Chapter 1 of 7

「八、何んか良い事があるのかい、大層嬉しさうぢやないか」

「へツ、それほどでもありませんよ親分、今朝はほんの少しばかり寢起がいゝだけで――」

ガラツ八と異名で呼ばれる八五郎は、さういひ乍らも湧き上がつて來る滿悦を噛み殺すやうに、ニヤリニヤリと長んがい頤を撫で廻すのでした。

相手になつてゐるのは、江戸開府以來の捕物の名人と言はれた錢形の平次、まだ三十そこ/\の苦み走つた良い男ですが、十手捕繩を持たせては、江戸八百八町の隅々に、魑魅魍魎のやうに暗躍する惡者共を番毎顫へ上がらせてゐる名題の名御用聞です。

「叔母さんから纒まつたお小遣でも貰つた夢を見たんだらう」

「そんなケチなんぢやありませんよ、憚り乍ら濡れ事の方で、へツ、へツ」

「朝つぱらから惚氣の賣り込みかい、道理で近頃は姿を見せないと思つたよ。ところで相手は誰だ、横町の師匠か、羅生門河岸の怪物か、それとも煮賣屋のお勘子か――」

平次はそんな事をいひ乍ら朝の膳を押しやつて、貧乏臭い粉煙草をせゝるのでした。

「もう少し氣のきいたところで――」

「大きく出やがつたな、年中空つ尻のお前が入山形に二つ星の太夫と色事の出來るわけはねえ、それとも大名のお姫樣のうんと物好きなのかな」

斯う言つた調子で何時も大事な話を進める親分子分だつたのです。ガラツ八の八五郎はこの時二十八、まだ叔母さんの二階に居候をしてゐる獨り者ですが、平次のためには大事な見る眼嗅ぐ鼻で、この春から十手を預つて、今ではもう押しも押されもせぬ一本立の御用聞でした。

平次の女房の若いお靜は、二人の話のトボケた調子に吹出しさうになつて、あわててお勝手へ姿を隱しました。この上附き合つてゐると朝のうちから轉げ廻るほど笑はされるのです。

「何を隱さう、ツイ其處――路地の入口の一件ですよ」

「あツ、お秀を張つてゐるのか、惡いことはいはない、あれは止せ。第一お前には少しお職過ぎるぜ」

平次がかう言ふのも無理のないことでした。

神田お臺所町――錢形平次が年久しく住んでゐる袋路地の入口に、今年の春あたり引越して來た仕立屋の駒吉、その娘のお秀の美しさは、神田中に知らぬ者も無かつたのです。

尤も駒吉は三年前まで上野山下に大きな店を持つて、東叡山の御出入りまで許された名譽の仕立屋でしたが、ツイ近所の伊勢屋幸右衞門に押入つた大泥棒熊井熊五郎の召捕に、彌來馬の一人として飛出し、元氣に任せて助勢したばかりに、巨盜熊五郎に斬られて右の腕を失ひ、それから健康が勝れない上に、仕事も上がつたりで、到頭山下の店を人手に讓つて、お臺所町のさゝやかなしもたやに越し、娘のお秀の賃仕事で、細々と暮してゐる五十男だつたのです。

お秀はその時二十歳、父親の怪我やら家の沒落などで、その當時にしては嫁き遲れになりましたが、それが今では幸せになつて、父親の介抱を一と手に、甲斐々々しく賃仕事をして、大した不自由の無い日を送つて居りました。親孝行で氣性者で、その癖滅法愛くるしいお秀が、何彼につけて近所の獨り者の噂に上らない筈もありません。

「親分の前だが、これでも男の端くれですぜ。お職過ぎるは可哀想ぢやありませんか」

「ほい、怒つたのか、――ぢやまアお前とお秀は頃合の相手といふことにして、何んかかう手應へでもあつたのかい」

「手應へどころの段ぢやない、ドーンと來ましたぜ」

ガラツ八の八五郎は乘り出すのです。

「ま、待つてくれ。さう彈みが付いちや叶はない――先づ膝つ小僧を隱しなよ。鐵瓶は沸つてゐるんだぜ、そいつを引つくり返すと穩かぢや濟まない」

「そんな事は構やしませんよ。ね親分、お秀はかう言ふんだ――私が斯うして難儀して居るのも、父さんが片輪になつたのも、皆んな熊井熊五郎とかいふ大泥棒のせゐだから、私を可哀想だと思ふなら、熊井熊五郎を縛つておくれ。八さんは十手捕繩を預つてゐる立派な御用聞なんだから、それ位のことが出來ない筈はない。首尾よく父さんの仇が討てたら、その時は――」

「その時は何うしたといふんだ」

「あとは袂で顏を隱しましたよ、へツ、へツ、いはぬが花で――」

「馬鹿だなア、お秀のつもりぢや、その時は他所へ嫁に行く――といひ度かつたのさ」

「そんな薄情なお秀ぢやありませんよ、憚り乍ら――」

八五郎は少しムキになります。

「まア宜い、三年前山下の伊勢屋で掛人の浪人者を斬り殺し、隣の仕立屋駒吉に傷を負はせて逃げた熊井熊五郎が近頃また江戸に舞ひ戻つて御府内を荒してゐるやうだ。三年前は捕り損ねたが、今度といふ今度は逃がすこつちやねエ、現に笹野の旦那も、昨日お役所でお目にかゝると、熊井熊五郎と言つたやうな筋の惡い曲者が御府内を荒し廻るのは、御上の御威光にも拘はることだ、何とか一日も早く召捕つて、江戸中の町人共に安心させるやうにといふ御言葉だ。お秀坊の話が出なくても、俺はその事で今日は彼方此方飛廻らうと思つて居る。丁度宜い鹽梅だ、お前も精一杯手傳つてくれ」

平次の話はいよ/\眞面目な軌道に乘つて來ました。

「へエ、やりますよ。お秀坊の褒美附きだ、何んでも言ひつけて下さい」

八五郎は夢中になつてニジリ寄ります。

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