Chapter 1 of 5

小網町二丁目の袋物問屋丸屋六兵衞は、到頭嫁のお絹を追ひ出した上、伜の染五郎を土藏の二階に閉ぢ籠めてしまひました。

理由はいろ/\ありますが、その第一番に擧げられるのは、染五郎は跡取には相違ないにしても、六兵衞の本當の子ではなく、藁の上から引取つた甥で、情愛の上にいくらか裃を着たものがあり、第二番の直接原因は、お絹の里が商賣の手違ひから去年の暮を越し兼ねて居るのを見て、ツイ父親に内證で五百兩といふ大金を染五郎の一存で融通したことなどが知れた爲だと言はれて居ります。

併し、もつと/\突込んだ本當の原因といふのは、染五郎とお絹の仲が良過ぎて、ツイ舅の六兵衞の存在を忘れ、五十になつたばかりの獨り者の六兵衞は、筋違ひの嫉妬と、無視された老人らしい忿怒のやり場に、若い二人の間を割いたとも取沙汰されました。

丸屋六兵衞のしたことは、その頃の社會通念から言へば、一々尤もで、公事師が束でかゝつても、批辯の持込みやうはありません。お絹は染五郎との仲を割かれ、泣く/\新茅場町の里方へ歸り、染五郎は小網町二丁目の河岸つ縁に建てた、丸屋の土藏の二階に籠つて、別れ/\の淋しい日を送つて居るのでした。

二人は併し、生木を割かれたまゝ、ぢつと運命に甘んじてゐるにしては若過ぎました。土藏の二階に追ひ上げられて、暫らくの謹愼を強ひられた染五郎が、先づ思ひ出したのは、お絹が嫁入りする前の曾ての日、此處から川を隔てて、新茅場町のお絹の家の裏二階と合圖を交し合つた昔の記憶だつたのです。染五郎の家の小網町と、お絹の家の新茅場町とは、陸地を拾つて行く段になると、右へ廻つて思案橋又は親爺橋、荒布橋、江戸橋、海賊橋と橋を四つ、左へ廻つて箱崎橋――一に崩れ橋――港橋、靈岸橋と橋を三つ渡らなければなりませんが、眞つ直ぐに鎧の渡しを渡れば眼と鼻の間で、丸屋の土藏の二階窓から、お絹の里の福井屋の二階は、手に取るやうに見えるのでした。

染五郎は早速窓の格子に手拭を出して見せました。千萬無量の思慕を籠めた手拭が、ヒラヒラと夕風に飜ると、それを待ち構へたやうに、川を隔てた福井屋の二階欄干からは、赤い鹿の子絞りの扱帶が下がるではありませんか。

「あ、お絹」

染五郎は思はず乘り出しました。欄干の赤い扱帶こそは、曾て戀仲だつた頃のお絹が、萬事上首尾といふ意味を、川を隔てて染五郎に言ひ送る合圖だつたのです。この合圖を受取つた昔の染五郎は、何を措いても鎧の渡しを越えてお絹に逢ひに行きました。

「若旦那、お樂しみですね」

さう言ふ渡し守の猾さうな顏を見ると、染五郎はツイ餘計な酒代をはずまなければならなかつたことなど――今はもう悲しい思ひ出になつてしまつたのです。土藏の中に閉ぢ籠められてゐる染五郎にしては、此處を拔け出して、川向うへ行く工夫はつきません。

斯うして焦躁の幾日か過ぎました。父親六兵衞の怒は容易に解けさうもなく、そのうちに丸屋の親類や仲人の出入りの激しくなる樣子を見ると、いよ/\嫁のお絹を離別するつもりになつたことが、土藏の中の染五郎にもよく判るのでした。あれほど染五郎が目をかけてやつた店中の者は、主人六兵衞の眼を怖れて一人も近づかず、三度の物を運んでくれる小僧の留吉だけは、何彼と心配をしてくれますが、十三や十四の少年では、染五郎の憂悶を救ふ工夫もありません。

その中にたつた二人、染五郎とお絹の割かれた仲に同情してくれる者がありました。一人は石卷左陣といふ浪人者で、丸屋の裏に年久しく住み、袋物の内職をさせて貰ひ乍ら、染五郎に道樂の指南をした中年男。もう一人はお半と言つて丸屋の掛り人ですが、死んだ六兵衞の女房の姪で、取つて二十二になる小意氣な年増女です。

「若旦那」

「あ、お半か」

染五郎は不意に階下から聲を掛けられて、窓格子にしがみ付いた顏を離しました。

「可哀想に、お絹さんが合圖をして居ますね」

「――」

お半は何も彼も知つて居たのです。

「呼んでおあげなさいよ、若旦那。――これつ切り別れ話になると、お絹さんは生きちや居ませんよ」

お半はホロリとするのです。小意氣ではあるが、自分の醜さを意識して居るお半は、お絹と染五郎の仲を、犧牲的な心持で同情してやつて居るのでした。

「どうすれば宜いのだ、お半」

「鎧の渡しは人目に立つが、大廻りに橋を渡つて來る分には、江戸の街に關所はありやしません。暗くなつたら此處へ來るやうに、合圖をして御覽なさいよ」

「合圖」

「赤い扱帶が=萬事上首尾、忍んで來い=といふ合圖ぢやありませんか」

「えツ」

「私が知らないと思つてゐらつしやるの、若旦那。――長い間見せつけられたんですもの、どんな事でも見通しよ。ホ、ホ」

お半は少し蓮葉に言つて、笑ひを噛み殺すのです。

「?」

「若旦那の方から行かれないんだから、今度はお絹さんが通ふ番ぢやありませんか。合圖をして御覽なさいよ。――扱帶は私のでも間に合はないことはないでせう」

くる/\と解いたお半の扱帶、同じ緋鹿の子絞りを、自分の手で土藏の窓からサツと、外へ投げかけました。

川を隔てて、それを見たお絹は、どんな轉倒した心持になつたことでせう。此時福井屋の二階のほのめく物の影は、欄干に乘出してヂツと此方を見入るのが、夕陽の中に白々と浮き上がるのです。

Chapter 1 of 5