Chapter 1 of 7

一 科学者と政治家

日本の科学及び技術方面の学者たちは、よく日本の政治家や実業家は、科学に対する理解が無いと言われる。敗戦以来、科学による国家の再建が唱えられてからは、ジャーナリズムの面でも、盛んにこの種の議論が為されている。

この問題は、何も今に始まった話ではなく、昔から日本の政治及び産業界の通弊であった。日本の科学を育成して、発明や発見を大いに奨励し、それを実用化して、国富を増す、という方向には、今まであまり努めなかった。外国の特許を買ってきたり、外国の技術を導入して、手っ取り早く飛行機を作ったり、金を儲けたりするという流儀が多かった。その結果、世界からは、日本人は物真似だけが上手な国民である、という悪評を受け、自国内の科学はいつまで経っても、あまり実用には役立たなかった。

今日のわが国は、食糧、燃料、工業原料など、生活及び生産の必需品を、多量に輸入しなければならない。それには外貨が絶対に必要である。ところがその大切な外貨を、外国特許の使用料として毎年六十億円も支払っている。これは製品や原料に払うのではなく、知識という無形のものに払うのである。その中には、こういう額とは比較にならないくらいの僅かの研究費を、日本の学者に出せば、日本で立派に出来るものもありそうに見える。それだったら、いかにも馬鹿げた話である。

これに対して、政治家や実業家の人たちは、別の考えをもっておられることであろう。日本の科学および技術方面の学者たちが、本当に役に立つ研究をすれば、黙っていても、研究施設も拡充し、研究費も出す。しかし議論ばかりしていて、日本国民が生きて行くのに、役に立つ仕事は、あまりしてくれない、外国特許など買いたくはないのだが、買わざるを得ないのだ、と言われる方があるかもしれない。

もっとも少し意地悪い見方をすれば、百万円の研究費を出せば、多分出来るであろうが、絶対に出来るかどうかはわからない。一億円の外国特許を買っても、その分はコストの中に入れればよいから、この方は確実にいくらかは儲かる、というような考えが、心の底に潜んでいる場合もあり得る。

しかしこの種の議論は、いずれも単に表面を撫でている話であって、問題の灸所は、もっと深いところにあるのではないか、と思われる。前に書いた「科学と国境」(『知られざるアメリカ』)では、そのうちの一つの要素を、詳述したつもりである。日本では、真理の探求という純粋な科学が偏重され、原理を実用化する方の学問が、それよりも一段低く見られる弊がある。原理の発見はもちろん困難な仕事であるが、それを実用化することの方が、或る場合にはもっと困難な事業であり、また文化的価値の高い仕事であるということが、一般にはよく理解されていない。それが日本の学問が、あまり実用化されない一つの理由である。

以上の考えは、もちろん今日でも変っていないが、その他に、今一つもっと深い問題がありそうな気が、この頃している。それは科学者と政治家及び実業家とは、ものの考え方に、根本的なちがいがあるのではないか、という点である。

科学の目的は真理の探求であって、これは再現可能という原則を、最初に立てている。同じことをくり返せば、同じ結果が得られるということを、暗黙のうちに初めから規定している。そうでなかったら、真偽の確かめようがなく、真理という言葉自身が無意味になる。

ところが、政治や社会の問題になると、同じことは、決して二度とは起こらない。死んだ人間が、決して二度とは生き返らないように、社会の状態は、時とともに一方向きに進行するだけで、くり返しということはない。外見上は一寸似たようなことが二度起こっても、内容はすっかり変っているのが普通である。政治家や実業家は、そういう問題を取り扱っているわけであるから、考え方が、根本的に科学者とは違っていても、そう不思議ではない。

一度しか起こらない現象には、科学は案外無力であって、そういう問題については、科学は、起こった後で、その説明ができれば、類似のことが二度起こらないようにすることはできる。それだけでも、もちろん立派に意義はあるが、生きている社会は、時々刻々その形を変えて行くので、ただ一度しか起こらない現象の無限の連続を、再現可能という基礎の上に立った科学が、律しようとしても、それは不可能のことである。

そういう意味で、「科学に無理解」な日本の政治家や実業家の方が、少なくも過去においては、日本の進展に、相当大きい役割を演じてきたのかもしれない、というきわめて退嬰的な考えも、一応吟味してみる必要がある。

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