Chapter 1 of 6

「親分、平右衞門町の忠義酒屋といふのを御存じですかえ」

「名前は聞いて居るが、店は知らないよ」

ガラツ八の八五郎は何んかまた事件を嗅ぎ出して來た樣子です。大きな小鼻をふくらませて、懷ろから出した掌で、長んがい顎を撫で廻し乍ら、斯んな調子で始めるのでした。

薄寒い日射しが障子に這ひ上がつて、街にはもう暮近い賑やかさが脉打つてゐやうといふ或日の出來事です。

「孝行や忠義はこちとらに縁はないが――」

「何んといふ罰の當つた口を利くんだ、馬鹿野郎。掻拂ひや巾着切を追つ駈けるばかりが能ぢやあるやえ、たまには御褒美の出る口でも聽込んで來い」

「へエ、精々心掛けますがね、――差當り平右衞門町の忠義酒屋加島屋の話で――」

錢形平次の馬鹿野郎を喰ひつけてゐる八五郎は、臆した色もなく話を續けるのでした。尤も小言をいひ乍らも平次は、粉煙草の烟を輪に吹き乍ら、天下泰平の表情で、八五郎の話を享樂して居るのです。

「加島屋が暮の大賣出しでも始めるといふのか」

「そんな世間並な話ぢやありません。が、親分はあの忠義酒屋の因縁を御存じですか」

「いや、知らないよ。お前には小言をいつたものの、俺なんかも忠義や孝行とは縁のない人間かも知れないな」

「尤もお靜姐さんは、町内で評判の亭主孝行――」

「馬鹿野郎、亭主の前で女房を褒める奴があるか」

「へエツ」

八五郎は月代を撫で上げて、ペロリと舌を出しました。平次の戀女房のお靜は、何んにも知らずに、お勝手を明るくさせ乍ら、嗜みよくお化粧をして居ります。

「無駄は拔きにして、忠義酒屋の加島屋が一體どうしたと言ふんだ」

平次は際限なくタガのゆるむ話を、もとの話題に引戻しました。

「へツ、相濟みません。――その加島屋の娘――二人ありますがね、姉はお咲と言つて二十歳、妹はお駒といつて十八、姉のお咲は咲き立ての牡丹のやうな、良い女ですが、妹のお駒は見つともない娘で――同じ枝に咲いた花が、あんなに違つてゐたら見世物でせうが、人間の姉妹だから大した不思議とも思はない――」

「今日はどうかして居るぜ八、お前の言ふことは一々疳にさはるが」

「相濟みません。――惡る氣ぢやないんで、勘辨して下さい。――ところでその娘が昨日わざわざあつしのところへ來たとしたらどんなもので、へツ、へツ」

「嫌な奴だね、姉の方か、妹の方か」

「姉の方だと申分ないんだが、妹の方でしたよ」

「不足らしい事を言ふな、新造が折角訪ねて行つたんだ」

「さう思つて、精一杯お愛想をしましたよ」

「用事は?――まさか八五郎を口説きに行つたわけぢやあるめえ」

「お察しの通りで――近頃加島屋に妙なことがあるから、來て見てくれ――と斯ういふぼんやりした話でしたよ」

「どんな事があるんだ」

「姉さんの、――あの綺麗なお咲が、誰かに狙はれて居るやうで、氣味が惡くて叶はないといふんで」

「それつきりか」

「へエー、それつきりだから話になりません、唯もう何となく怖くて/\たまらないんださうで」

八五郎の話はつかまへどころもありません。

「そのお咲といふのは病身ぢやないのか」

「きりやうも良いが、身體も丈夫ですよ、少し位のことを氣に病む質ぢやありませんが、この夏頃から變なことが續くんださうです。物干場へ上がると、手摺が外れてゐて、屋根へ轉げ落ちさうになつたり、夜なんか外へ出ると、誰かきつと後ろから跟いて來たり――」

「――」

「それだけなら大した氣にもしなかつたでせうが、ツイ二三日前、雪が降りましたね」

「フーム」

八五郎の話は妙に飛躍します。

「夜のうちに五六寸降つて、朝はカラリと晴れたでせう。あの雪景色を見ると、加島屋の主人は下手な狂歌なんか作つて見たくなつたんですね、町内の胡麻摺りや野幇間を集めて急に雪見船を出すことになりました」

「フーム」

話は大分面白くなりさうで、平次もツイ乘出しました。

「船の支度が出來て、兩國の下に舫つたのは辰刻(八時)少し過ぎ、結構な短册に下手つ糞な歌などを書いて居ると、お料理やお燗の世話をして居るお咲の頭の上へ、薪割が一梃、凄い勢ひで落ちて來たといふぢやありませんか」

「怪我は?」

「幸ひ薪割は少し外れて、お咲の肩をかすつて水の中へ落ちました。それツと船の中の者が立ち上がりましたが、兩國の橋架の欄間に舫つた船から、橋の上が見える道理はありません」

「薪割は何處のだ」

「水の中へ落込んで、この寒空ぢや搜しやうはありません。尤も加島屋の物置にあつた筈の古い薪割が一梃なくなつてゐたさうで」

「その時刻に店を出た者はないのか」

「多勢の奉公人で、誰が外へ出たか、はつきりは判りません。唯、これだけは言へますよ、番頭の清兵衞は帳場を動かなかつたし、手代の喜三郎――此男は忠義酒屋の綽名の主で、江戸中でも評判になつた心掛の良い男ですが、その騷ぎの最中に丁度船へ辨當を運んで來たさうですから、この二人にだけは疑ひが掛らなかつたわけです――喜三郎は船へ來るとひどく腹を立てて裸になつて大川へ飛込んで薪割を搜すと言ひ出して皆んなに留められたさうで」

「曲者は加島屋の家の者に違ひあるまい。が、こいつはむづかしいな」

平次も腕を組みました。これだけの事件では、錢形平次が乘出すわけにも行きません。

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