二
ロヨラは地名で、それを姓にして領主の家はデ・ロヨラと名乘つてゐた。私たちの主人公は領主の息子で、俗名をドン・イニーゴ・ローペス・デ・レカルデといひ、後に聖列に加へられて聖イグナシオ(イニャーシオ)と呼ばれた。コロンブスのアメリカ發見の前の年(一四九一年)に生れ、少壯の頃パンプロナの戰爭に出かけ、重傷を負うて家の子郎黨に舁がれてロヨラに歸り、城内の一室に長い間病臥してゐた。一念發起して大悟したのはその時だつたといはれる。彼は助からないものと覺悟してゐた命が助かり、譬へやうもない法悦の心に浸つて、神とキリストに對する感謝で充たされ、生涯を神の道に捧げたのである。それには、もとよりわれわれの容易に窺ひ知ることのできない深い冥想と強い決意が先立つたものでなければならぬ。人類を無知と不信から救つて神の國の門へ導くために命を投げ出さうとした彼の仕事が雄辯にそれを語つてゐる。
彼がフランシスコ・ハヴィエル(ザベリヨ)と知つたのはパリであつた。彼は宗教の研究を志してコレジュ・サント・バルブに學んでゐた。其處へ十五歳年少のハヴィエルが後れて留學した。當時はルネサンス思想の影響を受けてどこの國にも自由奔放な物の考へ方が行き亘つてゐた。殊にパリは文化の中心地で、集まつてゐる學生の生活も極端に放縱に流れがちだつた。ハヴィエルもその影響を少からず受けてゐたといはれる。それを引き止めて戒律の正しい宗教生活の方へ連れ込んだのは先輩ロヨラであつた。なほ他にも幾たりかの同志ができた。彼等は一五三七年ヴェネティアに會合して、將來のヂェズイタ派運動の基礎となるべき盟約を結んだ。その時、ロヨラ四十六歳、ハヴィエル三十一歳であつた。
機會は遂に法王パオロ三世の公然の允許を得て海外傅道の仕事を始めるやうに彼等を助けた。海外とはいつても專ら東洋であつた。東洋も印度を基礎にして當時新たに「發見」された日本に主力を盡した。日本の傳道は最後には迫害を以つて禁止されたけれども、天文・永祿から元龜・天正へかけて極めて短年月の間に驚くべき改宗者を得たことは、ヂェズイタ派としては奇蹟的な成功といふべきであつた。それは主としてハヴィエル以下第一線に立つた多くの熱心な伊留滿たちの不撓の努力の結果ではあつたが、根本は彼地に於いて絲を引いてゐた管長ロヨラの人格に因るものでなければならなかつた。
さうしてロヨラの生れた家のある土地であり、其處に建てられたヂェズイタ派の本山であるから、日本から來た旅行者が興味を持つのも理由のないことではない。
しかし、矢野氏の話によると、日本人で此の寺を訪問する者は甚だ稀だといふことで、恐らく私たちが最初ではないだらうかといふことだつた。