Chapter 1 of 8

江戸開府以來といはれた、捕物の名人錢形平次の手柄のうちには、こんな不思議な事件もあつたのです。――これは世に謂ふ捕物ではないかも知れませんが、危險を孕むことに於ては、冷たい詭計に終始した捕物などの比ではないと言へるでせう。

「親分ツ」

飛込んで來たのは、ガラツ八の八五郎でした。

「何といふあわてやうだ。犬を蹴飛ばして、ドブ板を跳ね返して、格子を外して、――相變らず大變が跛足馬に乘つて、關所破りでもしたといふのかい」

平次は朝の陽ざしを避けて、冷たい板敷をなつかしむやうに、縁側に腹ん這ひになつたまゝ、丹精甲斐のありさうもない植木棚を眺めて、煙草の煙を輪に吹いて居りました。

「落着いてちやいけねえ、いつもの大變とは大變が違ふんだ、ね、親分、聞いておくんなさい」

「大層な意氣込みだね、手前の顏を見てゐると、――一向大變榮えもしないが、一體どんなドンガラガンを持つて來やがつたんだ」

平次はまだ庭から眼を移さうともしません。この姿態のまゝ、路地で犬を蹴飛ばしたことも、ドブ板をハネ返したことも、格子戸を外したことも氣が付いて居たのでせう。

「親分、繩張内から謀叛人が出たらどうします」

八五郎は息を彈ませ乍ら、疊の上の汗を平手で撫で上げました。

「何だと?――今の世の中にそんな馬鹿なことがあるものか。尤も、由比の正雪なら牛込榎町よ、丸橋忠彌は本郷弓町だ、繩張違ひだよ、八」

平次はまだこんな洒落を言つてゐるのです。

「そんな昔話ぢやねえ、謀叛人が生きてゐて、町内の錢湯で毎日錢形の親分と顏を合せるとしたら、どんなもんで」

「いやな事を言やがる、その謀叛人は一體何處の誰なんだ」

「金澤町の素讀の師匠皆川半之丞」

「何だと?」

平次は起き直りました。

一年ばかり前に引越して來た、浪人者皆川半之丞、美男で、人柄で、まだ三十そこ/\の若さを、何をするでもなく、世捨人のやうに暮してゐるのが、錢形平次の第六感に、何かの印象を留めずにはゐなかつたのです。

「ね、親分、さう聞くと思ひ當るでせう。子供は嫌ひだからと言つて、寺子は皆な斷わつてしまつた癖に、夜は大の男を四五人も集めて“子曰く”の素讀の稽古だ」

「――」

「それは不思議でないにしても、弟子は一人殘らず他所の者で、町内の若い者が束修を持つて頼みに行くと、家が狹いとか、隙が無いとか、何とか彼とか言つて追つ拂はれる」

「フーム」

「そのくせ、弟子共と一緒に夜更けまでゴトゴトやつてゐるさうですよ。謀叛人でなきや、贋金造り、そんなことぢやありませんか、親分」

ガラ八の鼻は少しばかり蠢めきます。この鼻がまた錢形平次に取つては、千里眼順風耳で、この上もない調法な武器だつたのです。

「贋金造りにしちや、暮しが樂ぢやない樣子だ」

「だから、謀叛人、綺麗な顏はしてゐるが、飛んだ大伴の黒主ぢやありませんか」

「――」

「それに、あの妹のお京といふのがあんまり綺麗過ぎますよ。妹だか女房だか知らないが、日中は二人家の中に引つ込んだ切り、滅多なことぢや天道樣の下に顏も出さねえ」

「それが口惜しかつたんだらう」

「へツ、お察しの通りと言ひてえが、謀叛人の妹に思ひをかけちや、笠の臺があぶねえ」

ガラツ八は手掌でピシヤリと自分の頸筋を叩いて、ベロリと舌を出しました。

「ぢや、どうしろと言ふんだ。いくら十手捕繩を預るこちとらでも證據も引つ掛りもない者を、いきなり縛るわけにも行くめえ」

「其處は親分の働きで――」

「馬鹿なことを言へ」

「それに、あの家から、時々煙硝の匂ひがするさうですよ、隱し鐵砲は遠島だ。それだけでも何とかなりやしませんか」

「待て/\、もう少し考へて見よう、うつかり手を附けて恥を掻いちやならねえ」

平次も皆川半之丞兄妹の日頃の樣子から、漸く重大なものを感じた樣子でした。

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