七
お角は吃驚しましたけれども、甚三郎は驚きません。
「何でございましょう、今の音は」
「左様……」
甚三郎は、なお暫く耳を澄ましてから、
「やっぱり、いたずら者だろう」
と言いました。
「え、いたずら者とおっしゃるのは?」
「向うの松原に、小さな稲荷の社がある、あれの主が三吉狐というて、つい、近頃までも、その三吉狐がこの界隈に出没して、人に戯れたそうじゃ。ことに美しい男に化けて出ては、若い婦人を悩ますことが好きであったと申すこと。ところが、我々がここへ来てからは、とんとそれらの物共が姿を見せぬ、化かしても化かし甲斐がないものと狐にまで見限られたか、それとも、彼等には大の禁物な飛道具や、煙硝の臭いで寄りつかぬものか、絶えて今まで悪戯らしい形跡も見えなかったが、たった今の物音でなるほどと感づいたわい」
こんなことを言いました。お角はさすがに女だから、それを聞いて、襟元が急に寒くなったように思い、
「そんなに性の悪いお稲荷様があるんでございますか」
「全く、性質のよくない稲荷じゃ。ことにその三吉狐とやらは先祖が男に化けて、村の若い娘と契り、かえって娘の情に引かされて、大武岬の鼻というのから身投げをして、心中を遂げてしまったということから、どうもその子孫の狐が嫉み心が強くて、男と女の間に水を注したがると申すこと」
「いやですね」
「だから、この界隈で、男女寄り合って話をしていると、必ずその三吉狐が邪魔に来る、それは相思のなかであろうともなかろうとも、男女がさし向いで話をすることを、その狐は理由なしに嫉む、そうしてその腹癒せのために、何か悪戯をして帰るとのことじゃ。それを思い合せてみると、なるほど、こうして、そなたと拙者、罪のない甲州話をしているのも、三吉狐に嫉まるるには充分の理由がある、怖いこと、怖いこと」
駒井甚三郎はこう言って笑いました。お角も、それに釣り込まれて笑いましたけれども、それは自分ながら笑っていいのだか、笑いごとではないのだか、全く見当がつかなくなりました。
そう言われてみると、今夜、この場合のみならず、この頃中のことが、すべてその三吉狐とやらの悪戯ではあるまいか。三千石の殿様が、こうして落魄れておいでなさることも夢のようだし、その殿様と自分が、こうして膝つき合わせて友達気取りでお話をしているのも疑えば際限がないし、美しい男に化けるのが上手だという三吉狐が、もしや駒井の殿様に化けて、わたしを引っかけているのではなかろうか。それにしては、あんまり念が入り過ぎる。そんなにしてまで、わたしを化かさなければならぬ因縁がありようはずはない……お角はいよいよ気味が悪くなってきた時に、今度は自分の坐っている縁の下で、ミシミシと一種異様な物音がしましたから、
「あれ!」
と言って甚三郎の傍へ身を寄せました。
それは確かに、縁の下を物が這っている音であります。
その時に駒井甚三郎は、懐中へ手を入れると、革の袋に納めた六連発の短銃を取り出しました。
お角は、駒井甚三郎なる人が、砲術の学問と実際にかけては、世に双ぶ者のない英才であるということを知りません。また、大波の荒れる時にはあれほどに気象の張った女でありながら、稲荷様の祟りというようなことを、これほどに怖がるのを自分ながら不思議だとも思いません。
「わたし、なんだか怖くなりました」
こう言って、甚三郎の面を流し目に見ると、取り出した短銃を膝の上へのせて微笑しているその面が、なんとも言われない男らしさと、水の滴るような美しさに見えました。
そこで、縁の下がひっそりとしてしまいました。ミシミシと音を立ててお角の坐っていた下あたりに這い込んだらしい物の音が、急に静まり返って、兎の毛のさわる音も聞えなくなりました。
「逃げてしまいましたろうか」
「いや、逃げはせん、この下に隠れている」
お角が、おどおどしているのに、甚三郎は相変らず好奇心を以て見ているようです。
