Chapter 1 of 6

紅葉はちょうど見ごろ、差迫った御用もない折を狙って、銭形平次は、函嶺まで湯治旅と洒落ました。

十手や捕縄を神田の家に残して、道中差一本に、着替えの袷が一枚、出来るだけ野暮な堅気に作った、一人旅の気楽さはまた格別でした。

疲れては乗り、屈託しては歩き、十二里の長丁場を楽々と征服して、藤沢へあと五六町というところまで来たのは、第一日の申刻(四時)過ぎ――。

「おや?」

平次はフト立停りました。

道中姿の良い年増が一人、道端の松の根元に、伸びたり縮んだり、歯を喰いしばって苦しんでいるのです。

「どうなすった、お神さん?」

ツイ傍へ寄って、顔を差覗いた平次。

「お願い、――み、水を――」

斜めに振り上げて、乱れかかる鬢の毛を、キリキリと噛んだ女の顔は、そのまま歌舞伎芝居の舞台にせり上げたいほどの艶やかさでした。

「癪を起したというのか、――そいつは厄介だが、――待ちな、今、水を持って来てやる、反っちゃならねえ、どっこい」

平次は女の身体を押付けていた手を離すと、ツイ十五六間先の百姓家へ飛んで行きました。まごまごする娘っ子を叱り飛ばすようにして、茶碗を一つ借りると、庭先の井戸から水を一杯くんで、元の場所へ取って返します。

その忙しい働きのうちに、街道筋はしばらく人足が絶えて、浪人者が二三人、うさんな眼を光らせて通っただけ――。

「おや?」

平次はもう一度目を見張りました。ツイ今しがたまで、松の根方にもがき苦しんでいた、道中姿の良い年増が、どこへ消えてなくなったか、影も形も見えなかったのです。

狐につままれたような心持で、藤沢の宿に入ると、旅籠だけは思い切り弾んで、長尾屋長右衛門の表座敷を望んで通して貰いましたが、足を洗って、部屋に通ると、懐中へ手を入れた平次は、

「おやおや、そんなものが望みだったのか、手数のかかる芝居をしたものじゃないか」

思わず苦笑いをしたのも無理はありません。頸からブラ下げた財布が、いつの間にやら、見事に切取られていたのです。

「どうなさいました、お客様」

入って来た番頭は、平次の頸にブラブラと下がった紐に驚いたのでしょう。

「ハッハッハッ、巾着切りにやられたよ、江戸者も旅に出ちゃ、からだらしがねえ」

「それは大変じゃございませんか」

腰を浮かす番頭。

「騒ぐほどのことじゃないよ、番頭さん、取られたのは、ほんの小出しの銭が少しばかりさ。まだ小判というものをうんと持っているから、旅籠賃の心配はさせねえ」

平次はそんな事を言ってカラカラと笑いますが、盗られた財布の中味は、正直のところ、路用から湯治の雑用を併せて三両二分ばかり、あとに残ったのは、煙草入に女房のお静が入れてくれた、たしなみの小粒が三つだけです。

「お役人に申しましょうか」

「いや、それにも及ぶめえよ」

江戸の高名な御用聞、銭形の平次が巾着切りにしてやられたとは、さすがに人に知られたくなかったのでしょう。

「左様でございますか、――その御災難の中へ、こんな事を申上げるのは変でございますが、今日は急に御本陣へお行列が入って、宿中一パイになってしまいました。手前どもでも割り切れないほどのお客様で、どうすることも出来ません。御迷惑様でも、相客をお二人ばかりお願い申上げたいのでございますが、いかがでございましょう」

番頭は敷居際に坐り込んだまま、一所懸命手を揉んでおります。

「いいとも、十畳に一人じゃ勿体ない、二人でも三人でも、案内して来るがいい」

「では――」

番頭は引込むと、間もなく二人の屈強な武家を案内して来ました。

「…………」

平次は危うく声を出すところでした。相客というのは、先刻街道筋で、女巾着切りを介抱している時、近々と眺めながら、素知らぬ顔をして通って行った、二人の浪人者に紛れもなかったのです。

Chapter 1 of 6