一
二人の借りている二階の硝子窓の外はこの家の物干場になっている。その日もやがて正午ちかくであろう。どこからともなく鰯を焼く匂がして物干の上にはさっきから同じ二階の表座敷を借りている女が寐衣の裾をかかげて頻に物を干している影が磨硝子の面に動いている。
「ちょいと、今日は晦日だったわね。後であんた郵便局まで行ってきてくれない。」とまだ夜具の中で新聞を見ている男の方を見返ったのは年のころ三十も大分越したと見える女で、細帯もしめず洗いざらしの浴衣の前も引きはだけたまま、鏡台の前に立膝して寝乱れた髪を束ねている。
「うむ。行って来よう。火種はあるか。この二、三日大分寒くなって来たな。」と男はまだ寐たまま起きようともしない。
「今年も来月一月だもの。」と女は片手に髪を押え、片手に陶器の丸火鉢を引寄せる。その上にはアルミの薬鑵がかけてある。
「うむ。月日のたつのは全く早いな。来年はおれもいよいよ厄年だぜ。」
「そう。全く憂欝になるわよ。男は四十からが盛りだからいいけれど、女はもう上ったりだわ。」と何のはずみだか肩を張って大きな息をしたのが、どうやら男には溜息をついたように思われた。
「誰だって毎年年はとるにきまっているからな。」と男は俄に申訳らしく、「まアいいやな、こうして暮して行けれァ何も愚痴を言う事はない。別に大した望みがあるじゃなし……なアお千代、おれは全くこうして暮していられれば結構だと思っているんだ。」
「それはそうよ。だけどこうして暮して行けるのも永いことはないわよ。もう……。」
「もう。どうして。」
「どうしてッて。わたしとあんたとはいくらも年がちがわないんだもの。わたしの方じゃ稼ぐつもりでもお客の方が……。」と言いながら女は物干台の人影に心づいて急に声をひそめる。男は夜具から這出して、
「そうなれば、おれも男だ。お前にばかり寄ッかかっていやしない。お前はおれの事を意気地なしだ――それァあんまり意気地のある方でもないから何と思われても仕様がないが、おれだって行末の事を考えずにこうしてぶらぶらしているんじゃない。年を取ってから先の事はいつでも考えている。だから、お前の稼ぎは今までだって一厘一銭だって無駄遣いをした事はないだろう。それァお前もよく知っているはずだ。なアお千代。」
囁くような小声ながらも一語一語念を押すように力を入れ、ぴったり後から寄添っていつか手をも握りながら、「お前、もうおれがいやになったのか。」
「そんな事……だしぬけに何を言うのさ。」とびっくりした調子で女は握り合った男の手をそのまま、乳房の上に押当てた。
裏口の引戸を開ける音とともに物干台に出ていた女がどしんと板の間へ降りる物音。つづいて正午のサイレンが鳴り出す。女は思直したように坐り直って、
「もうそんな話、よしましょう。ねえ、あんた。じゃア後で郵便局へ行って来て下さいねえ。」
「うむ。じゃア今の中……飯を食う前にちょっと行って来よう。」男は立上って羽織も一ツに襲ねたまま壁に引掛けてある擬銘仙の綿入を着かけた時、階下から男の声で、
「中島さん。電話。」
「はい。お世話さま。」と返事をしたが、細帯もしめぬ寝衣姿に女の立ちかねる様子を見て、男は襖に手をかけながら、
「おれが出てもいいか。」
「いいわ。懇意な家へは弟がいるといってあるんだから。」
降りて行った男は、すぐさま立戻って来て、「芳沢旅館だとさ。急いで下さいとさ。」
「そう。」と女は落ちている男の細帯を取って締め、鏡台の上の石鹸とタオルとを持って階下へ降りて行くと、男は床の間に据えた茶棚からアルミの小鍋を出し、廊下に置いてある牛乳壜を取ってわかし始めた。夜昼ともに電話がかかって来て、飯を食う暇のない時には女は牛乳か鶏卵で腹をこしらえて出掛けることにしているのである。牛乳がわきかけた時、女は髪を直した上に襟白粉までつけ、鼻唄を唱いながら上って来て鏡台の前に坐り、
「あんた。おあがんなさい。昨夜おそく食べたから、わたし何もいらない。」
「そうか、お前の身体は全く不思議だな。よく食べずにいられるよ。」
「わたし子供の時から三度満足に御飯をたべた事は滅多にないわ。そのくせお酒も好きじゃなしお汁粉はいやだし……経済でいいじゃないの。」
「全くだ。煙草ものまないし……」と言ったまま、男は鏡に映る女の顔が化粧する手先の動くにつれて、忽ち別の人のように若くなるのを眺めていた。眼の縁の小皺と雀斑とが白粉で塗りつぶされ、血色のよくない唇が紅で色どられると、くくり顎の円顔は、眼がぱっちりしているので、一層晴れやかに見えて来るばかりか、どうやら洋装をさせても似合いそうなモダーンらしい顔立にも見られる。それに加えて肉付のしまった小づくりの身体は背後から見ると、撫肩のしなやかに、胴がくびれているだけ腰の下から立膝した腿のあたりの肉付が一層目に立って年増盛りの女の重くるしい誘惑を感じさせる。男はお千代が今年三十六になってなおこのような強い魅惑を持っているのを確めると、まだこの先四、五年稼いで行けない事はないと、何となく心丈夫な気もする。それと共に人間もこうまで卑劣になったらもうおしまいだと、日頃は閑卻している慚愧と絶望の念が動き初めるにつれて、自分は一体どうしてここまで堕落する事ができたものかと、我ながら不思議な心持にもなって来る。自分の事のみならずお千代の心境もまた同じように不思議に思われて、はっきり理解することが出来なくなる。――お千代はどういう心持でこの年月自分のような不甲斐ない男と一緒に暮して来たのであろう。彼女自身も気のつかぬ中いつからという事もなく私娼の生活に馴らされて耻ずべき事をも耻とは思わぬようになったものであろう。折々は反省して他の職業に転じようと思う事もあるにちがいない。しかしもともと小学校を出ただけの学歴では事務員や店員のような就職口さえなかなか見当らず、よしまた見当ったところで、一度秘密の商売を知った身には安い給料がいかにも馬鹿らしく思われ、世間は広くてもその身に適する職業は、やはり馴れた賤業の外にはないような心になるのであろう。それにつれて、女の身の何かにつけて心細い気のする時、いかに不甲斐なくとも、誰か一人亭主と定めた男を持ち、生活の伴侶にして置きたいという心持にもなるのであろう――まずこんなように解釈するより外にその道がない。
牛乳の煮立つのに心づき男は小鍋を卸してコップにうつすと、女は丁度化粧を終り紫地に飛模様の一枚小袖に着換えて縫のある名古屋帯をしめ、梔子色の綾織金紗の羽織を襲ねて白い肩掛に真赤なハンドバックを持ち、もう一度顔を直すつもりで鏡の前に坐った。