「いやですね、いやなお稲荷様に見込まれては、ほんとにいやですね」
お角は、座に堪えられないほど気味悪がっているのに、
「動けないのだ……」
と言って、甚三郎は膝の上にのせた短銃をながめているのであります。
「おや、小さな鉄砲。殿様は、いつのまにこんなものをお持ちになりました」
お角はその時、はじめて甚三郎の膝の上の短銃に気がついて、そうしてその可愛らしい種子が島であることに、驚異の眼を向けました。
「いつでもこうして……」
甚三郎が、それを手に取り上げて一方に覘いをつけると、なぜかお角はそれを押しとどめ、
「殿様、おうちになってはいけません」
「なぜ」
「でも、お稲荷様を鉄砲でおうちになっては、罰が当ります」
「罰?」
「ええ、そんなにあらたかなお稲荷様を鉄砲でおうちになっては、この上の祟りが思いやられます」
「ばかなことを」
甚三郎はそれを一笑に附して、
「拙者も好んで殺生はしたくはないが、畜生に悪戯されて捨てても置けまい」
「いいえ、どうぞ、わたしに免じて助けて上げてくださいまし、わたしはお稲荷様を信心しておりますから」
「稲荷と狐とは、本来別物だ」
「別物でも、おんなじ物でも何でもかまいませんから、そうして置いて上げてくださいまし、そのお稲荷様が嫉むなら嫉まして上げようじゃありませんか、ね、そうして置いてお話を承りましょうよ、わたしゃ化かされるなら化かされてもようござんす」
「きつい信心じゃ」
駒井甚三郎は苦笑いして、また短銃を膝の上に置くと、そのとき縁の下で、うーんとうなる声が聞えました。
「おや、殿様、人間でございますよ、お稲荷様じゃございませんよ」
「不思議だなあ」
最初から心を静めて観察するの余裕を持っていた駒井甚三郎が、その物音や、気配を察して、人間と動物とを見誤るほどの未熟者ではないはずです。
科学者であるこの人は、狐に関する迷信の類は最初から歯牙にかけず、ほんの一座の座興にお角を怖がらせてみたものとしても、人と獣の区別を判断し損ねたということは、己れの学問と技倆との自信を傷つくるに甚だ有力なものと言わなければなりません。そこで甚三郎は短銃を片手に、ついと立ち上って、畳の上を荒々しく踏み鳴らしました。
甚三郎が畳の上を踏み鳴らすとちょうど、仕掛物でもあるかのように、それといくらも隔たってはいないところの、囲炉裏の傍の揚げ板が下からむっくりと持ち上りました。
「御免なさい」
甚三郎もお角も呆気に取られてそれを見ると、現われたのは狐でも狸でもなく、一個の人間の子供であります。
「お前は何だ」
あまりのことに甚三郎も拍子抜けがして、己れの大人げなきことが恥かしいくらいでした。
「御免なさい、御免なさい」
と言って子供は、揚げ板の中から炉の傍へ上って来ました。
鼠色をした筒袖の袷を着て、両手を後ろへ廻し、年は十歳ぐらいにしか見えないが、色は白い方で、目鼻立ちのキリリとした、口許の締った、頬の豊かな、一見して賢げというよりは、美少年の部に入るべきほどの縹緻を持った男の子であります。
「お前さん、どうしたの」
最初は怖れていたお角も、寧ろ人間並み以上の子供であったものだから、落着いて咎め立てをする勇気が出ました。
「助けて下さい」
子供はそこへ跪まってお角の面を見上げました。その時、見ればその眼が白眼がちで、ちらりとした、やや鋭いと言ってよいほどの光を持っているのを認められます。ただ、その身体の形を不恰好にして見せるのは、最初から両手を後ろに廻しっきりにしているからです。
「どこから逃げて来たの」
「清澄山から逃げて来ました」
「清澄山から?」
「ええ、清澄で坊さんに叱られて、縛られました。おばさん、あたいの手を、縛ってあるから解いて下さい」
「縛られてるの、お前さんは」
お角がなるほどと心得て、そこへちょこなんと跪まった子供の背後へ廻って見るとなるほど、その小さな両手を後ろに合せて、麻の細い縄で幾重にもキリキリと縛り上げてありました。
