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バルザックオノレ・ド
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Chapter 3 of 6

三 不死身

その二日後、ポワレとミショノー嬢が植物園の人けのない遊歩道のベンチで日差しを浴びて坐っているのが見られた。そして彼等は医学生の目にある疑いを抱かせたのももっともだと思わせる風貌をした紳士を相手に何事かを話していた。

「マドムワゼル」ゴンデュロー氏が言った。「私には貴女がためらう理由が分かりません。王立警視庁の警視総監閣下は……」

「あー! 王立警視庁の警視総監閣下……」とポワレが繰り返した。

「はい、大臣閣下はまさにこれにかかりっきりなんです」ゴンデュローが答えた。

ポワレはかつて役人で、疑いもなく市民道徳の体現者、それでいて思想は持たないといった人間だった。こういう男が、ビュフォン通の自称年金生活者の言うことに、いつまでも耳を傾けていることがあり得るなどと思う人が果たしているだろうか? しかもその年金生活者が実直そうな仮面の下から、イェルサレム通の警官[73]の顔を露わにし、警察という言葉まで口にしたこの時点においてである。しかしながら、実はこれ以上自然なことはなかったのだ。ポワレが愚者達の巨大な家族の中で、いかなるタイプの人間であるかということは、やがて誰の目にも明らかになってくるだろう。それは幾人かの観察者には既にマークされていたが、今日に至るまで公表されていなかったのだ。彼は国家公務員だった。彼は公務員階級の一番下位になる第一等級の身分で採用された。この階級の給与はグリーンランドの気候のようにお寒い一二〇〇フランだった。そしてこれが第三等級になると、給与も温暖地帯のように暖まって、三〇〇〇フランから六〇〇〇フランにまで上がってくる。この辺りではしばしば特別手当も出るので、難しいことだが、この環境に順応出来れば花を咲かせることも可能だ。この下っ端人間の身体障害があるかのような偏狭さを最も端的に露出せしめているところの特徴は、一種の機械的、無意識的、本能的な、総ての大臣や大僧正に対する敬意であろう。それは下っ端役人には、ほとんど読み取ることも出来ない署名と大臣閣下殿の五文字が相俟って、バグダッド王が使う“リル・ボンド・カニ”の呪文のごとく魔術的に引き起こされる。そしてそれはまた這いつくばった民衆の目には、神聖な権力を決定的に象徴することになるのだった。教皇がキリスト教徒にとってそうであるように、大臣閣下は公務員の目には、業務処理においてはまるで絶対的正義であるとさえ映るのだった。閣下が放つ輝きは、公務員達の行為、言葉、彼の名のもとに命じられる総ての事の上に伝わるのだった。彼は彼の刺繍編みを総て包括し、彼が命じる行為を総て合法化する。偉大なる彼の名は彼の意図の純粋性、彼の意欲の健全性を保証し、最も受け入れ難い思想への橋渡しともなるものだった。下っ端の連中が興味を持ってやるようなことでなくとも、彼等の大臣閣下が発した言葉を実現するためとあらば、彼等はいそいそと仕事にかかるものなのだ。役所には大臣閣下の武器として、命令を待つ職員達の忠誠が保管されている。いわば、良心を窒息させ、時と共に人を政治機構の中のボルト・ナットにしてしまい、人間性を排除し終わらせるようなシステムが出来ているのだ。ゴンデュロー氏もまた、氏自身は男らしい人として知られているのだが、ポワレを見て即座にその馬鹿げた官僚気質を見抜いていた。そして彼は機械的に神的効果のある、大臣閣下という魔術的言葉を、自分の正体を明かしつつ、ポワレの目を眩ませるその瞬間を逃さず発したのだった。彼の見るところ、ポワレはミショノー嬢の男として、またミショノー嬢はポワレの女のように映っていた。

「閣下と言われるからには、あー! 大臣閣下となると……話は変わってきますな」ポワレが言った。

「貴方、お聞きになりましたね。貴方はこの判断に信頼を置かれているようにお見受けします」偽の年金生活者はミショノー嬢にも注意を払いつつ更に続けた。「さあ、それではと! 閣下は今や非常に確実な証拠を持っておられる。それによると、ヴォートランと称してメゾン・ヴォーケに住んでいる男は、ツーロン徒刑場から逃亡した徒刑囚かと思われ、“不死身”の名で知られている男です」

