Chapter 1 of 7

「親分」

「なんだ、八。たいそうな意気込みじゃないか、喧嘩でもして来たのか」

銭形平次は気のない顔を、八五郎の方に振り向けました。

「喧嘩じゃありませんがね、癪にさわって癪にさわって――」

「癪なんてものは、紙入に入れてよ、内懐にしまい込んでおくもんだよ。お前みたいに鼻の先へブラ下げて歩くから、余計なものにさわるじゃないか」

「へッ、まるで心学の講釈だ。親分も年を取ったぜ」

八五郎はよっぽど虫の居どころが悪かったものか、珍しく親分の平次に突っかかって行きます。

「ハッ、ハッ、ハッ、八五郎にきめ付けられるようじゃ、全く年を取ったかも知れないよ。ところで何がいったい癪にさわるんだ」

平次は無造作に笑い飛ばして、縁側に後ろ手を突いたまま、空の碧さに見入るのでした。七夕も近く天気が定まって、毎日毎日クラクラするようなお天気続きです。

「だって、口惜しいじゃありませんか。三輪の万七親分が、先刻昌平橋であっしの顔を見ると、いきなり、『おや八兄哥、この辺にブラブラしているようじゃ相変らず銭形のところに居候かい。俺のところの清吉なんか、八兄哥より二つ三つ若いはずだが、この間から入谷に世帯を持って、押しも押されもせぬ一本立ちの御用聞だぜ。――もっともそこまで行くのは容易のことじゃあるまいがね――』とこうだ」

「…………」

「あんまり腹が立つから、いっそ十手捕縄を返上して、番太の株でも買おうと思ったが――番太の株だって只じゃ買えねエ」

こんなに腹を立てているくせに、八五郎の調子には、噴き出さずにいられない可笑味があります。

「ハッ、ハッ、ハッ、笑っちゃ気の毒だが、腹を立てるたびに番太の株を狙うのは、江戸中の岡っ引にも、お前ばかりだよ。どこかに良い後家付きの株でもあるのかい。――それはともかく、八五郎だって立派な一本立ちの御用聞じゃないか。こんど三輪の親分に逢ったら、そう言ってやるがいい。親分のところに泊っているのは、田舎から姪が来て、向柳原の叔母の家が急に狭くなったからだ。手頃の貸家があるなら世話して下さいよ、家賃なんかに糸目は付けないから――といったような具合にな」

「それくらいのことを言ったんじゃ、腹の虫が納まりませんよ」

「たいそう機嫌の悪い虫だね。じゃ、三輪の兄哥がびっくりするような手柄を立ててよ、お神楽の清吉が目を廻すような女房を貰うんだね」

「そんなのはありますか、親分」

「大ありさ、江戸は広いやね。――綺麗な女房の方は俺の鑑定じゃ納まるまいが、大きな仕事ならちょうど良いのがあるぜ」

「ヘエ」

「例えば、近ごろ三輪の親分が追い廻している、痣の熊吉だ。下谷浅草から神田小石川へかけて二三十軒も荒らし、人間も五六人斬られているが、どうしても捉まらねエ」

平次の言うのは尤もでした。去年の暮あたりから風のごとく去来する怪賊、金高にして二三千両もかせいだことでしょうが、文字通り神出鬼没で、江戸中の岡っ引が、束になって追い廻しても、なんとしても捉まりません。

「そいつはあっしも心掛けているが、首筋に火の燃えるような真っ赤な痣のある人間なんか、滅多に見付かりませんよ」

兇賊は何の変哲もない小男で、黒い覆面をしたっきり、町人風の小気のきいた様子で、たいてい宵のうちに入り、往来がまだ賑やかなうちに、いずこともなく逃げうせるのが特徴とされております。

もう一つの特徴は覆面の下から見える左首筋に、小判形の真っ赤な痣のあることと、それから、恐ろしく手の利くことと、身体が人間離れがしているほど軽捷なことです。

「で、まるっきり見当が付かないのか」

「ヘエ、首筋に痣のある人間さえ見付かればワケはないんだが」

「馬鹿だなア――、いつまでも、その気だから、三輪の親分に嘗められるんだ」

平次は「此子誨ゆべからず」といった顔をするのです。

「外に手蔓も引っ掛りもないじゃありませんか」

「じゃ訊くが、自分の首筋に真っ赤な痣のあることを知らない人間はあるだろうか」

「ありませんね、鏡というものがあるんだから」

「覆面に顔を隠して、人の家へ押し込もうという太い奴が、首筋の赤い痣を隠すことを知らないとはどういうわけだ」

「なるほどね」

「痣なんか目当てに捜しちゃ、熊吉は一生捉まらないよ。――これだけ言ったら、なんとか工夫のつけようがあるだろう。三輪の万七親分にあっと言わせるつもりで、熊吉を挙げてみるがいい」

「ヘエ――」

平次は精いっぱいの激励をするのでした。でもなければ、一本立ちになろうなどという望みを起す八五郎ではありません。

Chapter 1 of 7