Chapter 1 of 13

「親分。あつしはもう、腹が立つて、腹が立つて」

八五郎は格子をガタピシさせると、挨拶は拔きの、顎を先に立てて、斯う飛び込んで來るのでした。

「頼むから後を締めてくれ。野良犬がお前と一緒に入つて來るぢやないか」

錢形平次は、不精らしく頭をあげました。相變らず三文植木を眺めながら、椽側に寢そべつて、粉煙草をせゝつて居る、閑居の姿です。

「それが親分、いつもと違つて、今日は本當に腹を立てましたぜ」

「果し眼になると、お前でも少しは怖いよ。次第によつては、達引いてやらないものでもないが、一體いくらぐらゐ欲しいんだ」

「何んです、それは?」

「財布の紐が懷からはみ出して、その上あわてて居るところを見ると、その邊で飮んだ末、割前勘定が拂へなくて、友達に何んか嫌なことを言はれたんだらう」

平次はニヤリニヤリと、シヤーロツク・ホームズ見たいなことを言ふのでした。

「圖星と言ひてえが、そいつは大違ひだ」

「さては何處かの新造つ子を口説いて、彈かれたのかな」

「そんな間拔けな話ぢやありませんよ。腹が立つてたまらねえ話といふのは斯うですよ、親分」

「まア坐れ。突つ立つての話ぢや、立つた腹の寢かしやうはねえ」

平次はさう言ひながらも、八五郎の眞劍さに釣り込まれて、火のない火鉢を挾んで、猫板の上に頬杖を突くのでした。

外は四月始めの良い陽氣、申刻(四時)下がりの陽は明神樣の森に傾いて、街の子供達が路地一パイに馳け廻つてをります。

「ね、親分、神樂坂小町と言はれた、十九になつたばかりの娘が一人、人身御供にあげられて、狒々見てえな野郎の弄み物にされかけて居るんだ。それを助けに行つた父親はまたお濠へ落ちて、腦天を碎いて土左衞門になつて居たとしたらどんなもんです」

「腦天を碎いた土左衞門は變だね」

「ね、親分が聽いたつて變でせう。現に死骸を見て來たんだから、あつしが腹を立てるのも無理はないぢやありませんか」

八五郎の話は、妙に含蓄がありさうです。

「で、俺にどうしろといふのだ」

「錢形の親分でも、相手が三千石の殿樣ぢや、手の付けやうがないぢやありませんか。あつしはもう――」

「わかつた、腹が立つて/\――といふせりふだらう」

「何んとかして下さいよ、親分。十九になる神樂坂小町、ビードロで拵へて、紅を差したやうな娘が、今晩にも狒々野郎に手籠めにされるかと思ふと、あつしはもう、この世の中がいやになりましたよ」

「やれ/\、八五郎に出家された日にや、江戸中の娘達が泣くだらう。仰せの通り武家の揉め事はこちとらの手に了へねえが、人が一人殺されたとわかれば、放つても置けめえ。最初から筋を通して見な」

「斯うですよ、親分。涙ながらに申し上げると」

八五郎は語り出すのです。

神樂坂裏、長屋の入口に、さゝやかな小間物屋を營んでゐる市之助、もとより屋號なんかありやしません。女房のお宮が店番をして、亭主の市之助は、高い荷物を背負つて、旗本御家人のお勝手や、金持、大町人の召使達に、安い小間物を賣つて、細々と暮して居る男でした。

市之助お宮夫婦の間には、たつた一人の娘がありました。八五郎の口から、神樂坂小町と紹介されたお糸で、これはこの土地の口の惡いのが、『裏店小町』と言つたほどの御粗末な身扮で、店番もし、使ひ走りもし、骨身を惜しまずに働いて居る癖に、その美しさは全く非凡でした。

柄は小さいが、蒼白くさへ見える、白粉つ氣のない柔かい肌、眼が大きくて、眉が長くて、少し品が良過ぎるくらゐの人形首です。

それが何んかの拍子ににつこりすると、小さい唇の、上向きの曲線が、とろりとするような媚を含んで、大きい片ゑくぼ、それは實に、思ひも寄らぬ艶やかな顏になるのでした。

Chapter 1 of 13