Chapter 1 of 3

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カフカがプルースト、ジョイス、フォークナーなどと並んで二十世紀のもっとも重要な作家の一人として考えられるようになったのは、彼の死後二十年余を経た第二次大戦後のことであるといってよい。今、たとえば一九三〇年ころに出版されて十万部を超える部数を出した詳細なドイツ現代文学史を開いてみると、そのなかでカフカについて書かれているのはわずか十数行にすぎない。また、三六年にアメリカで刊行されたあるドイツ文学史を見ると、そこにはカフカの名前をまったく見出すことができない。元来、カフカ自身は生前わずか数冊の小品・短編を発表しただけであり、遺言はいっさいの遺稿の破棄を要求したのであった。その遺志に反して、三長編遺作をはじめとしていっさいの断片を整理刊行したのは、彼の親友であった作家マクス・ブロートの功績であり、その熱意と傾倒とがなかったならば、とうてい今日のカフカ像は結ばれずに終ったにちがいない。ブロートは彼の『フランツ・カフカ伝』(増補版)において、カフカの死後、遺作を出版してくれる大出版社を見出すことがむずかしかった、と述懐している。そこで、それらの書巻に対する著名作家の関心を喚起しようとしたところ、ゲルハルト・ハウプトマンは「残念ながらカフカという名前はまだ聞いたことがありません」と答えたという。

今日、カフカに関する文献はおびただしい数に達している。そして、それだけのカフカ解釈がある。それを要領よくまとめることはとうてい不可能である。しかし、カフカ解釈の一つの大きな柱は、いうまでもなくブロートのものである。ブロートは熱狂的なユダヤ主義者であり、その立場からのカフカ解釈は一面的であるとして多くの人びとから激しい攻撃を浴びた。彼は『カフカの信仰と思想』という著者の序文において、カフカの正しい解釈のためには、アフォリズムにおけるカフカと、物語作品(長・短編)におけるカフカと、この二つの流れを区別しなければならない、という。彼によれば、アフォリズムのカフカは人間のなかの「破壊されないもの」を認識し、世界の形而上的な核心に対して積極的で信仰的な関係をもっている。この面ではカフカは、人類に対していうべき積極的な言葉、一つの信仰、各人の個人的生活を変えるようにというきびしい要求、を述べているのであり、トルストイの思想と密接な関係をもっている。一方、小説および物語のカフカは、恐れと孤独感とのうちでさまよっている人間、つまり、アフォリズムや日記のなかで語っているあの「破壊されないもの」を失った人間、信仰において確信をもてなくなり、錯乱している人間、を示している。ここでは、アフォリズムに見られるような積極的な言葉を聞かないで正しい道を離れ去るときに現われる、恐るべき処罰を描いている。この両面を理解しなければ、カフカを理解することができない、というのである。ここで、二つの問題が出てくる。第一は、カフカの作品は文学作品として完結したものと見ることは許されないのか、ということである。第二は、従来カフカのアフォリズムは十分にわれわれ読者の前に提供されていなかった。数多くの遺稿や日記や書簡が公刊され、全集がほぼ完結したのは、比較的新しいことである。第一の点に関しては、いわば文学上の永遠の問題であり、ブロートの解釈に対する多くの批判はまさにこの点に集中されているといってよい。第二の点についていえば、カフカ研究の大きないとぐちがやっと開けたばかりであり、この領域はまださまざまな問題を解決されぬままに残しているのである。

ブロートは右のような主張にもとづいて、フランスの実存主義者流のニヒリズム的解釈に反対し、さらにカトリック的解釈を不十分であるとする。つまり、ニヒリズム的解釈はカフカから超越者に根ざしているという核心を取り除いてしまうものであり、カトリックないし過激なキリスト教的解釈はカフカを超越者だけに還元し、カフカがきわめて崇高な意味において尊重していた積極的な現世の力を没却するものである。ここでブロートが批判しているニヒリズム的解釈、またキリスト教的解釈というものは、カフカ解釈の重要な二つの柱である。前者は文学的に生産的であり、後者は思想的に意味が大きい。いわゆる「不条理の文学」の先駆者としてのカフカは、きわめて大きな影響力をもっており、すでに多くの模倣者さえ現われるにいたっている。カフカの文学は宗教的な寓意性を見出すのに好適なものがあり、ニヒリズム的解釈なるものもいわば裏返しの形でその問題とかかわりをもってくる。ブロートの多年にわたる主張は、自己の解釈以外のいっさいを許そうとしない挑発的なものであって、その点がすでに反感をそそるものがある。しかし、彼の主張は公正に見て問題性に富み、これからももっとも重要な手がかりとして扱われていくことであろう。

