一
深川の材木問屋春木屋の主人治兵衞が、死んだ女房の追善に、檀那寺なる谷中の清養寺の本堂を修理し、その費用三千兩を吊臺に載せて、木場から谷中まで送ることになりました。
三千兩の小判は三つの千兩箱に詰められ、主人治兵衞の手で封印を施し、番頭の源助と鳶頭の辰藏が宰領で、手代りの人足共總勢六人、柳橋に掛つたのは丁度晝時分でした。
「惡い雲が出て來たね、鳶頭、此邊で夕立に降り込められるより、一と思ひに伸しちや何うだらろう」
番頭の源助はさう言ひながら、額の汗を拭き/\、お通の水茶屋の前に立ちました。
「この空模樣ぢや筋違までも保ちませんぜ。お通は仕度をして居る筈ですから、兎も角晴らしてから出かけませう」
辰藏は吊臺を擔いだ人足を顎で招くやうに、お通の茶屋の暖簾をかき上げました。
同時に、ピカリ、と凄まじい稻光り、灰色に沈んだ町の家並が、クワツと明るくなると、乾ききつた雷鳴が、ガラガラガラツと頭の上を渡ります。
「あれツ」
界隈で評判の美しいお通は、――いらつしやい――と言ふ代りに、思はず悲鳴をあげて了ひました。赤前垂、片襷、お盆を眼庇に、怯え切つた眼の初々しさも十九より上ではないでせう。
丁度その時、――
「喧嘩だツ」
「引つこ拔いたぞ」
「危ないツ、退いた/\」
「わツ」
といふ騷ぎ。兩國廣小路の人混みの中に渦を卷いた喧嘩の輪が、雪崩を打つて柳橋の方へ碎けて來たのでした。
「何うした、鳶頭」
「喧嘩ですよ、浪人と遊び人で」
「荷物が大事だ、中へ入れろ」
「へエ――」
葭簀張の水茶屋で、喧嘩にも夕立にも、閉める戸がありません。三千兩の吊臺はその儘土間を通つて磨き拔いた茶釜の後ろ、――ほんの三疊ばかりの茣蓙の上に持込まれました。前から豫告があつて、時分時には春木屋の荷物が休むことになつて居たので、お通も、お通の母親も、これは文句がありません。
尤も吊臺を擔ぎ込んだ一と間は、直ぐ神田川の河岸つぷちで、開け放した窓から往き交ふ船も見えようといふ寸法ですから、凉みにはまことに結構ですが、物を隱すにはあまり上等の場所ではありません。
鳶頭の辰藏は、吊臺の上に掛けた油單を引つ張つて、一生懸命、千兩箱を隱すと、番頭の源助はその前に立ち塞つて、精一杯外から見通されるのを防ぎました。
續いて、もう一と打、二た打、すさまじい稻光りが走ると、はためく大雷鳴、耳を覆ふ間もなく篠突くやうな大夕立になりました。
向う側の家並も見えないやうな雨足に叩かれて、ムツと立ち昇る土の香、――近頃の東京と違つて電氣事業も避雷針もない江戸時代には、びつくりするやうな大夕立が時々あつたと言ふことです。
まだ六月になつたばかり、暑さは例年にないと言はれましたが、それにしても、眞晝の大夕立は滅多にないことでした。
お蔭で素つ破拔きに始まつた大喧嘩も流れて、夥しい彌次馬は、蜘蛛の子を散らすやうに、近間の店先に飛込んで了ひました。
お通の茶店へも十二三人、濡鼠のやうなのが飛込みましたが、買切つたわけでもないのですから、源助苦い顏をしながら斷るわけにも行きません。
「おツ、何て自棄な降りだい、まるで川の中を歩いてゐるやうだぜ」
「まア、松さん」
ポンと飛込んで來たのは、舞臺で本雨を浴びて來たやうな意氣な兄イ、濡れた單衣をクルクルと脱ぐと、
「ほら、ざつと絞つて乾かして置いてくんな、――心配するなつてことよ、そんな腐つた單衣なんざ、お邸へ歸りや何枚でもあらア」
無雜作に投り出して、切り立ての牘鼻褌に、紺の香が匂ふ腹掛のまゝ、もう一度ドシヤ降の中へ颯と飛出しました。
「まア、裸で何處へ行くつもりなのさ、松さん」
お通は追つ掛け、戸口まで出ましたが、もう男の姿はその邊に見えません。また一としきり、ぶり返した大降り、光る、鳴るの伴奏で、暫くは面も向けられません。