Chapter 1 of 4

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幸福というものは、何時何処から舞い込んでくるか分らない。それをうまく捉えることが肝要なのだ。――あの朝、遅くまで寝床に愚図々々してた時、天井からすっと蜘蛛の子が降りてきた。あるかなきかの細い一筋の糸を伝って、風よりも軽いちっちゃな蜘蛛の子が、室の中に澱んだ空気の間をぬけて、すーっと降りてくる拍子に、私の顔へぼやりと落ちかかった。微妙な一種の感触――それもあるかなきかの――に、ふっと眼を開くと、糸をたぐりながらくるくると動かしている手足の中にまるまった灰白色の蜘蛛の子は、私の顔から二三尺上の宙に浮んでいて、だんだん上へ昇ってゆく、と思ううちに、もう見えなくなってしまった。その瞬間に私は、「これは縁起がいいな」と思った。後で考えると、朝蜘蛛は縁起がいいということを聞いたようでもあるし、天井から降りてくる蜘蛛は凶兆だということを聞いたようでもあるが、兎に角、あの瞬間に縁起がいいと思ったのが仕合せだったのだ。なぜなら、そんな筈はない訳だけれども、それでも何となく私には、そう思ったために伯父の手紙も私の手にはいったように考えられてならないのである。――それから一時間とたたないうちに、伯父の手紙が私の手許に届いたのだった。

私は机の抽出から洋封筒を取出してみた。中をあらためると、やはり十円紙幣が五十枚ちゃんとはいっていた。その束を掌の上にのせてみると、軽やかな中にも何だかずっしりとした重みを含んでるようだった。私はその一枚をぬき取って仔細に眺めた。冠を頂いた誰かの肖像や神社などを刷り込んだ表面よりも、凡てが模様化された裏面の方がずっといいと思った。それから、全体の色と紙質とが非常にいい。両手で引張ったり爪先ではじいたりしてみると、緻密な強靱な音を立てる。しまいに私は何気なく、それを日の光りに透してみた。すると、アラビヤ数字で十と刷り込んである下に、五七の桐の模様がありありと浮出してきた。表からも裏からも見えないように、紙の中に漉き込んであったのだ。私はこの意外な発見に一層嬉しくなった。嘗て必要以外の金を手にしたことのなかった私には、不意に舞い込んできたその紙幣が、貴い玩具のようにさえ思えてきた。兎に角、五七の桐を漉き込んだこの五十枚の紙片があれば、可なり面白いことが得られそうな気がした。

私はそれをまた洋封筒の中にしまって、それから、念のために――全く念のために、伯父の手紙をもう一度読んでみた。幾度読んでも同じだった。「謹啓益々御多祥……」云々という例のきまり文句が真先に出て来たが、「平素充分の事も出来不申汗顔の至り……」などと妙に卑下した調子に変ってるのも可笑しかった。私は父の死後、国許の母から毎月四十円ずつの生活費を送って貰うことになっていたが、それでは到底足りないので、時々伯父へ幾何かの補助を願っていた。それをいつも文句なしに送ってくれる伯父は、汗顔の至り所ではなかったのであるが、私には、伯父がそう書いた気持ちがよく分るような気がした。「此度意外の利得有之、其喜を貴下にも分たんが為、五百円送付候に付、年玉としては余りに時期後れの感あれど、兎に角受納被成度……」と書いていった時の伯父の得意げな大様な顔付を、私は眼に見るような気がした。実際、新緑の侯になってからお年玉もないものだけれど、平素私を実子のように愛してくれてる伯父からの贈物だから、私もお年玉として無条件に受納する心になったのだった。が伯父の方には愉快な条件が一つついていた。「生活費其他無用の使途」に当てずに、勉強のために使って、「一時も早く成功有之度」としてあった。生活費を無用な費へのうちに一括したのも面白かったし、芸術家たる私に向って成功しろというのも面白かった。

