一
「親分、間拔けな武家が來ましたよ」
縁側から八五郎の長んがい顎が、路地の外を指さすのです。
梅二月も半ば過ぎ、よく晴れた暖かい日の晝近い時分でした。
「何んといふ口をきくんだ。路地の外へ筒拔けぢやないか、萬一その御武家の耳へ入つたら無事ぢや濟むめえ。無禮討にされても、文句の持つて行きどころはないぜ」
「だからあつしは武家が嫌ひさ。何んか氣に入らないことがあると、人切庖丁を捻くり廻して、――無禮者ツ、手は見せぬぞ――と來やがる。人參や牛蒡ぢやあるめえし、人間がさうポンポン切られてたまるか、てんで」
八五郎はツイ自分の鼻を拳固で撫で上げて、日頃の武家嫌ひを一席辯ずるのです。
「わかつたよ。誰もお前を武家に取立てるとも何んとも言はないから安心しろ――ところでその武家が一向姿を見せないぢやないか。どうしたんだ」
「もう來る時分ですよ。昌平橋の袂で、――この邊に高名なる錢形平次殿の御住居があると承はつて參つたが、どの邊でござらう――と眞四角に挨拶されて、危ふく吹き出すところでしたよ。高名なる錢形平次殿は嬉しいぢやありませんか」
「馬鹿野郎、丁寧にモノを言はれて何が可笑しいんだ」
「道は大通りを教へましたがね、あつしは拔け裏傳ひに來たから、曲りくねつてもう二三度道を訊いてゐるうちに請合晝頃になる」
「呆れた野郎だ――おや、さう言へばお客樣ぢやないか。お靜が取次に出たやうだ。お前はその顎を引つ込めろ。見付かると面白くねエ」
八五郎は顏を引つ込めました。それと入れ違ひに、平次の女房のお靜に案内されて來たのは、五十年輩の恐ろしく尤もらしい武家でした。
「平次殿でござるか、拙者はお弓町の宇佐美直記樣用人正木吾平と申すものでござるが、以後御見知り置きを――」
などと開き直ります。いかにも着實さうで、羊羹色の紋附と共に、何んの疑念も不平もなく、忠義一途に世に古りた姿です。
「これは/\、御挨拶で恐れ入ります。で私へ御用と仰つしやるのは?」
平次は聊かたじろぎました。こんな人種は平次に取つても何よりの苦手です。
「他でもない、宇佐美家の浮沈に拘はる一大事。折入つてお願ひを申上げたいといふのは」
正木吾平は語り進みました。
宇佐美直記といふのは三千五百石の大身で、旗本とは言ひながら安祥以來の家柄、大公儀から格別の御會釋があり、當主は無役ではあるが、小大名ほどの暮しをしてをります。
所領は下總、そこには小さいながら陣屋があり、東照權現――と神樣扱ひにされてゐる徳川家康から賜はつた所領永代安堵の御墨附は、何物にも換へ難い家寶になつてゐるのですが、その御墨附が昨夜盜賊のために盜み去られたといふのです。
「その上御孃樣のお信樣が、庭の向うから射た本矢に頬を縫はれて、大變な怪我をなさいました。殿には以つての外の御腹立ちで、曲者引つ捕へて成敗すると仰せられますが、その曲者の見當もつかず、こと/″\く閉口いたします。その上このまゝに差し置いて、自然公儀のお耳にも入ることになれば、宇佐美家への御とがめは免れません。如何でござらう、平次殿」
正木吾平は、膝の手を滑らして、平次に頼み込むのでした。
「それは御心配なことでございませう。が、御存じの通りあつしは町方の御用を承はる者で、御武家方――わけても御大家の内輪のことに立入るわけに參りません」
「いや、それもこと/″\く承知で、八丁堀與力筆頭笹野新三郎樣の添状を持參いたしてござるよ。手前主人宇佐美直記樣は、笹野樣とはごく御眤懇でな」
正木吾平は懷中から一通の手紙を取り出して、平次の膝元へ押しやるのです。
「親分、動きが取れませんね――引受けませうよ。宇佐美樣の御孃樣は、本郷一番と言はれた大したきりやうだ。その頬を本矢で射るやうな野郎は、フン捉まへて釜茹かなんかにしなきや、腹の虫が納まりませんよ」
八五郎は障子を細目に開けて、縁側から餘計な口を出すのです。
「默つてゐろ、馬鹿野郎」
「――」
八五郎は龜の子のやうに頭を引つ込めました。が、かうして平次は思ひも寄らぬ事件――武家の内輪の、暴虐と純情と、無智と情痴の世界に、不本意の足を踏み込むことになつたのでした。