Chapter 1 of 11

「親分、變なことを聽きましたがね」

ガラツ八の八五郎は、薫風に鼻をふくらませて、明神下の平次の家の、庭先から顎を出しました。いとも長閑な晝下りの一齣。

「お前の耳は不思議な耳だよ、よくさう變つたことを聽き出せるものだ。俺の方は尋常なことばかりさ、蒔いた種は生えるし、借りた金は返さなきやならねえし」

平次は氣のない返事をしながら、泥鉢に出揃つた、朝顏の芽をいつくしんでゐるのでした。

「あつしの方はまた、變つたことばかり、手紙をやつてもあの娘は返事をくれないし、借金は溜つても、拂ふ氣になれないし」

「あんな野郎だ、――ところで、その變つたことと言ふのは何んだえ」

平次は手の泥を拂つて、椽側に腰をおろし腹ん這ひになつて、煙草盆を引寄せるのです。

「こいつは變つてますよ。影法師に憑かれた話なんですが――」

「影法師に憑かれた?」

成程それは話が變り過ぎてゐます。

「四ツ谷の與吉が、淺草へ行く道序に、半日無駄話をして歸りましたが、その時の笑ひ話ですよ」

江戸中にまかれた何百人の岡つ引は、八五郎に好意を持たないものはなく、わけても腕に自信のない者は自分の繩張り内に起つた事件の匂ひを、八五郎の耳に入れて置けば、親分の錢形平次が乘出してくれないものでもなく、平次が動き出せば、自分も飛んだ手柄のお裾わけくらゐにあり付けないものでもありません。

そんなことで、江戸中の面白い噂は、自然八五郎の耳に入り、八五郎の口から、斯う平次に取次がれることになるのです。

「影法師に憑かれたといふのは、何處の誰だえ」

平次もいくらか好奇心を動かした樣子です。

「市ヶ谷柳町の菊屋の伜彦太郎といふのが影法師が怖くて、月夜の晩などは、外へも出られないといふから可哀さうな話ぢやありませんか。あつしなんかは戀敵が多いから、怖いのは闇夜の晩だけで、へツ」

八五郎は自分の洒落に堪能して、長んがい顎を突き出すのです。

「自分の影法師が怖いのか」

「自分のなら、素性がわかつてゐるから、怖くも可笑しくも何んともないが、不思議なことに、彦太郎といふ若い男の眼には、何處の誰とも知れぬ、怪しい影法師が附き纒つてゐるといふのですよ」

「はてね」

「外を歩いてゐると、影法師だけが、フラフラと自分の前を歩いてゐたり、前の方が無事だと思つて、振り返つて見ると後ろから、ヒヨコヒヨコと影法師だけがついて來るといふんで」

「自分の影法師ぢやないのか」

「そんな事はありませんよ。彦太郎は十九になつたばかり、隨分出來のやはな息子には違げえねえが、自分の影法師と正體のない影法師を間違へる氣遣ひはありません。それに影法師の方は間違ひもなく女で」

「フーム」

「その影法師も、月夜の往來へ出るうちは良かつたが、この節は横着になつて、時々彦太郎の部屋の障子に映つたり、雪隱の窓から覗いたり、おかげで彦太郎は近頃少し氣が變になつたといふ話で」

「その影法師は誰かに似てでもゐるのか」

「因果ですね、彦太郎には義理の父親、菊屋市十郎の二人妾のうちの、若くて綺麗なお袖そつくりといふから嫌ぢやありませんか」

「そのお袖といふのは」

「彦太郎と同じ年の十九、菊屋の親父が金に飽かして買ひ取つた妾で、飛んだ人身御供だといふ話で」

「いやな話だな。その話は、もうそれつきり忘れてしまえ」

「親分には、こんな話は面白くありませんかね。あつしなんか、影法師でも生き靈でも構はねえから、若くて綺麗な娘につき纒はれて見たいと思つてゐるんで」

「生憎、そんな野郎には、氣の弱い生き靈なんか取りつかないよ」

「有難い仕合せで。その代り羅生門河岸へ行くと、青大將臭いのが五、六人首つ玉に噛りつく」

八五郎はそんな打ち壞しな事を言つて、あまり持てさうもない、長い顎を撫で廻すのでした。

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