一
その晩、代地のお秀の家で、月見がてら、お秀の師匠に当る、江戸小唄の名人十寸見露光の追善の催しがありました。
ちょうど八月十五夜で、川開きから三度目の大花火が、両国橋を中心に引っ切りなしに打揚げられ、月見の気分には騒々しいが、その代りお祭り気分は、申分なく満点でした。
追悼といったところで、改まった催しではなく、阿呆陀羅経みたいなお経をあげ、お互に隠し芸を持ち寄って、飲んで食って、花火が打ち止んだ頃お開きにすればそれでよかったのです。神祗釈教恋無常を一緒くたにして、洒落のめしてその日その日を暮している江戸時代の遊民たちは、遊ぶためには法事も祝言も口実に過ぎなかったのです。
お秀は代地の船宿の娘で、今年二十四の、咲き過ぎた年増でしたが、自分の容貌に溺れて、嫁ぎ遅れになり、両親の死んだ後は、船宿の株を人に譲って、有り余る金を費い減らすような、はなはだ健康でない生活を続けているのでした。
折悪しくその日は昼過ぎから大夕立、一としきりブチまけるように降りましたが、暮近い頃から綺麗に上がって、よく洗い抜かれた江戸の甍の上に、丸々と昇った名月の見事さというものはありません。
話はその大夕立の時から始まります。
お秀と仲好しで、向柳原の油屋の娘お勢という十九になる可愛いのが、少しでも早く行って、お秀さんに手伝って上げようと思ったばかりに、うっかり傘を忘れて飛び出し、柳橋の手前であの大夕立に逢ったのです。
ブチまけるような雨足で、逃げも隠れもする隙がありません。夢中で飛び込んだ軒下は運悪く空店で、その先は材木置場、二三軒拾って安全な場所へ辿り着くまでに、お勢の身体は川から這い上がったように、思いおくところなく濡れておりました。
この夏、母親にねだって拵えて貰った、単衣の帯が滅茶滅茶になって、泣きたいような心持ですが、どうすることもできません。一度家へ帰ってともかく乾いたのと着換えて来ようと、小止みになった雨足を縫って歩き出すと、ちょうどそこへ、蛇の目をさして通りかかったのは、同じお秀のところへ行く、お紋という二十二三の中年増でした。
「まア、お勢ちゃん、大変ねエ――その姿で町を歩くと、身投げの仕損ないと間違えられるわよ。お秀さんの家はすぐそこだから、ともかく浴衣でも借りて帰っちゃどう?」
「そうね」
お勢もツイその気になりました。
雨がカラリと上がって、ピカピカしたお天道様が顔を出すと、グショ濡れの姿で江戸の町を――十九の娘が歩けようはずもありません。
お秀の家へ行くと、お秀は痒いところに手の届くような親切さでした。
「まア、ひどい目に逢ったのねエ、お勢ちゃん。気味が悪くなかったら、これを着てお出でよ。気に入ったら、お勢ちゃんに上げてもいいくらいなの」
そんなことを言いながら、お秀が自慢で着ていた、空色縮緬の単衣と、青磁色の帯とを貸してくれました。
お勢は好意に甘えるような心地で、濡れたものの乾くまで借着で間に合せる外はなかったのです。
「少し地味だけれど、よく似合うじゃないの。家へ帰って着換えして来るなんて言わずに、気味が悪くなかったら、そのまま着てらっしゃいよ。私はこの通り、同じ柄の新しいのがあるんだから――」
お秀はそう言って、自分のしめている同じ青磁色の帯を叩いて見せるのでした。空色の単衣に青磁色の帯は、紫陽花のような幽邃な調子があって、粋好みのお秀が好きで好きでたまらない取合せだったのです。
日が暮れきって、花火がポーン、ポーンと競い鳴る頃から、客が寄り始め、やがて月が河向うの家並を離れる頃には、十幾人の顔が揃って、大川を一と目の部屋に、酒と歓声が盛りこぼれました。
困ったことにお勢は、大夕立に洗われて冷え込んだものか、その少し前から、ひどい腹痛を起して、賑やかな席にも顔を出さず、階下の四畳半に、キリキリと差し込むのを抑えて、たった一人悶えておりました。
「困ったワねえ、お医者を呼ぼうかしら」
忙しい中から、お秀はときどき差しのぞきましたが、その度ごとにお勢は、
「いえ、なんでもないの、すぐ癒るから、そっとしておいて下さい」
唇を噛みながらも、強って辞退するのです。――「お勢ちゃんはそう言ったけれど、やはりお医者に診て貰った方がよかったかも知れない。でも、その時はお客が後から後から見えるし、手が足りないし、お万は気がきかないし、本当にてんてこ舞いだったから、気になりながらツイ放っておいて、本当に済まなかったと思います」――と後でお秀は言うのです。
一とわたり酒が済んで、持寄りの芸尽しが始まりましたが、二度目の夕立が来そうな空合いで、一座はなんとなく落着かない心持でした。円タクも人力車もなかった時代、夜中に降り出されたら、遠方へ帰る人達は、全くみじめな目に逢わなければなりません。
義理一ぺんの客が帰って、親しい人達だけ残ったのは戌刻半(九時)過ぎ、これからまた盃を改めて、夜と共に騒ごうという時、
「あッ、た、大変ッ」
階下から精いっぱいに張り上げた者があります。
「なんだ、何が大変なんだ」
お秀、お紋を始め、客の菊次郎、猪之松、五助など、一団になって飛び降りると、下女のお万という十七の娘が、梯子段の下に腰を抜かして、見栄も色気もなく納戸の前の四畳半を指しているのでした。