「あー! 不死身!」ポワレが言った。「そんな名前が似合うなんて、ずいぶんと幸せなやつですね」

「全くです」警官が答えた。「その渾名は、彼がやった全くもって大胆不敵な犯罪行為の中で、彼が決して死ななかったという幸運のお陰で、彼に付けられたんです。あの男は危険なんです、貴方、ご存知ですかな! 彼はとんでもない事をやらかす性質の男です。彼に下された有罪判決は、彼の住む世界で無限の名誉を彼に与える、まさしくそういうものになっているんです……」

「いったいそれは栄誉ある男なんですか?」ポワレが訊ねた。

「彼なりにはね。彼は他人が犯した罪をかぶる事に同意したことがあります。文書偽造罪で、やったのはとても綺麗な若者で彼は非常にこの男を愛していました。若いイタリア人でとても博打好きだった。軍隊に入った時から仲間になったんですが、この若者には軍隊は全く合わなかったようです」

「しかし、警察庁大臣閣下がヴォートラン氏が不死身であることを確信なさっているのに、いったいどうして彼が私を必要としてるんですか?」ミショノー嬢が訊いた。

「あー! そうだ」ポワレが言った。「もし大臣が本当に、貴方が我々のところへお越し下さって言われたように、何らかの確信が……」

「確かな事は言葉ではないんです。ただ臭うんです。貴方も我々の疑問を理解するようになると思います。ジャック・コラン、渾名は不死身、この男は三つの刑務所の囚人達から全面的な信頼を得ていました。これらの囚人達は、彼を彼等の諜報員、そして彼等の銀行に選んだんです。彼はこの方面の商売に専念する事によって莫大な利益を得たんですが、この商売は当然著名人を要したってわけです」

「あー! あー! 分かりますよね、この語呂合わせ、マドムワゼル?」ポワレが言った。「この方は彼のことをマルクな人(著名人)と呼んだんだ、何故なら彼はマルケ(監視)されてるんだからね」

「偽名のヴォートランは」と警官が続けて言った。「徒刑囚諸氏から資金を受け取り、それを投資することもあれば、彼等に代わって保管も請け負った。そして逃亡する者がいれば、逃亡者が自由に使えるように資金を引き出した。また遺言によって家族に委譲された時は家族に、また妻宛に彼が手形を振り出した場合は妻に自由裁量の権利が与えられたんです」

「それぞれの妻にだって! 貴方は彼等の妻達のことまで話そうって言うんですか?」とポワレが指摘した。

「いや違います、貴方。徒刑囚というのは大体、同棲というだけの結婚なので、我々は内縁の妻と言っています」

「てことは、彼等はずっと内縁関係で行くって事ですか?」

「結果としてね」

「さてと!」ポワレが言った。「そろそろ旦那が痺れを切らすんじゃないかと心配ですな。貴方が大臣閣下にお会いになる以上、世の安寧に反して極悪事件を起こすああした輩の反道徳的行為を正道に導く光ともなる博愛的思想の持ち主と思われるのは、まさに貴方です」

「がしかし、政治は未だに彼等の前に美徳の全的な概念を提示することが出来ないのです」

「それはそうでしょう。そうは言っても、旦那さん、待って下さいよ」

「だけど、この人にとにかく話してもらいましょうよ、私の坊や」ミショノー嬢が言った。

「貴女は分かっておられる、マドムワゼル」ゴンデュローが答えた。「政府はある不正事件に手を入れるべきほどの巨大な利権を見つけ出すことが出来たんです。この捜査は非常に高い地位にまで及ぶと見られています。不死身は相当な金額を受け取り、彼の仲間から手に入れた分のみならず、更に“一万人社会”に属する金まで隠匿しているのです」