ところで、最近のカフカ研究の動向を見ると、まず実証的研究の分野での仕事が目立つ。これは一つにはカフカの作品を文学としてながめようとする志向と表裏するものである。あとでもふれるが、ブロート編集のカフカ作品のテクストについての批判がいろいろな形で提供されている。この問題については以前から疑問が投じられていたのであるが、チュービンゲン大学のバイスナー教授がその口火を切った。彼は講演『物語作家カフカ』(一九五二)という小冊子において、「一つ一つの言葉とセンテンスとから、全体の意味づけを帯びた構成にまで昇っていく文献学的解釈は、カフカにおいては今のところ不可能です。なぜなら、信頼できるように編集されたテキストというものがないからです」と、述べた。この冊子の注において、バイスナーはその理由も説明している。ブロートは『審判』の第二版のあとがきにおいて、テキストを読みやすくするため、文章記号や言葉の綴りや文章構造を、最小限にだが、一般のドイツ語の慣用に従って改めるようにした、と述べた。バイスナーはこうしたブロートの態度を批判し、例として短編『判決』の原文批判を行い、カフカが生前に出版した版と、ブロートによる全集版とのあいだの六〇個所ほどの相違点を列挙している。またシュトゥットガルト工業大学のマルティーニ教授は、断片遺稿の短編『村の学校教師』の原文批判において、約二八〇個所ほどの原稿と刊本とのちがいを指摘している。これらはわれわれ外国人にとってはニュアンスのちがいがちょっとわかりにくい句読点などが大部分であり、こまかすぎるといえばそうもいえるものである。今日のもっともすぐれた深いカフカ研究家の一人であるケルン大学のエメリヒ教授などは、「原稿の写真版を調べたが、文章記号の疑問や読みにくい原稿の読みちがえによって起ったきわめて少数のあやまりのほかには、意識的に変更を加えた原文侵害というものはどこにも見あたらなかった」といい、「ブロートは多くの点で批判的でないやりかたをしたかもしれないが、もともと刊本ということに明るい文献学者ではないのだから、やむをえない。ちゃんとしたテキストを刊行しようとする彼の誠実な努力は何びとも否定することができない」と、いっている。いろいろ問題はあるが、まずこのエメリヒのいうところあたりが穏当といえるだろう。このカフカ集の『変身』(三五一ページ、のはじめの個所)においても、たとえば「電気の街燈の光が蒼白く……」という妙な訳のところがある。ここは、カフカ生前の刊本では、「市内電車のライトが」となっている。こうしたちがいがどこからきているのかは、原稿も調べなくては結論が下しにくい。いずれにせよ、われわれ外国人にはなかなか近づきがたい領域である。

フランスのサルトル、カミュ、ブランショ、バタイユなどのカフカ観はたしかに興味深い。しかし、これらはすでにいずれも邦訳もあるので、ここではふれない。カフカ文学の解釈でとくに根本的な問題をついていると思われるのは、前に述べたエメリヒである。彼はある比較的短いエッセイのなかで、次のように述べている。カフカの短編や長編を読むとき、われわれは異様な世界のなかへ入りこんだような感じに打たれる。この世界で起こるできごとは、空間・時間によって規定された外的な現象界ではありえないことであるし、われわれにはまるで夢のなかで出会うことのように思われる。しかも、それはけっしてはっきりと夢だといって受け取ることはできない。外的な現象界と直接つながっていて、実際の夢のように意識下の連想によって進行するものではない。こうして、時間と空間、原因と結果、というような経験的な秩序は、ここには見られない。むろん、過去の多くの文学においても、文学は現実を超えた理念的な虚構の世界として理解されてきたのであり、その世界ではあらゆる経験的な自然の現象はより高い精神的な意味づけの下に置かれているか、あるいはそれ自体が象徴となって、一つの精神的秩序の意味を担っている。そこで、カフカの描くできごとの背後にその精神的意味を求め、いったいそれは何を意味しているのであろうか、と考えてみる。けれども、その場合にもやはりうまく解釈はできない。カフカの文学のなかでは、できごとの意味は絶えず反省され、説明されて、はっきりと分析されている。しかし、そうやって獲得された意味が、たちまち作品のなかで疑われ、斥けられている。そこで、精神的な意味づけを求めようとすることが不可能となってしまう。しかも、それは二重に不可能である。第一に、カフカの文学においては、城は天上とか恩寵の場所を表わし、その下の村は人間界を表わしている、というような、いわば比喩(アレゴリー)としての暗示を読み取ることはできない。ここでは、従来の比喩的な文学におけるように、感覚的に知覚できる現象と精神的な意味とのあいだにはっきりした関係があるわけではないからである。第二に、カフカの文学は、古典主義またはロマン主義のいう意味での象徴性を含んでいるものでもない。つまり、ゲーテがいったように特殊のなかに普遍を表わしているものでもなければ、またノヴァーリスなどのロマン派文学のように、自然が精神と化し、精神が自然と化すというふうに無限に高まっていく過程を表わしているものでもない。描かれているさまざまなできごとの意味のつながりが否定され、ついには現象そのものが疑われているのである。こうして、カフカにおいては、現象界も芸術作品の意味構造も破壊されているように見えるため、読者は異様な感じと困惑した感じとを抱かないではいられない。過去の芸術においても、グロテスク、諷刺、ヴィジョン、夢の文学などのように、表われる事象やイメージを破壊するとか、それを変形する(デフォルメ)ということはあった。そして、こうしたゆがみに出会うと、読者ははじめは違和感や嫌悪感をひき起こすことはある。しかし、そうしたグロテスクや諷刺やヴィジョンの意味をひとたびつかみさえすれば、そうした違和感や嫌悪感は快感や驚きや讃嘆へと変っていく。しかし、カフカにおいては、そうした意味はついにとらえられずに終わるため、迷路のような無意味さのなかにまきこまれたという麻痺感に襲われてしまう。

