Chapter 1 of 4

「八、居るか」

向柳原の叔母さんの二階に、独り者の気楽な朝寝をしている八五郎は、往来から声を掛けられて、ガバと飛起きました。

障子を細目に開けて見ると、江戸中の桜の蕾が一夜の中に膨らんで、甍の波の上に黄金色の陽炎が立ち舞うような美しい朝でした。

「あ、親分。お早う」

声を掛けたのは、まさに親分の銭形平次、寝乱れた八五郎の姿を見上げて、面白そうに、ニヤリニヤリと笑っております。

「お早うじゃないぜ、八。もう、何刻だと思う」

「そのせりふは叔母さんから聞き馴れていますよ。――何か御用で? 親分」

八五郎はあわてて平常着を引っ掛けながら、それでも減らず口を叩いているのでした。

「大変だぜ、八五郎親分。こいつは出来合いの大変と大変が違うよ。溝板をハネ返して、野良犬を蹴飛ばして、格子を二枚モロに外すほどの大変さ」

平次はそう言いながらも、一向大変らしい様子もなく、店先へ顔を出した八五郎の叔母と、長閑なあいさつを交しているのでした。

「あっしのお株を取っちゃいけません。――どうしたんです、親分」

八五郎は帯を結びながら、お勝手へ飛んで行って、チョイチョイと顔を濡らすと、もう店先へまぶしそうな顔を出しました。

「観音様へ朝詣りをするつもりで、フラリと出掛けると、途中で大変なことを聴き込んだのさ。お前に飛込まれるばかりが能じゃあるまいと思ったから、今日は俺の方から、『大変』をけしかけに来たんだ。驚いたか、八」

「驚きゃしませんよ。まだ、親分は何にも言ってないじゃありませんか」

「なるほど、まだ言わなかったのか。――外じゃない。広徳寺前の米屋、相模屋総兵衛が、昨夜人に殺されたんだとさ」

「ヘエ――。あの評判の良い親爺が?」

「どうだ、一緒に行ってみないか」

「行きますよ。ちょいと待って下さい親分」

「これから飯を食うのか」

「腹が減っちゃ戦が出来ない」

「待ってやるから、釜ごと齧らないようにしてくれ。あ、自棄な食いようだな。叔母さんが心配しているぜ。早飯早何とかは芸当のうちに入らない」

「黙っていて下さいよ、親分。小言をいわれながら食ったんじゃ身にならねえ」

「六杯と重ねてもか」

そんな事を言いながらも、八五郎は飯を済ませて、身仕度もそこそこに飛出しました。

広徳寺前までは一と走り、相模屋の前は、町内の野次馬で一パイです。

「えッ、退かないか。その辺に立っている奴は皆んな掛り合いだぞ」

三輪の万七の子分、お神楽の清吉が、そんな事を言いながら、人を散らしております。

「どうした、お神楽の。下手人は挙がったか」

平次は穏やかに訊きました。

「挙がったようなものですよ。帳場の金が百両無くなって、下男の権八というのが逃げたんだから」

「逃げた先の見当は付いたかい」

余計なことを、ガラッ八は口を挟みました。

「解っているじゃないか。吉原の小紫のところよ。――野郎の名前は権八だ」

「へッ」

八五郎は睡を吐きました。まさに一言もない姿です。平次はそんな事に構わず、相模屋の中に入って、いきなり事件の核心に触れて行きます。

殺された相模屋総兵衛は、その時もう六十歳。早く女房に死に別れて、跡を継ぐべき子供もなかったので、二人の姪――お道、お杉――を養って淋しいが、しかし満ち足りた暮しをしている、有徳の米屋でした。

口やかましくて、手堅い性分で、なまけ者や誤魔化しを見ていることの出来なかった総兵衛でしたが、その一面には慈悲の心にも富み、信心も篤く、まず町人としては申分のない人柄で、人に殺されるはずもないようですが、物事に容赦のない性格が、とんだ怨みを買ったのかもわかりません。

平次はともかく、番頭の市五郎に逢って、いろいろのことを訊きました。市五郎は四十五六の一と癖あり気な男ですが、日頃主人の総兵衛は何もかも自分の胸一つに決め、大事小事ことごとくその差金でやっていたので、番頭といっても、あまり身上に立ち入ったことは知らず、米の粉に塗れて、ただもう他の奉公人たちと一緒に働いているといった様子でした。

主人総兵衛の死骸は、今朝姪のお杉――下女同様に働いている二十五の大年増が、雨戸が一枚開いているのに驚いて、その寝間を覗いて発見しました。お杉の声に集まった人たちは、床から少しのり出して、紅に染んでこと切れている主人の凄まじい姿に胆を潰し、たちまち煮えくり返るような騒ぎが始まったのです。

傷は喉へ一箇所、馬乗りになって突いたものでしょうが、よッぽど落着いた手際で総兵衛はたぶん声も立てずに死んだことでしょう。兇器は総兵衛自身が寝室の床の間においた用心の脇差で、それは曲者が逃げる時、面喰らって持出したものか、裏口の外、溝の中に抛り込んでありました。

無くなったものは、現金で百両、それは番頭の市五郎もよく知っております。昨夜帳尻をしめて現金百十二両主人に渡し、主人はそれを空財布に入れてふところに入れたのを見ていたのですが、死骸の側にほうり出した財布には、小粒で十二両残っているだけ、小判で百両の金は、どこにも見当らなかったのです。

「主人を怨む者はなかったのか」

平次は、こんな平凡なことを訊ねました。

「慈悲深い、よく出来た御主人でございました。怨む者があるはずもございません」

「昨夜から見えないという下男は?」

「権八といって、二十九になる男でございます。下総の古河の者で、十年前から奉公し、まことに実直に勤めておりました。主人を害めるような、そんな男ではございません」

「その権八の荷物はどうした」

「それも三輪の親分さんがお調べになりましたが、――着換え一枚だけ持ち出したようで」

そういわれると、この下手人は、権八に間違いはないようです。

「権八の在所へは?」

「三輪の親分さんが追っ手を出しました」

それではもう、平次にしなければならぬ仕事は一つもありません。

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