「一万人の盗賊!」ポワレがおびえて叫んだ。

「いえ、“一万人社会”はある種の高等悪徳商人の組合のようなもんで、そのメンバーは大規模な商売をするんだが、一万フラン以下の儲けの仕事は相手にしないといった手合いなんです。この組合はいつでも重罪院へ行きそうな、我々とかかわりのあるような輩の中でも目立つ存在であるような連中で構成されている。彼等は法規に詳しく、たとえ逮捕されても死刑を適用されるような危険は決して冒さないように心掛けているんです。コランは彼等の信頼を集めている人物であり、また相談相手でもあるんです。彼等の巨大な資金のお陰で、この男は自分用の警察や強い繋がりを拡大することが出来たので、干渉されることのない秘密のヴェールを拡大したのです。一年前から我々は彼の許へスパイを送り込んでいるんですが、我々は未だに彼の手の内を見ることが出来ないでいます。彼の資金と才能が実に途切れることなく、悪を売りさばくこと、犯罪で稼ぐことに寄与し、永遠に社会とは交戦状態である悪の主題を達成するための武器を常に臨戦態勢においておくことを可能にしました。不死身を逮捕し彼の銀行を奪うこと、それは悪を根元から切り倒すことになるんです。更にこの探索は国家的なもの、また高度に政治的なものになるかもしれないので、これの成功のために協力してくれた人には名誉が与えられる余地があるんです。貴方については、ご主人、新しく官公庁に雇用されるか、警察署長の秘書になられるかしても、その職業によって貴方の退職金を貰うことは少しも妨げられはしません」

「だけど、どうしてなんですか」ミショノー嬢が言った。「不死身はお金を持って逃げないんですか?」

「あー! 何処にもスパイがいっぱいいるんです。彼が何処に行こうと、彼が徒刑囚の金を盗んだとあれば、彼は彼を殺すように命じられた男に追い続けられるでしょう。それから金庫というのは、良家のお嬢さん一人を運ぶほど簡単には運べないんです。そのうえ、コランというやつは誰もが思いつくようなことをするのが苦手で、そんなのは自分にとって恥だと思ってるんです」

「旦那さん、おっしゃるとおりです。それでは彼の面目は丸つぶれです」

「その言い方だと、まるで貴方が彼の心を良く読めてた様に聞こえるけど、とてもそうは思えないわ」ミショノー嬢が言った。

「まあまあ! マドムワゼル、私が答えましょう……しかし」彼は彼女の耳にささやいた。「貴女の彼が私の話の邪魔をしないように頼みますよ。でないと我々はいつまでたっても終われませんから。あの年寄りが、人に話を聞いてもらうためには大きな財産でも持っていなけりゃならないんです。不死身、あの男はここへ来る時、実直な男の仮面を被ってきたのです。彼はパリの良き中産階級の人間に変身したんです。彼は正体不明のままで、ある下宿屋に住み始めた。彼は気がきく、本当に! 誰も彼以上に人を気遣うことなど出来なかった。そしてヴォートラン氏はなかなかの尊敬を集め、かなり大きな事業を手がけているものと思われた」

「そりゃそうだろう」ポワレはそう思った。

「警察はもし我々が本物のヴォートランを逮捕する時、パリの商業界や公共の意見を敵にまわしたいとは思っていません。警視総監は足元がぐらついていたし、敵も何人かいた。もしも失敗があったら、彼の後釜を狙っている連中は自由に喚く声やぎゃあぎゃあ叫ぶ声を利用して彼に飛びかかろうとするでしょう。ここはコニャール[74]、あの偽のサンテレーヌ伯爵の事件にならってことを進めることが大切です。我々があの件については適切であったとは言い切れないですがね。それはまた確認すればよろしい!」

「はい、だけど貴方には綺麗な女性スパイが必要ですわ」ミショノー嬢が快活な声で言った。

「不死身は女を近づけないようにしてるんです」警官が答えた。「秘密を教えましょう。彼は女性を愛さないのです」

「だけど、それだと私には余計に分からないのですけど、何故私がこうした件の証言にちょうど良いのでしょうか、私が二千フラン貰って、ある憶測の裏づけのため働くことに同意しなければならないんでしょうか」

