Chapter 1 of 7

「いやもう、驚いたの驚かねえの」

八五郎がやつて來たのは、彼岸過ぎのある日の夕方、相變らず明神下の路地一パイに張り上げて、走りのニユースを響かせるのでした。

「何を騷ぐんだ、ドブ板の蔭から、でつかい蚯蚓でも這ひ出したといふのか」

平次は晝寢の枕にしてゐた、三世相大雜書を押し退けると、無精煙草の煙管を取上げます。

「そんな間拔けな大變ぢやありませんよ、いきなり頭の上から、綺麗な新造が降つて來たらどうします、親分は?」

「へエ、不思議な天氣だね、三世相にも今年は新造や年増が降るとは書いてなかつたが」

「兩國の輕業小屋ですよ、綱渡り太夫、此間から江戸中の人氣を沸ぎらせてゐたつばめ太夫といふ、若くて綺麗なのが蜀紅錦の肩衣で、いきなり天井から落ちて來て、あつしに噛り付いたとしたらどんなものです」

「怪我は無かつたのか」

「腰のあたりを打つて目を廻しましたがね、幸ひ命に別條は無いさうですが、その時は全く驚きました」

「まるで粂の仙人の逆を行つたやうなものだ。下で口をあいて眺めてゐる、八五郎の男つ振りに氣を取られて、思はず綱を踏み外したといふか」

「冗談ぢやない、綱が切れてゐたんですよ、三間以上も高い綱の上から落ちて、死ななかつたのは不思議な位のもので――」

「綱が切れてゐた? 綱渡りの綱は滅多に切れるものぢやねえが」

平次は此事件から、早くも何やら腑に落ちないものを見出したのです。

「樂屋の天井の、綱の結び目に、刄物が入つてゐたんだから、切れても不思議はありませんよ」

「誰がそんなことをしたんだ」

「そいつがわかれば、其場で縛つて來ましたがね、皆んな神妙な顏をしてゐるから、疑ひの持つて行きやうがありません。ことに座頭の天童太郎の女房お崎などは、大金の掛つた大事の太夫に、そんな惡戯をするのは放つちや置けない、此場で縛つてくれたら、三枚におろして、酢味噌で食はうと言つた勢ひでしたよ」

「そんな時は、一番荒つぽい事を言ふ奴が一番怪しいものだ、天童太郎の女房は何處に居たんだ」

「あつしもそれは氣がつきましたが、詮索する迄もなく、表看板の下で、囃子の三味線を彈いてゐたんだから、疑ひやうはありません」

「厄介なことがあり相だな、人一人の命に拘はることだから、放つても置けまい、行つて見ようか、八」

「そいつは有難え、親分が行つて下さればあの娘が喜びますよ」

平次が氣輕に腰をあげてくれたので、八五郎は犬つころのやうに先に立つて驅け出しました。

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