蜘蛛の糸
「今晩はまったくすばらしかったよ。愛ちゃんが、あんなにピアノがうまいとは夢にも思わなかったぜ。練習しているのを聴くと、ピアノというものは、うるさい楽器だからな」
「まア、お兄さん、それじゃ褒めているんだか、くさしているんだか、わからないじゃありませんか」
狩屋三郎と妹の愛子は、日比谷音楽堂の帰り、まだおさまらぬ興奮を追って、電車にも乗らずに、番町の住居まで、歩いて帰るところでした。
「でも、演奏はまったく上出来さ、聴衆はみんなびっくりしていたよ。ベートーヴェンのソナタは少しこわいみたいだが、第二部のショパンがよかったんだ。ぼくの近所で聴いていた人たちは、まさかぼくを愛ちゃんの兄とは知らないから、――日本にもこんなに若くて、こんなにうまいピアニストがいたのかなア、多勢の外国人も来ているようだが、こんな芸術家を発見しただけでも、われわれの肩身が広い――と言っていたよ」
「まア」
愛子は少しきまり悪そうでした。妹にお世辞を言うような兄ではありませんが、面と向ってこう言われると、さすがに口がきけなかったのです。
狩屋愛子は十八になったばかり、新鮮で清潔で、ピンク色のコスモスの花のような少女でした。去年某新聞のコンクールを通って、一ぺんにその天才を認められ、日本楽団の大きな発見とまで言われましたが、年を越してようやく先輩や恩師の後援で、最初の独奏会を開き、新人のデビューとしては、まさに空前の成功を納めての帰りだったのです。
兄の三郎は二十才、大学では数学をやっていますが、頭がいい上に体力が非凡で、ラグビーの選手として、学生スポーツ界に知らない者はありません。五尺七寸余りのみごとな体格と、明朗闊達な気風は、優生学上の見本にして、将来の日本人の理想型にしたいような青年です。
「お兄さんは、どうお思いになって? ほんとうに出来がよかったでしょうか、――私は新聞や音楽雑誌の批評が心配でたまらないんだけれど」
愛子はさすがに娘らしく、そんな事を気に病んでいるようです。
「そりゃ大丈夫さ、悪口を言う奴はピアノがほんとうにわからないんだよ、――ぼくは酒を呑まないけれど、酒に酔った心もちは、ちょうどあんなぐあいだろうな、ピアノを聴いているうちに、こうボーとなって」
「まア大変ね、メチールでなきゃいいけど」
「こいつめ」
ふたりはそんな事を言って、正月の夜空にわだかまりのない笑いを響かせました。
夜はもう十時過ぎでしょう、雪模様の空はドンよりと頭上に押し冠さって、番町の往来は人の影もありません。
「ちょいとお尋ねしますが――」
不意に声を掛けられて、ふたりは大きいビルディングの下に立ち停りました。
「この辺に塩谷さんというお宅はありませんか」
「サア」
相手は外套の襟を立てて、中折の庇を目深におろし、色眼鏡をかけた若い男です。
「いや、ご存じがなきゃいいんです、その辺で聴いてみましょう――おや、おや、ちょっとお待ち下さい、お嬢さん、コートに何んか変なものがブラ下っていますが、たれかのいたずらかも知れませんね、この節は人の悪いのがいるから、――ビルティングの前の街灯の所へいらっしゃい、見て上げましょう」
「――――」
男の調子は親切そうで、何んの巧みもありませんでした。愛子は何心なくビルディングの前の街灯の下まで行くと、道行く男は後ろへ廻って愛子の外套の裾を払ったりしておりましたが、不意に、真に不意に、愛子の体は宙に浮いて、ハイヒールの踵が一寸、二寸、三寸と、ペーヴメントを離れて空中に浮き上るではありませんか。
「お兄さん、た、大変ッ」
愛子が思わず悲鳴をあげたのも無理はありません。この時愛子の体は、地上を離れて、一尺、二尺、三尺と急速に空に引き上げられているのです。
何心なく口笛などを吹きながら、一と足先きに行った兄の三郎は、妹の悲鳴に驚いて振り返った時は、愛子の体はもう五六尺上に釣られて、その銀ねずみ色のコートの下から、赤いドレスの裾が、火にあおられた焔のようにひるがえっているではありませんか。
「あッ、待てッ」
三郎はわけのわからぬ事を叫んで飛びつきました。が、手につかんだのは妹の左足の靴の踵だけ、それがスポリと脱けて、舗道の上に尻餅をつく間に、愛子の体は蜘蛛の糸にかかった美しいトンボのように、街灯の上でキリキリと廻りながら、高く、高く宙に釣り上げられて行くのでした。
あまりの事に、三郎は大きい声で助けを呼ぶことさえ忘れておりました。助けを呼んだところで、この辺一帯にすさまじい焼跡で、十時過ぎはめったに通る人もなく、交番も遠い上に、近所には人の住みそうな家もありません。
ビルディングは三階の鉄筋コンクリート建焼けビルを修理したらしい、きわめてありふれたものですが、その屋上の突き出した庇から、一本のたくましい綱が、愛子の体を引き上げていることだけはわかりました。
引き上げられている愛子も、あまりの事に顛倒して、しばらくは悲鳴をあげることさえ忘れたのでしょう。
その間にも愛子の体は、キリキリと宙に廻って、真紅の裾が街灯の上に燃えます。が、それもほんのしばらくの間で、やがて庇からぬっと出た手が、愛子の襟髪をつかんで、何んの苦もなく屋上に引き上げ、それっきり、すべての事が終ってしまいました。
宙に舞った愛子のおもかげも、絶え絶えに挙げた驚きの声も消えて、正月の番町の夜は深々とふけて行くのです。
交番へ――と三郎はスタートしかけましたが、ここから一番近い交番までも三丁あまり、そこへ行ってくる間に、ビルディングの屋上に釣り上げられた愛子はどんな事になるかわからず、ともかくも、ビルディングの正面に近づいて、その盲扉を押してみましたが、これは又地獄の門のように厳重で、押せども突けどもビクともすることではありません。
三郎はフト気がついてあたりを見ました。さっき愛子に話しかけた、怪しの男がその辺にいたら――と思ったのです。が、そんな者は影も形もなく、その代りどこから這い出したか、蓑虫のような汚ない身なりをした少年がひとり、けげんな顔をして三郎の顔を見上げているのでした。