六
妻木右太之進の場合は、夢から夢への、果てしも無い情痴の生活でした。
昼も夜も無い暮し――いや、夜を昼にした暮しと言った方が宜いでしょう。うつらうつらと夢見るように昼が過ぎると、妻木右太之進の身の情火をかき立てる、夜の夢の世界が開けるのです。
清らかな夜の物、快適な食事、ほろ酔い、そして奇瑞の枕の、銀の棒が温められました。
それに頭を載せて眼をつぶると、幽雅な香気が部屋一パイにこめて、リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」の、七つのヴェールにも似た、大地の底からゆり動かすような音楽が、何処からともなく響いて来るのです。
妻木右太之進の情熱は、斯うして毎晩かき立てられました。夢に現われるお綾の姿は、時には武家風の娘になり、奥方になり、御守殿風の椎茸髱になり、或は入山形に二つ星の花魁になり、町家の娘になり――妻木右太之進のその時その時の好みによって、あらゆる姿に変化して出現するのでした。
歓楽の夢は、夜毎に変りました。が現実の世界は、妻木右太之進を、恐ろしい没落へと引摺って行ったのもまた已むを得ないことだったのです。
勤め向の不首尾により、妻木右太之進三月目には御役御免になり、三年目にはもう扶禄を召し放されて、一介の浪人になって居りました。
僅か五十俵の痩御家人が、禄に離れ屋敷を追われると、あとはもう眼も当てられません。あらゆる持ち物を売り尽して、一年一年と没落の途を辿り、六年目には、奇瑞の枕たった一つを抱いて、明神下の棟割長屋に、見る影もない姿を横える有様でした。
妻木右太之進は、それでもまだ眼が覚めなかったのです。残る一枚の袷と、一口の刀を売って、最後の糧を手に入れると、相も変らず奇瑞の枕を抱いて、歓楽の夢を追う愚劣無残の彼の姿だったのです。
一方田沼父子の失脚と共に、秋月九十郎にも恐ろしい運命が訪れました。
田沼父子の手先となって、その権勢利慾を募らせ、賄賂を納めて田沼父子の懐を肥し乍ら、死物狂いに自分の栄達を図った秋月九十郎も、田沼主殿頭の没落と共に、怨嗟と攻撃の矢を八方から受けて、三月経たぬうちにその役を追われ、主殿頭の死んだ頃は、その高禄も屋敷も、あらゆる権勢も剥ぎ奪られ、野良犬のように江戸の町に投げ出されて居りました。
秋月九十郎が切腹にも遠島にもならず、命目出度く浪人になったのを、時の世間が不思議に思った程です。だが、あらゆる人々は後ろ指を差し、その影に唾し、巷の悪童は遠方から礫を飛ばしました。賄賂を出した者も出さない者も、田沼に引立てられた者も退けられた者も、田沼の悪の代弁者と思われた秋月九十郎に対しては、睚を決し、拳を握り、その肉をさえ喰わんとひしめき合ったのです。
秋月九十郎は命辛々逃げ廻りました。そして、一つ一つ物を失い、一枚一枚身の皮を剥ぎました。
今は早や乞食も同様でした。それでも未練らしく錆刀を一本抱いて、ついには野垂死ぬ外はない運命を、小意地悪いほど明瞭に意識し乍ら、秋月九十郎は、その夜の宿を両国橋の下に求める外はありませんでした。
九年前、妻木右太之進と、お綾を争って、ツイ鼻の先の浜町河岸に切結んだ時と同じように、それは桜の花片のハラハラと散る朧夜でした。