「こんな簡単なことはありませんよ」見知らぬ男が言った。「私は貴女に一回の服用量のリキュールが入った小瓶を手渡します。これを飲むと脳出血のような症状が出るんですが全く危険はなくて、それでいて卒中のように見えてしまうんです。この幻覚剤はワインにでもコーヒーにでも同じように溶け込めるんです。貴女は直ぐに件の男をベッドに寝かせ、彼が死にかかっているのかどうか調べるために彼の服を脱がせるのです。そして誰も見ていない時、彼の肩を一発叩いてください、ぴしゃ! すると貴女はそこに文字が浮き出てくるのを見るでしょう」

「しかし、それはちっとも簡単じゃないね、それは」とポワレが言った。

「そこでです! 貴女は承知してくださいますか?」とゴンデュローがハイミスに言った。

「だけれど、貴方」ミショノー嬢が言った。「もしも文字なんて一つも出てこなかった場合ですけど、私は二千フランいただけるんでしょうか?」

「駄目です」

「それじゃ、何か手当てはあるんですか?」

「五〇〇フランは出ます」

「これだけのことをやらしておいて、たったそれだけですか。悪は良心の中でいつまでも悪として居続けることでしょう。そして私は私の良心の痛みに苦しみ続けることになるんですよ、旦那様」

「私ははっきり言いますよ」ポワレが言った。「このマドムワゼルはとても良心的な人なんです。言うまでもなく、とても愛想のいい人なんだが、それのみならずですよ大変たしなみもある方なんです」

「それでは!」とミショノー嬢が言った。「もしそれが不死身だったら、私に三千フラン下さい。そしてもし、それが唯の市民だったら一銭も要りません」

「いいでしょう」ゴンデュローが答えた。「しかし条件は明日やるということです」

「まだご返事出来ません、旦那様、私は告解師に相談しなければなりませんから」

「ずるいですね!」警官は立ち上がりながら言った。「それでは明日。それで、もし貴女が早く私に話したいと思ったら、サンタンヌ通へおいでなさい。そしてサントシャペルの庭のはずれですよ。入り口は丸天井の下に一個あるだけです。ゴンデュローの名前で尋ねてきて下さい」

ビアンションはキュヴィエ庭園を通って帰ってきて、まったく聞きなれない“不死身”という名前が耳に飛び込んできたので見ると、それが高名な警視庁課長の口から出たものだと分かった。

「どうして決心出来ないんですか。これは三〇〇フランの終身年金になるんですよ」ポワレがミショノー嬢に言った。

「何故ですって?」彼女が答えた。「だって、じっくり考えなきゃならないところですもの。仮にヴォートランさんがその不死身だとしても、それでも彼とは交渉した方がずっと良いのではないかしら。だけど彼にお金を要求するとしても、それは彼に前もって報せてしまうことになるので、そしたら彼はただでずらかってしまうでしょうね。最悪の結果ね」

「彼が前もって報らされるとして」ポワレが答えた。「あの先生は我々に向かって、彼が監視されていたと言わなかったかね? だが貴女、貴女は一銭も儲からないんだよ」

「そもそも」ミショノー嬢は考えた。「私はあの正体不明の男なんて嫌い、あの男! 彼は私に面倒な事しか言わないんだから」

「しかし」とポワレは続けて言った。「貴女はきっと上手くやれるはずだ。あの人はきちんとした身なりをしていたし、とても信頼出来そうに思えたので、彼の言うようにやれば、それは社会から犯罪をなくしてしまおうという遵法精神にのっとった行為だし、とにもかくにも高潔な行為には違いないのではないかな。相手は生まれついての悪党なんだろう。もしかして、あのヴォートランのやつ、我々を皆殺しにしようなんて思ってるんだろうか? まあ何て悪党だ! 我々はその殺戮を防げなければ、いくらかの責任があるだろうな、おまけに我々自身がその最初の犠牲者だときている」

ミショノー嬢の関心事はポワレの口から一つずつ出てくる言葉から聞くことは出来なかった。まるで締りの悪い噴水の蛇口を通って滲み出てくる水の一滴一滴のようなものだった。ひとたびこの老人が話し始めると、ミショノー嬢が彼を止めない限り、彼は話し続けた。まるで音量を上げた機械のようであった。まず最初の主題に取り掛かった後、彼は自分が入れた余談につられて、主題を全く反対の方向に向けてしまって、結論は出さないままにしておくのだった。メゾン・ヴォーケに着く頃、彼の際限なく続く話は過去のある時期に彼が臨時の召喚状を裁判所から受け取った事件のことに及んでいた。そこから彼の話は裁判所で証人として供述をさせられたという事件に入り込んでいた。それは有名なラグロー氏とモラン夫人[75]の事件で、彼はモラン夫人の嫌疑を晴らすために弁護側の証人として出頭したのだった。

