一
「親分、この世の中といふものは――」
愛稱ガラツ八の八五郎が、お先煙草を五匁ほど燻じて、鐵瓶を一パイ空つぽにして、さてこんな事を言ひ出すのです。
「止せやい、道話の枕ぢやあるめえし、『この世の中』が聞いて呆れるぜ」
錢形平次は相手にもしませんでした。江戸開府以來と言はれた捕物の名人ですが、無精で貧乏で、人を縛らないのを建前にしてゐる世にも不思議な御用聞の平次は、戀女房のお靜と一緒に、神田明神下の路地の奧に住んで、三文植木の世話を燒きながら、市井の哲人のやうに暮してゐるのです。
「へツ、あつしも呆れましたよ。粉でこせえて紅を差したやうな滅法界可愛らしい娘が三人、何時殺されるかわからないと聞いちや、ヂツとしてゐられないぢやありませんかね、親分」
江戸一番のフエミニストの八五郎は、若くて可愛らしい娘のこととなると、眼の色が變ります。
「待ちなよ、八。三人の娘の命に拘はることと言ふと、そいつは向島の越後屋の寮の話ぢやないのか」
「どうして親分はそんな事を?」
「手紙が來たのさ。こいつはお前でも讀めるぜ」
平次は煙草入の中から、小さく疊んだ手紙を取出して、隙間だらけな縁側の上に煙管をおもりにして擴げるのでした。
「あつしが辨慶讀みにしてゐちや、請け合ひ晝時分になりますよ。ちよいと讀んで下さいな親分」
見榮のない八五郎は、恐ろしく下手な文字を持て餘して親分の平次の方へ手紙を押しやるのです。
「何んでもありやしないよ、『向島の水神の、越後屋の寮にゐる三人娘が、不思議なことから命を狙はれてゐる、間違ひの起らぬうちに、一度見廻つてやつて、惡人の惡企みを封じて下さるやうに――』といふことが書いてあるんだが、お前の方にも心當りがあるのか」
「大ありですよ、親分」
「この手紙は昨夜宵のうちに格子の中へ投り込まれたらしいが、見付けたのは今朝掃除のときだ、お前の方は――」
「あつしの方は手紙ぢやありません。人間の小汚なくヒネたのが、叔母をたよりにやつて來ましてね」
「言ふことが嫌だな。お前は人が好いくせに、どうも口が惡い」
「どなた樣もさう仰しやいます。これで人が惡かつた日にや、全く取柄がないつて――」
「心得てゐるから厄介だよ」
「まだ五十そこ/\でせう、ひどく尾羽打枯らした中婆さんが、昨夜遲くなつてからやつて來て、水神の越後屋の寮にゐる三人娘は仔細あつて命を狙はれてゐる。今夜にも危ないから、行つて見張つて下さるやうに――と、土間に坐り込むやうにしてのお願ひだ。あつしだけ行く分にはわけもないが、その女のヒネたのが、錢形の親分を連れ出さなきや不足らしい事を言ふから、少し癪がさはつて放つて置きましたがね」
錢形平次を前に置いて、こんな事を言ふ八五郎です。
「妙なものを持つてゐるんだな。お前といふ人間は」
「へえ?」
「癪だの意地だのてえものは、犢鼻褌の三つにでもくるんで人樣の前へは出さねえ方が無事だぜ」
「相濟みません。尤も今朝になつてから思ひ直してやつて來ると、親分は恐ろしくむづかしい顏をしてゐるでせう」
「むづかしい顏は大笑ひだ、盆栽に毛虫が湧いたんだよ。少し機嫌が惡かつただけのことさ、――あの毛の生えたのを見ると、鳥肌が立つんでね」
「あつしは又そんな事と知らないから、昨夜あの中婆さんをつかまへて『あつしで不足なら止すがよい。錢形の親分は無精で氣むづかしいから、それくらゐの事で御輿をあげるものか』つて言つたのが、親分の耳へ入つたんぢやあるまいかと、ビクビクしましたよ」
「それでお先煙草を五匁フイにして、鐵瓶一パイの茶を呑んだといふわけか、呆れた野郎だ」
平次と八五郎は、相變らずこんな調子で話が進みました。
「とも角、向島へ行つて見ませうよ」
「よからう」
平次もその氣になりました。手紙だけなら惡戯とも被害妄想とも見られないことはありませんが、八五郎を訪ねた老女といふのが妙に氣になります。