それでは、カフカの文学をどういうものとして理解すべきであろうか。カフカの形象の世界は、いわば人間存在そのものを表わす詩的な象形文字なのである。一定の世界観的、神学的、倫理的、社会的、政治的なさまざまな理念を感覚的な事象とか行為とかのうちに具体化し、それらの理念に詩的な形態を与えようとするものではない。また、それとは反対に、われわれがすでによく知っている空間・時間的な現実、あるいは精神的な現実を、できるだけいきいきとほんものらしく描写し、そうした現実の意味を啓示したり、解釈したりしようというのではない。むしろ、希望と絶望、真実と虚偽、罪と無罪、自由と束縛、存在と非在、信仰と懐疑、生と死、知と無知、現世の生活と来世の生活、といったようなさまざまな対立の不断の緊張のうちに置かれている人間存在そのものが、イメージと精神的な表現とのうちに形態化されているのであり、もしそうしたものが矛盾にみちた緊張、人間的なさまざまな対立の同時的な並存を忠実かつ真実に反映されるべきものであるならば、どうしても逆説的に形態化されなければならないのである。こうして、カフカの文学は、一定の理念とか一定の問題とかを一定の現象のうちに形態化したり、表現したり、解決したりしたものではなく、表現形式そのものが意味を担うものとなっているのであり、表徴となっている。このことから、カフカの小説が無限につづき、完結も完成もほんとうの終末も知らないという事実も理解できるだろう。というのは、ここで問題となっているのは、個々の人間の一定の問題を一定のやりかたで形態化し、結論へもっていくことではなく、人間存在の模型をつくり出すということだからである。そうした人間存在の模型というものは、その本質からいって完結されえないものとならないわけにはいかない。カフカ文学のこうした断片的・非完結的な性格から、同時にまた、どんな形象もどんな筋の展開もどんな思想も、それ自体のために描かれるのではなく、ただ機能的な意味をもつものにすぎない、という結果が出てくる。それは、象徴として描くという理論に従った過去の文学の表現における場合よりももっと絶対的な意味でそうなのである。こうした絶対的な機能性というものをもつカフカの文学は、一定の歴史的、イデオロギー的、あるいは心理的な内容をもつものとして読むべきではなく、人間存在の模型として、形式そのものの面から理解されなければならない。以上がエメリヒの説くところである。こうした態度で実際に個々の作品に向かうときどういうことになるか、というのはむずかしい問題だが、カフカの諸作品をなんらかの意味づけによって理解しようとするときには、そうした試みは挫折しないではいない。エメリヒの見解は深い示唆を含むものである。そして、さまざまな思想的、宗教的なカフカ解釈が一応出そろった今日、カフカ文学を文学の問題として考えようとするすこぶる適切な再反省として受け取ることができるように思われる。しばしばいわれるカフカのいわゆる「寓話的方法」ということは、むしろこのエメリヒの説のように解すべきものであろう。

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