Chapter 1 of 11

江戸開府以來の捕物の名人と言はれた錢形の平次は、春の陽が一杯に這ひ寄る貧しい六疊に寢そべつたまゝ、紛煙草をせゝつて遠音の鶯に耳をすまして居りました。

此上もなく天下泰平の姿ですが激しい活動のあひ間/\に、こんな閑寂な境地を樂しむのが、平次の流儀でもあつたのです。

「八、何をして居るんだ。用事があるなら大玄關から入れ」

いきなり平次は振り返りもせずに、後ろの方――さゝやかな庭木戸のあたりに居る人間に聲を掛けました。

「へツ、よくあつしと解りましたね」

平次のためには大事な『見る眼嗅ぐ鼻』ですが、人間の燒が少々甘い八五郎は、木戸の上に長んがい顎を載つけたまゝ斯う言ふのです。

「大層意氣な影法師が縁側まで泳いで來るぢやないか、そんな根の弛んだ髷節が、朝つぱらから俺の家を覗くとしたら、八五郎兄哥でなくて誰だと思ふ」

「違げえねえ、――が、大玄關は洗濯物と張板で塞がつて居ますぜ」

八五郎はそれでも氣になるらしく左の方に曲つた髷節を直し乍ら、木戸を押開けてバアと入つて來ました。

「お伴れは何うした、八」

「そいつも影法師の鑑定でせう、親分」

「いや、今度のは匂ひだよ」

「まア」

少し嬌顰を發したらしい若い女の聲、それを聽くと平次は起き直つて、

「まア入れ、其處に立つて居ちや、お長屋の衆が通られまい」

と蟠りもなく招じ入れるのでした。

八五郎と一緒に來た客といふのは、十七八の可愛らしい娘で、至つて粗末な木綿物を着て居りますが、何んとなく氣性者らしいところがあり、平次の惡い冗談に腹を立てたものか、八五郎の後ろへ隱れるやうにツンとそつぽを向いて居ります。

「ね、親分。若い娘が一人煙のやうに消えてなくなつたんですがね、こいつは年代記ものぢやありませんか」

八五郎は話上手に持かけました。

容易に人を縛らぬ錢形平次は、一面にはまた恐ろしく無精なところがあり、江戸の町人達がよく/\平次の叡智と腕とを借り度いと思ふ場合は、氣性を呑み込んだ八五郎に頼んで、斯んな具合に持ちかけ、平次自身の乘出して來るのを待つ外はなかつたのです。

「婆さんか赤ん坊が消えてなくなりや不思議だが、若い娘や息子が行方不知になるのを一々不思議がつた日にや、江戸に住んぢや居られないぜ」

「それが親分、唯の行方不知とはワケが違ひますよ。何しろ内から戸締りをしたまんま、床が藻拔けの殼で、寢んでゐた筈の娘が煙のやうに――斯う」

ガラツ八は一生懸命兩手を宙に泳がせて、煙の恰好を見せるのでした。

「それは一體何處で、誰が消えてなくなつた話なんだ」

平次の興味も漸く動き始めた樣子です。

「本郷金助町の御浪人大瀧清左衞門樣の一番目娘でお茂世さん、――詳しいことは此處に居る妹のお勢さんに訊いて下さい」

八五郎は席を讓るやうに身體を捻つて、後ろに居る若い娘を指さしました。

「親分、お聽き下さい。父は不心得者は放つて置け――と申しますけれども、姉は自分勝手に家出をするやうな人では御座いません。あんまり不思議ですから、八五郎さんにお願ひしましたが、戸締りをしてある家から、姉はどうして外へ出たのでせう――いえ姉が外へ出てから、誰が戸締りをしたのでせう」

「さア」

「お願ひでございます、姉を搜して下さい。――明後日になると、芝田樣がお見えになる筈で――」

お勢と言はれた娘は、先刻の輕い怒りなどは忘れてしまつた樣子で、八五郎の側へ膝をすゝめました。身扮は質素な町人風で、裏やら袖口やらにほのめく赤い物も可憐ですが、物言ひや態度は武家風で、可愛らしいうちにも、妙に侵し難いところがあります。

「芝田樣?」

「姉の許婚の方でございます、明後日九州から御入府の筈で」

「兎も角、詳しく伺ひませう」

平次も漸く開き直りました。

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