お角は一生懸命にその結び目を解いてやろうとして焦ったが、容易には解けそうもありません。
「ずいぶん固く結えてあるわね、これじゃなかなか取れやしない」
お角はもどかしがって、ついにその縄の結び目へ歯を当てました。
「小柄を貸して上げようか」
甚三郎は見兼ねて好意を与えると、お角は首を振って、
「いいえ、結んだものですから解けそうなものですね、解けるものを切ってしまうのは嫌なものですから」
お角はしきりに縄の結び目へ歯を当てて、それを解こうとしましたが、いったいどんな結び方をしたものか知らん、ほんとに歯が立ちません。けれども、お角は焦れながらも、いよいよ深く食いついて、面をしかめながらも首を左右に振っています。
「おばさん、ずいぶん固く結えてあるでしょう、岩入坊が縛ったんですからね、とても駄目でしょうよ、口では解けないでしょうよ、刃物で切っちまって下さい」
子供は、ややませた口ぶりで、お角のすることの効無きかを諷するように言いますから、こんなことにも意地になったものと見え、
「いま解いて上げるよ、結んだものだから解けなくちゃあならないんだから。切ってはなんだか冥利が尽きるわよ」
お角はしきりに縄に食いついて放そうともしません。
「岩入坊は縛るのが名人だからね、岩入に縛られちゃ往生さ」
子供は、こんなことを言いながら、お角のするようにさせておりました。
「あ、痛!」
あまり力を入れて、歯を食い折ったか、ただしは唇でも噛み切ったか、面を引いたお角の口許に、にっと血が滲んでおりました。
「解けましたよ」
その時にお角は、クルクルと縄の一端を持ってほごしてしまいました。
子供の手を自由にしてやって、お角は元の座に戻り、紙をさがして口のあたりを拭きました。滲み出した血を、すっかり拭き取って平気な顔をしているから、大した怪我ではないでしょう。
「どうも有難う」
子供はそこで、お角と甚三郎の前へ両手を突いてお辞儀をします。
「清澄から、これまで一人で来たのか」
「エエ、一人で逃げて来ました」
そこで甚三郎は、じっとこの子供の顔を見つめました。清澄は安房の国の北の端であって、洲崎はその西の涯になります。いくら小さい国だと言ったところで、国と国との両極端に当るのです。その間を、この少年が両手を後ろに縛られたままで、ここまで逃げて来たということが嘘でなければ、ともかくもそこに、非凡なものの存することを認めないわけにはゆかなかったのでしょう。けれども甚三郎は、そのことを尋ねないで、
「何で、そんなに縛られるようなことをしでかしたのだ」
「悪戯をしたものですから、それで縛られました」
「悪戯? どんな悪戯を」
「ちょっとしたことなんです、ちょっと悪戯をしたんだけれども縛られてしまいました、縛られて、門前の大きな杉の木へつながれてしまいました、それを弁信さんに解いてもらいました、ぐずぐずしていると、岩入坊にまたひどい目に遭わされるから、早くお逃げって弁信さんがそう言ったもんだから、後ろ手に結かれたのを解いてもらう暇がなくって、一生懸命に、人に見つからないようにこうして逃げて来ました」
「それはよくない、ナゼ逃げ出さないで、お師匠さんに謝罪ることをしないのだ」
「駄目、駄目、あたいは、もう、あんなところは早く逃げ出したくって堪らなかったのよ、もう帰らないや」
「お前、お寺にいて坊さんになるのが嫌なのか」
「いいえ、あたいは清澄のお寺に預けられていたけれど、坊さんになるつもりじゃなかったの、お寺の方では、あたいを坊さんにするつもりであったかも知れないけれど、あたいは坊さんになる気なんぞはありゃしない」
一通りの白状ぶりを聞いても、そんなに大した悪戯をする悪少年とも見えません。けれども甚三郎は、この少年を問い訊すことに興味を失わないで、
「そして、お前、これからどこへ行くつもりなのだ」
