Chapter 1 of 3

「福岡から、お客様がみえました」――さういふ下女の取次ぎの言葉を聞いた時から、彼は脅えてゐなくちやならなかつた。

福岡の客つて、それは彼の内の親類端だつたんだが、非常なブルヂョアであるのだ。そしてその客である奥さんは、彼をよく知つてゐながら彼の父とも母とも一面識さへなかつたのだ。勿論彼の家に来るのも初めてだつた。で、それだけでも何だか、彼は客として来る者に対する責任を感じてゐた。だがそれで彼は脅えちやあゐない。その奥さんなるものの姪と彼とが恋仲であることを奥さんに知られてゐる彼だからなのである。

一寸挨拶を済ますと、彼は直ぐ引つ込んだ。

「此の頃は、よく勉強してゐますか」

頭の低い人間だけれど、やつぱりブルヂョアなのだ、見下ろすやうに奥さんは彼に言つた。その一言がヤケに引つ込んでからも彼の耳に残つてゐて、癪に障つてならなかつた。

彼は此の春学校の落第をしたのだ。

奥さんが別嬪なのに引き換へて、自分の母親が衰へ顔であることと、如何にかかうにか生活の出来るといふ程度の自分の家を見られることは、とても堪らないことであつた。

八月のことで、外はカンカン日が照つてゐた、そして彼の家は風の入りが好くなかつた。奥さんと、も一人の奥さんの親族の奥さんとは、扇を使ひながら、「扇風器もないのか……」つて顔をしてゐた。

彼はその日、東京に行かなきやならなかつた。落第や其の他の事情で土地の学校を出て他所に転校を余儀なくされた彼は、わざわざ、もう暑中休暇も終るといへば、また立つて行くのだ。東京の友人に持つて行く土産を買ひに、彼が出掛けようとしてゐたところに、母が来て言つた。

「腰が重さうだが、今晩泊ると言ひなさらなきや好いが……。あれたちは内に用事があるわけぢやなし、此方が考へる程……」

「いつたい何の用で来たの」

彼は分り切つてるのに、母をねぎらひたい気持から訊ねてみた。

「今度お父さんがあそこの養子さんにお嫁さんの心配をするんでそのことに就いて一寸……。あれたちは立派な所に、此の頃だつたら革布団位に寝なさるんだらうから……。あんたがこの前行つた時でも毛布団だつたとかつて言つてたあね」

母は随分気懸りらしかつた。

表座敷からは無頓着な父の声がしてゐた。彼は父が客達の嘲笑にも気付かずに話してゐることが可愛想にさへ思へた。

「でも福岡市でも竹原といへば知らない人もないつて言つて好い位な家なんですから、余りお粗末にやれば……」

それは奥さんに従いて来た奥さんの声だつた。

母はあきらめたやうに、フト表座敷の方へ歩んだ。母の頭から、――それでなくても少い髪だのに、梳が落ちかけててる、向ふに行く後姿をみ送る時、彼は梳のことを注告しようかとも思つたが、それさへ情なくつて出来なかつた。

嫌々ながら彼は土産をとゝのへに出た。

いよいよ出掛けに靴を穿いてゐる時、祖母がやつて来て、「小母さん達は立派な仕度をして来てをるだらうね」といつた言葉を胸にくりかへしながら、彼は田圃路を歩いた。もう寧ろ肉親なんてものを呪ひたかつた。

稲がもうだいぶ高くなつて、路にそつてる箇所はズツとホコリで殆んど黒くなつてるのが、熱い上に熱くした。稲荷を祭つた小さい山の、赤い数々の鳥居が何がなし気になつた。汗でシャツは脊中にクツツク……。

「グランドに無雑作につまれた材木

――小猫と土橋が話をしてゐた

黄色い圧力!」

つて彼の「夏の昼」といふ詩を、思ひ出した。「こんな好い詩を書く俺を落第生だとたゞ思つてやがる。あそこの養子つて奴あ恩賜を貰つたんだつたつけ、馬鹿ッ!」――そんなことも考へた。

「久し振りだつたなあ……、他所に行つてるとズルケられて好いだろ」

ポツカリ此の春までの同級生に出遇つた。

「ふゝ……」

彼は何にも言ひたかあなかつた。

もう汽車に行くべき時刻だつた。

「今日は出際にお客さんがありはしたし……明日立つたら……」

母が「甘い」とよく彼が言ふので、また言はれはしまいかと思つて、遠慮深さうにさう言つた時、彼はさすがに「甘い」とはいはれなかつた、却つて自分の方が「甘い」だつたのだ。

客も彼と同し汽車で立つのだつた。

駅には母がやつて来た。

客は二等に乗つた、――一等なしの列車だから、――彼は三等に乗つた。母は客の方に行つて別れを言つてゐた。奥さんが母に挨拶してゐる時に、後ろでも一人の客は吹き出してゐた。彼はバスケットを車室に置くと、その方へ行つてたのでその吹き出してるところも見せられた。母の髪が可笑しいのらしかつた。

彼の乗つた車室には二三人しかゐなかつた。田舎支線の午後九時頃のだからそんなもんなんだ。電燈も取りつけられてるだけの数はともつてゐなくて、一つ置きに暗くついてた。

彼は窓から心地よい夏の夜風を受けながら、口笛を吹いてた。「親父は今頃雑誌でも読んでるのだらう」などゝ思つた。生れて家を出て行くのがこれで二度目だつた。一度目はまだ好い所へゆくつて気もあつたから元気だつたが、今度はもう目的地が一通りや二通り分つてゐるためでもあつて、やたらに家のことが後から後から頭に出て来た。

「如何ですね」

二等から奥さんて奴がやつて来た。

「東京は面白いですか」

彼は窓の外をみて偽へて笑つてゐた。

「まあ学校のことも勉強なさいよ」

「えゝ……ハヽ……」

「文学のことばかりせずに……」

汽車が支線の終点駅に着いた。

彼は客より先にプラットホームに行つて腰掛に掛けてゐた。あとからボーイにカバンを持たせて、彼のゐる所を探すやうにやつて来る。

客達は彼の所へは来なかつた。二人の客は遥か向ふで話をしてゐた。彼は自分と例の姪とのことが話されてゐると思ひ込んでゐた。

寐ようと思つたつて眠れなかつた。それに朝鮮人の労働者が乗り合はしてゐて一向寐ようともしないでベチヤベチヤ喋舌るので尚更だつた。

母が気の毒であつた、福岡の客つて奴が癪に障つた、彼は自分の自信する詩が鼻にかゝつた。

鉄橋の音は如何も、悲哀だつた。

「俺の詩万歳だ」

彼はバスケットから葉書を出してさう書いて母に送つた。

「福岡の小母さんは別嬪だけれど、足の指が、右だか左だか一本ないさうな……」

何時ぞや、父がそんなことを言つてたのをフト思ひ出した。彼は急に大きな安心を得たやうに胸が踊つた。

汽車が海辺を走つてゐた。

東京駅に下車して、最初に気にとまつたのは贅沢な女学生だつた。

それから間もない或日、学校から帰つてみると、下宿の机の上に例の姪からの手紙が来てゐた。失恋させられたわけだ、彼は。

まだ如何も落付かない、ホームシックみたいなものも時々起つて来るのだつた。彼は友達にやる土産も自分で食つて仕舞つてゐた。

枕を出して午睡しようと思つてる時、「俺には女は当分当抵得られないものだ……」つて言葉の一字一字が、所々ハゲた壁の上にピヨコピヨコみえるやうな気がした。壁の隅には昼の蛾がポチポチゐた。

Chapter 1 of 3