Chapter 1 of 5

「親分、たまらねえ事があるんで、これから日本橋まで出かけますよ、いっしょに行って見ちゃ何うです」

巳の刻近い、真昼の日を浴びて、八五郎はお座敷を覗いて顎を撫でるのです。四月のある日、坐っていると、ツイ居睡りに誘われるような、美しい日和です。桜は散ったが苗売の声は響かず、この上もなく江戸はのんびりしておりました。

「頼むから日蔭にならないでおくれ、貧乏人の日なたぼっこだ、――ところでお前は日本橋まで何をしに行くんだ、気のきいた晒し物でも出たのかえ」

銭形平次は気のない顔を振り向けました。時鳥にも鰹にもないが、逝く春を惜しむ、江戸の風物は何んとなくうっとりします。

「冗談じゃありません、生臭坊主や心中の片割れを見に行きゃしません、今日の午の刻に、日本橋の上に、神武以来の珍しい見世物があるんですぜ」

「神武以来は大きいな、尤もお前に言わせると、隣の猫の子が、三毛を産んでも、江戸開府以来だ」

「そんな下らない話じゃありませんよ、通り一丁目の沢屋三郎兵衛の娘のお琴が、今日と言う日の真昼に、逆立ちをして日本橋を渡ると言うので、高札場の前から、蔵屋敷の前へ湧き立つような騒ぎですよ、中には弁当持参で橋詰に頑張って、暗い内から動かないのもあります」

「呆れた奴らだ、その野次馬の中へ、思いっ切り水でもぶっかけてやりたい位のものだ」

平次は江戸っ子の呑気さと、その物見高さに驚きました。多寡が女の子が逆立ちする位のことに、大騒ぎをする方が何うかしております。

「ところがその娘は、お琴と言って、たった十七ですぜ、逆立ちをして日本橋を渡って、何ういうことになります。久米の仙人が河童だったら、どんな事になります」

八五郎の長広舌は、平次の思惑とは反対に、いとも面白く弁じ立てるのです。

そのころ女の子の逆立ちは、思いのほか流行りました。緋縮緬を股に挟んで、お座敷の座興に逆立ちさせられる芸子もあれば、舟遊山の旦那衆が、いやがる芸子を捉えて、舟ばたに逆立ちさせるなどという悪どい遊戯は、国貞の描いた浮世絵にもたくさん出ております。金持の旦那衆はそれを眺めて悦に入ってることでしょう。ただそう聴いただけで、平次がいっこうに驚かなかったのも、遊蕩気分にひたった、グロテスクな旦那衆の遊び、と思ったのかも知れません。

「ところが、親分、こいつはわけのある事で、沢屋に取ってはのるかそるかの大仕事、千番に一番の兼合いを、娘っこのお琴が背負って出たんで、あだやおろそかの逆立ちじゃありません」

「恐ろしい事になりやがったな」

平次はまだ茶化し気分でした。女の子の逆立ちと天下の御政道とは関係がありそうもありません。

「こいつは深いわけがあります。まだ時刻は早いから、一度は聴いて下さいよ親分」

八五郎は尤もらしく語り進みます。曾ては日本橋に出初があった時、梯子乗の名人が、日本橋の上で命がけの大離れ業を演じ、江戸っ子の胆っ玉を冷やさせたという例もあり、十七娘が逆立ちして日本橋を渡るのも、何んかの因縁がなければなりません。

「――――」

平次は黙って、煙草に火をつけました。八五郎の物語を聴くには、こんな閑なポーズが反って良かったのです。

「日本橋通り一丁目の沢屋――親分も御存じでしょう」

「木原店の沢屋だ、知らないことがあるものか、たいそうな物持だというじゃないか」

「その物持の沢屋が三代にわたる不運つづきですっかりいけなくなったとしたら、どんなものでしょう?」

「江戸の金持も三代つづくとたいてい変なことになるよ、贅沢に馴れたり、遊楽を覚えたり、旦那とか通人とか言われる頃は、気の毒なことに没落が控えている。紀文も奈良茂も、跡は残っちゃいない」

「その上沢屋の旦那は、代々の病人だ、悪い奉公人があった日には、一とたまりもあったものじゃない、借金は雪達磨の如く殖えて、この春は越せそうもないところまで、追いつめられてしまいましたよ」

「それがどうしたのだ」

八五郎の話は、娘の逆立ちとは、だいぶ縁が遠くなりそうです。

「そのうちで、同じ通り二丁目の金貸、裏店ながら、式部小路に乗出している、浅田屋治平から借りた二千両が、先月いっぱいに返さないと大変なことになる、沢屋が店を畳んで、浅田屋に引渡し、夜逃げでもしなきゃ、恰好の付かないことになる」

「――――」

「浅田屋にして見れば、諸方に散っている沢屋の証文を、出来るだけ手に入れ、嫌応言わさぬ催促で、表店の沢屋を退転させたさでいっぱいだ。悪い商人は、こんな駆引で、表店の大店を乗っ取る手もあるんですね、そこへ行くと此方とらは」

「馬鹿にしちゃいけない、叔母さんの部屋借りを追い立てたって、何んの足しになるものか」

「その通りで」

「それから沢屋の方はどうなった」

「沢屋の主人は生れながらの半病人で、近頃は身動きも出来ないで、総領の大三郎は、たった十五でその上念入りの弱虫だ。畳の上に両手を突いて拝んでは見たが、金貸が商売の浅田屋は勘弁してくれそうもない、心掛けた一丁目の表店を、このはずみに、手に入れたくってうじうじしている。この世話場を見せたかったな、親分」

「沢屋には女房もあるだろう、それは何うしたんだ」

「気の毒なことに、沢屋の女房は三年前に死んで、残るのは、主人の三郎兵衛と、倅の大三郎と、娘のお琴だけ、あとは奉公人ばかりですが、主人の難儀は眼に見えていても、誰も口を利く者もない」

八五郎の話は、日向の縁側に腰を卸して、蜿蜒とつづきます。日本橋に逆立ちする娘の話がこんなにまでもつづくのです。明神様から遅れた桜の花が落ちて、うらうらとして、どこかで鴬も啼きます。

Chapter 1 of 5