても……。」

方々を力足で踏んで見ると、陥没の範囲が次第に大きくなっていった。

「掘ってみましょうか。」

「さあーうっかり手をつけて……。」

「なあに、御自分の庭じゃありませんか。金魚池でも掘るつもりにすりゃあ……。」

松木はじろりと彼の顔を見た。

「なるほど、金魚池……。」一寸間を置いてから早口に云い初めた。「光子が金魚が好きでしてね。随分買ってやったものですが、何しろ硝子の容物でしょう、じきに死んでしまうので、それきり一切金魚は止めましたが、ここに池を掘ってやりゃあ、そんなこともありますまい。なに訳はありませんよ。私一人で充分です。この通りもう崩れかかってる地面ですからね。……だが、まあ立合ってみて下さい。もし白骨でも出て来ると、厄介ですから……。実際えたいの知れない穴で……あなたが立合っていて下されば安心です。」

縁側の方へ小走りに馳けていって、着物を脱ぎすてて、褌一つきりになって戻って来た。

彼は鉄棒を持って、移し動かした石に腰をかけていた。

松木は穴の中に踏みこんで、その縁から次第に掘り拡げていった。案外隆々とした筋肉の上に、茂みを洩れてくる日の光が、明るく躍りはねた。発掘は容易らしく、上層の固い地面以外は、みな柔かな黒土で、膝頭ほどの深さになっても同じような土ばかりだった。穴はどこへいったか、掘り荒されて分らなかったが、やがて、がちりと鍬の先に音がして、小石交りの層となった。

「ほう、これは……。」

汗にまみれて、鍬の柄を杖につっ立った松木の眼は、異様に光っていた。

「いやに小石がつめてありますね。」

彼も思わず眼を光らして覗き込んだ。

「そしていやに固まってるんで……。」

小石の層に添って、松木は益々掘り進んでいった。それが次第に円く、径四五尺の円となった。周囲はみな小石がつまって固く、中だけ新らしい黒土で柔かだった。それを膝頭の上まで掘り下げた時、松木は穴から飛び出して、暫く首をひねって考えた。

「これは……何ですよ、屹度、古井戸の跡ですよ。」

「え、古井戸。」

彼も立上って穴を覗いた。

「古井戸を埋めた跡です。」

云われてみれば、全くそれに違いないらしかった。

「じゃあ、いくら掘っても駄目ですね。」

「駄目です。」

うっかり云って顔を見合った。瞬間に、松木はひどく兇悪な表情をしたが、次にはアハハと高笑いをした。

「古井戸の上に金魚池を掘ろうとしたところで、とても……。」

駄目だ、とはさすがに云いかねたものか、ぷつりと口を噤んで、それから急に腹立ったらしく、掘り起した黒土を元通り直しにかかった。

土がすっかり元に直るまで、松木は一休みもしなかった。朝日の光を受けてる、その脂ぎった体力のよさを、彼は皮肉な眼で眺めていたが、何故だか、自分自身も一寸気持が納まりかねた。

掘り返されたためか、土の不足も見せないで、地面は平らになった。

「ついでに一寸手伝って頂きましょうか。」

松木はいきなりそう云い被せて、彼に手伝わせながら、円い自然石を庭の程よいところに据えた。それから更に不機嫌そうに、裏口の方へ行ってしまった。

松木が手足を洗って銭湯へ出かけた後まで、彼は縁側に腰掛けて、ぼんやり煙草を吹かしていた。

そこへ、房子がやって来た。

「あの穴は、何だかお分りになりましたの。」

「え、松木さんは何とも仰言らなかったんですか。」

「ええ、宅はいつでも、何にも聞かしてはくれませんし、わたしも別段……。」

「へえー。不思議ですね。」

どこが不思議だというような面持で、彼女はまた尋ねた。

「そして、あの穴は……。」

「古井戸を埋めた跡だそうです。」

「古井戸、」と一寸眼を見開いた。「そう分れば、安心ですわ。」

「安心ですって。」

「ええ、わたしはまた、お墓の跡ででもあると困ると思って……。」

善良そうな眼で庭の方を透し見ていた。

ククク……と彼は突然笑い出した。

「あら、何を笑っていらっしゃるの。」

千三や……と云っても、万に三つも当るかどうか分らない松木が、宝を掘出しそこねて腹を立てたことと、何にも知らないでいる細君が、古井戸の跡と聞いて安心したこととが、変に対照をなして、納まりかねてた彼の気持を落付かした。

彼はまた、ククク……と独笑いをした。

ふうわりと土を被せた古井戸の跡は、降雨の度に少しずつ凹みながらも、もう穴を開くようなことはなかった。そして円い自然石だけが、荒れた庭の真中に、得意然と構えていた。

彼はいつしか、古井戸のことを忘れかけた。ところが、その秋の或る夜、怪しい夢をみた。

――何処だか分らない、或る床の高い縁側に腰掛けていた。前は広々とした庭で、築山や植込の模様から配石の工合まで、昔の大名の屋敷を思わせるものがあった。その庭の真中に、井戸があった。おや、と思って見たとたんに、井戸の真上に、車巻の枠の上に、若い女が腰掛けている。着物は分らなかったが、高島田に結った綺麗な女で、彼の方を見てにこにこ笑っている。お転婆な女だなと思って、彼は二口三口からかいかけた。何と云ったのか文句は覚えていないが、女がなおにこにこしているので、次第にひどい悪口を云い初めた。するうち、女は俄にきりっと眉を逆立てて、「何を!」と男のような声で怒鳴りつけて、井戸枠からするすると下りて、真直にやって来る。彼は逃げようとしたが、どうしても身体が動かない。もう女は眼の前にやって来て、彼の着物の襟を掴んで、締めつけ初めた。馬鹿に大きな力で、大磐石にでも押えつけられたようで、いくらいても、身動きさえも出来なかった。女はなおも襟元をしめつけながら、ぐいぐいと押してくる。彼は縁側の柱に押しつけられ、息がつまり、身体がひしゃげ、苦しさにむーとこらえた、とたんに、ほーとして眼が覚めた。

身体中にねっとり脂汗をかいて、手足が痺れていた。がそれよりも更に不思議なのは、夢に見た光景が一々、覘眼鏡ででも見るように、実物以上の透き通った明瞭さで、まざまざと頭の中に残っていた。庭の有様、車井戸、井戸枠に腰掛けてる高島田の女、その女がすーっと下りてきて襟を締めつけたこと、それが一々、陰影のない明るさで浮び上っていた。ただ、庭以外のことと、女の首から下とだけは、何にも分らなかった。

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