三 芹沢鴨
わずか一割に足らぬ残留組の中心は常陸芹沢村の郷士芹沢鴨を首班とする水戸浪人の一派で、京都の政情に望みをかけ、中央――京都における合体尊攘方策の即時実現をまだ夢みていた。武田耕雲斎のごとき水戸尊攘派領袖が慶喜側近として京都に頑張り、見込違いをまだまだ悟りきれなかった折柄のことである。他半は近藤勇一派。
三月に組織されたときの新撰組では芹沢が局長筆頭で、三名の局長中二名まで水戸派、第三筆頭が近藤になっている。守護職肥後守の管轄に属し、組としての最初の建白は
「叡慮に仍つて大樹公御上洛の上、攘夷策略御英断これあり候事と、一統大悦奉り候ところ、明(三月)二十三日大樹公御東下の由承り驚き入り奉り候。大樹公攘夷の為暫く洛陽に御滞留遊ばさるべき旨御沙汰に付、天下人心安穏に相成り候ところ、はからず明二十三日御下向の趣承り、天下の安危此時に懸り、止むを得ず毛塵の身を顧みず愚案申し上ぐべく候。若し御下向遊ばされ候ては天下囂然の節、虚に乗じ万一謀計を為す者も計り難く候。何卒今暫く御滞留遊ばされ候儀然るべくと恐れながら奉り存じ候。云々」。
時局収拾のため合体尊攘即行に望をかけた水戸派および肥後守のたてまえをそのまま表現したものだが、いつまで経っても事志と違うにつれて、芹沢派はいよいよただの乱暴者に還ってしまった。
こんなふうで文久三年三月から九月までの新撰組の最初の半カ年間は、ほとんど仕事らしい仕事をしていない。この間に文久政変中最大のクーデターだった八月十八日の変が起って、新撰組は当日御所警備を命ぜられ、翌日から市中見廻りの任務についたが、いわゆる「新撰組」調子の大活躍は、芹沢一派の人をくった乱暴沙汰を除いては、なに一つまだ見られない。
九月十六日、新撰組は肥後守の内命によって芹沢一派の清掃を決行し、近藤勇の峻厳な統制の下に改組された。この日から松平肥後守は、新撰組において、はじめて腹の底から信頼できる自己の手足を見出したのである。