「あたいは、これから芳浜へ帰ろうと思うんだけれども、芳浜へは帰れないや、だから舟に乗ってどこかへ行ってしまいたいと思っているのよ」
「芳浜にお前の実家があるのか」
「あたいの実家じゃない、お嬢さんの家があるんですよ」
「お嬢さん……主人の娘だな。清澄へ行く前、そこに居候をしていたのか」
「あたいは、お嬢さんに可愛がられていたのよ、お嬢さんが、あんまり、あたいを可愛がるもんだから、それでみんなが、あたいをお嬢さんの傍へ寄せないようにしてしまったのですね、お嬢さんきっと、あたいに会いたがるに違いない」
子供はすずしい眼をして甚三郎の面を打仰ぎました。お嬢さんに可愛がられてる……それがなんとなく甚三郎の心を温かいものにして微笑ませました。
「そのお嬢さんというのは幾つになる」
「今年、十八になるでしょうね」
と言って小首を傾げるところを見れば、どう見ても愛くるしい美少年で、決して悪戯をしたために、これほどまで無惨に縛られ、縛られた上に、清澄の山から洲崎の浜まで走って来るほどの不敵な少年とは思われません。甚三郎は優しく、
「そうか、近いうち、拙者も舟であちらの方へ出かけるから、その時に連れて行ってやろう、そうしてお嬢さんとやらに会わせてやろう」
「有難う。それでもね、お嬢さんにゃ会えませんよ」
「どうして」
「みんなが会わせないんだもの」
「なぜ会わせないのだ」
「あたいは、お嬢さんにだけは可愛がられるけれども、ほかの者にはみんな憎まれてるから」
「みんなの人が、なぜ、そんなにお前を憎むのだ」
「なぜだか、あたいにはわからないんだ、みんなの人が、あたいを憎んでお嬢様に会わせないように、清澄の山へ預けちまったんですからね」
「何かお前が悪いことをしたのだろう」
「いいえ、何も悪いことをしやしません、悪いことといえば、あたいが、あんまりお嬢様に可愛がられるから、それが悪いんでしょうよ。そのほかにはね……あたいは、虫を捕ることが好きなんですよ、虫を捕ることだの、鳥と遊ぶことだの、それから、笛を吹くことだの……」
その時まで黙って聞いていたお角が、あわて気味で口をはさみました。
「ちょっとお待ち。お話のうちだが、それではお前さんが、あの芳浜の茂太郎さんというんじゃないの」
「ええ、あたいがその茂太郎ですよ」
「そう、驚きましたね、わたしはまた、お前さんを頼むために、こうしてわざわざ房州までやって来たのですよ」
「おばさん、あたいを頼みに来たの」
少年は、やや眼を円くして、お角の面を見上げましたが、その頼みに来たという事情を、さのみ立入って知りたいというほどでもありません。
「ええ、お前さんを頼みに来たのよ、それがために途中で大難に遭って、こうしてお世話になっているの」
「そうですか」
「そうですかじゃない、ほんとに生命がけで江戸から、お前さんを尋ねに来たんじゃないか」
お角ははずむけれども少年は、
「江戸から?」
と言って、前よりは少しく耳を傾けただけのことです。それもお角が無暗に、大難だとか生命がけだとかいうのに引きつけられたのではなく、江戸からと言った地名だけに引っかかったものとしか思われません。
「そうよ」
「江戸には、おばさん、山は無いんでしょう、だから蛇だって、そんなにいやしないでしょう、わたしを頼んで行ってどうするの」
「そりゃね……」
と言って、お角が少しばかり口籠りました。少年は、それに頓着せずに、
「今まで、あたいを頼みに来るのは、山方ばっかりよ。あたいに鳥を追わせたり、蛇をつかまえさせたり、また虫を取って来て天気を占わせたりするんだけれど、江戸へ連れて行ってどうするんだろう。それでも、あたい江戸へは行ってみたいよ。お嬢さんとこに、幾枚も江戸の景色の絵があるんだ、それで見て知っているけれどもね、綺麗なところだね。おばさん、ほんとうに連れてってくれるなら、あたい行ってもいいよ、おばさんとこに居候になっていてもいいよ」