私はその手紙を巻き納めて、それから改めて五百円を前に据えて、さて、考え初めた。全く自分の自由に使っていいとなると、一寸適当な使途が見当らなかった。きりつめた生活をしてはいたが、別に借金というものもないし、特に必要な物とてもなかった。思いあぐんでぼんやり室の中を見廻すと、卓子、椅子、机、書架、絵具箱、カンヴァス、額縁、凡てが貧しいなりにも満ち足っていた。足ることを知る者は富者なり、という所へもってきて、五七の桐を漉き込んだ五十枚だから、猶更あり難いような気がした。私は仕方なしに――嬉しいから仕方なしに、両膝を立てそれを両手に抱いて、臀の肉の上にゆらりゆらりと身体を揺り初めた。眼はいつしか天井を仰いでいた。あの天井から蜘蛛の子がすーっと降りて来たのだ! 私は微笑みにくずれかかる口元をそのままつぼめて、口笛を吹いていた。愉快だった。じっとしておれなかった。

私は立ち上りかけたが、また腰を下した。頭の中に一つの製作が形を取り初めた。壁に掛ってる自画像やダ・ヴィンチのモナ・リザが起縁となって、胸底に秘められてる愛が具体化されかけてるのであった。逆光線のうちに黄色っぽく浮出してる自画像に、私は、貧しい生活を苦闘しつつある青年の、悲痛な意志や希望やを表情させたつもりでいたのだが、今になってよく眺めると、その表情も単なる憂欝であるような気がし、更になお見つめると、単なる感傷に過ぎないような気がした。もっと力強い晴々としたものが、苦闘のうちにもあるべきだった。モナ・リザの方にしても、あの威嚇的な背景にもっと動きがほしかった。両手を組んで謎の微笑を浮べてるあの平静さも、何となく物足りない気がした。私は彼女に深い夢と躍り立つ喜びとを与えてやろう! そう思うと、胸があやしく震えてきた。私の彼女よ、私の彼女よ、……彼女はどんなに愛に満ち充ちていることだろう!

静子という名前までが、実にいい響きを持っていた。私は立上って、窓を開いて眺めた。晩春の光りが、彼女の住む家を包んでいた。家根の瓦が一枚一枚鱗のように光っていた。板塀越しに見下せる庭の片隅に、松と檜葉との黝ずんだ緑の間から、なよやかな楓の枝が伸び出して、可愛いい若葉を開いていた。

新緑の喜びと愛とが私の胸に溢れてきた。私はそれを表現せずにはいられない衝動を感じた。彼女にポーズして貰おう。そして傑作を作るのだ。そのことのために五百円を使うことにしよう。それはまた、伯父の心にも最も添うわけだった。

輝かしい途が見出せると、もう一刻も猶予していられなかった。私は五百円の洋封筒と自分の小さな蝦蟇口とを、一緒に懐の中にねじ込んだ。そして、絵具や画筆やカンヴァスや、凡てを新らしく買い求めるために、青いソフト帽を眼深にかぶって家を出た。

蝦蟇口にはいれきれないほどの金を洋封筒の中に持ってるということが、妙に可笑しくてまた嬉しかった。電車の中で、自分の下に轟く車輪の響きに耳を傾けている時、馬鹿げた笑いがふと私を囚えた。頬の筋肉が自然にびくびく震えて来て、私は思わずくすりと笑った。向う側に腰掛けてる人々が、不思議そうに私を見ていた。それを見返してやると、中に一人、栄養不良らしい顔色をした中年の男が、眉根をしかめて憐っぽい瞬きをした。私は危く放笑そうとした。それをこらえるために、帽子の縁の下に顔を伏せて唇を噛んだ。後から後からと湧いてくる笑いに、頬の筋肉がぴくぴくと震えるのが、変に擽ったいようで仕方なかった。

文房堂に行って見ると、丁度ケンブリッジの絵具が沢山揃っていた。彼女を描くのに私が求めていたのも、不変色としては最も完全なこの絵具をであった。私はそのスタヂオ・チューブを、色によって二本から五本位まで、十三四種選んだ。それから、フランス製の上等のカンヴァスを、四十号のを三枚求めた。四十号大の半身像を描くつもりだった。画筆なども新らしく一揃い買った。そして帰りに、額縁屋に寄って見ると、丁度私の気に入ったのが一つあった。

それらの代価を支払うのに、私は懐から洋封筒を取出して、無雑作に紙幣を引出した。気がついてみると、番頭がじっと私の手元を眺めていた。私は一寸極り悪い思いをした。初め五百円の金を銀行で受取った時、私は何の気もなく自分の蝦蟇口を懐から出したが、札束が余り嵩張っているので、慌てて蝦蟇口を懐にしまい、札束を手に握ったまま、こそこそと逃げ出したものだった。それで結局、二度極り悪い思いをしたわけだった。私は立派な革の紙入れを買おうと思った。然し、それがどの位の価のものであるか分らなかったし、またそんな物にこの楽しい金を費したくもなかった。

家へ帰ってみると、洋封筒の中には、なお二百七十円余り残っていた。私はそれを丁寧に本箱の抽出にしまった。

途中で買ってきた敷島を一本取って、胸深く吸い込んだ。口と鼻とから吐き出すもやもやとした煙の間に、煙草の先から出る紫の煙が一筋にすーと立ち昇ってゆく。何とも云えないいい気持ちだった。やがて私は煙草を投り出して、それから改めて、机の上に絵具のチューブや画筆などを並べて、しげしげと眺め初めた。終りに私の眼は、いつのまにかモナ・リザの画面に注がれていた。高く秀でた少し不気味な額、上目がちな深い眼、それらが静子によく似ていた。ただ、顔の下半部が非常に異っていた。静子の鼻はもっと短く、口がもっと小さく、頬がふっくらとしていて、輝かしい微笑が絶えず流動してるのであった。そう思ってモナ・リザの方をよく見ると、頑丈な先端に終ってる長い鼻や理知なが、変に硬ばってるように思われた。謎の微笑の陰影のために、口元が何となく狐憑きみたいになっていた。ダ・ヴィンチは恐らく狐憑きの女の顔を知らなかったのだろう。そう思うと一人で可笑しくなった。

私は長い間室の中に寝転んで、自分の空想を楽しんでいた。お上さんが夕食の膳を運んできた時、喫驚して飛び上った。

「まあ、何を慌てていらっしゃるの。」

私はつっ立ったままお上さんの顔を見下した。私の様子を窺いながら答えを待ってる彼女の顔は、口が尖って額に皺が寄っていた。私は可笑しくなったのをごまかすために頭を掻いた。

「今日は変ですよ、あなたは。」と云いながらお上さんは机の方へ寄ってきた。「あら、絵具を沢山……。分った、それで嬉しがっていらっしゃるのね、子供みたいに!」

私はにこにこしながら云った。

「今に額縁を一つ届けてくる筈ですから、受取っといて下さい。」

「はい。何か大きい絵でもお描きなさるんですか。」

私はただ笑顔で答えた。静子の肖像を描き上げたら、お上さんはどんなに喫驚するだろう! そして……。

その時、私は俄に後ろへ引戻されるような心地がした。彼女が果して私のためにポーズしてくれるだろうか? それを彼女の父親は許してくれるだろうか?

私は自分の迂濶さに我ながら呆れてしまった。絵具やカンヴァスや額縁までも取揃えながら、そして頭の中で彼女の肖像を既に描きながら、まだ一度も、彼女がポーズしてくれるかどうかを考え及ぼさなかったのである。実際私はどうかしていた。こんな筈ではなかったのである。

私はお上さんに交渉して貰おうかと思ったが、それでは却ってぶち壊しになりそうだった。と云って、自分で交渉に行く訳にもいかなかった。兎や角思い惑った後私は、静子に逢った時事情を話して承知して貰おうと決心した。

所がなかなかその時機が得られなかった。私が下宿してる家と彼女の家とは、中に一軒挾んだ軒並で、裏口は共通の路次になっていた。私はわざわざ朝顔の種を買ってきて、裏の垣根の所にそれを蒔き、土を弄ったり水を撒いたりして、幾度も愚図々々時間を費してみたが、静子はどうしたのか姿を現わさなかった。

私は自分自身の姿が何だか惨めに思われだしてきた。喜びも悲しみもつまらないもののような気がしてきた。そして或る時、やはり裏口に出て其処に屈みながら、ぼんやり地面を眺めていた。すると、奥深い青空を背景にして静子の姿が、まるで雲のようにふうわりと而もはっきりと、私の頭に映ってきた。私は頭の中にそれをじっと見守った。夢を見てるような気持ちだった。余り変なので、ふとふり向いてみると、私は喫驚した。お納戸色の地にぼんやり菊の花を浮出さした着物が、私の眼を遮った。見上げると、実際の彼女が少し小首を傾げて、眩しそうに微笑んでいた。

私は立ち上った。咄嗟の間に口が利けなかった。

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