彼等がメゾン・ヴォーケへ入っていった時、下宿の仲間達は皆、ウージェーヌ・ド・ラスチニャックがタイユフェール嬢となにやら親密な会話にふけっているのに気づき、彼等の興味がもっぱら二人の若者に集中していたので、二人の年取った下宿人が食堂を横切っていった時、このカップルに注意を払う者はいなかった。

「あの二人はめでたしめでたしになりそうね」ミショノー嬢がポワレに言った。「あの人達一生懸命色目使いあって、この八日間、魂を奪われたみたいだわ」

「そうだね」彼が答えた。「彼女もまた有罪になった」

「誰?」

「モラン夫人だ」

「私はヴィクトリーヌ嬢のことを貴方に言ったのよ」ミショノー嬢は割合無頓着な様子でポワレの部屋へ入ってきながら言った。「だのに貴方はモラン夫人のことを答えてるんですもの。一体何ですか、その女の人って?」

「一体どうしてヴィクトリーヌ嬢まで罪があるなんて言うんだい?」ポワレも尋ねた。

「彼女はウージェーヌ・ド・ラスチニャック氏を愛するという罪を犯してしまったわ。そして、それがどんなことになるかも知らずに大胆に前進している。可哀想に何も知らないで!」

ウージェーヌは午前中ずっとニュシンゲン夫人のお陰で、絶望的気分に陥っていた。彼は内心では完全にヴォートランに身を委ねていた。しかもこの不思議な男が彼に見せた友情の意図するところも、ある種の提携の前途のことを考えたいとも彼は思わなかった。彼が既に一時間前から足を踏み入れている深淵から引き上げてもらうには、タイユフェール嬢と最高に美味しい約束を交わすという奇跡を待つより他はなかった。ヴィクトリーヌは天使の声を聞いたように思った。天国が彼女の前に開けて、メゾン・ヴォーケは夢のように彩られて、装飾もまるで豪華な劇場を思わせるものだった。彼女は愛している。彼女は愛されている。彼女は少なくともそう思っていた! そして、彼女がラスチニャックに会って、この数時間、この下宿のアルゴス[76]のような連中の目を逃れて、彼の話を聞いた時に思ったようなことを、いかなる女性でも同じように思わずにはいられないのではないだろうか? 彼は自身の良心に問い続け、自分が悪を行ってきたことを自覚し、なおも悪を行うことを望みながら、一人の女性の幸運にすがって自身の小さな罪を償おうと考えていたのだ。彼女の目に彼はその絶望感により内面的美しさまでにじませ、彼が心の中に抱く地獄の炎のによって一段と光り輝いて見えるのだった。彼にとって幸運なことに奇跡は起こった。ヴォートランが楽しげに入ってきて、彼の悪魔的な才能の術策によって結びつけた二人の若者達の心を読み取った。しかし彼は太い声でからかうように歌い始めて、二人の楽しい気分を突然乱したのだった。

私のファンシェットはチャーミング

彼女が素直でいる限り[77]

ヴィクトリーヌは彼女がそれまでの人生で味わった不幸と同じくらいの幸福を抱いたまま、その場から立ち去った。哀れな少女! 手を握られること、彼女の頬がラスチニャックの髪に軽く触れられ、一つの言葉が彼女の直ぐ耳許で言われたものだから、彼女は学生の唇の熱を感じた。彼の震える腕から伝わってくる彼の胴体の圧力、彼女の首筋にされたキス、それらは一緒になって彼の情熱を演出したので、でぶのシルヴィが隣室にいるということが、この輝かしい食堂に彼女が入ってくる恐れを掻き立てていたが、そのことが逆に過去の名高い愛の物語の中で語られた献身の美しい証しよりも、彼の情熱をもっと燃えるような、もっと活き活きとした、もっと魅力的なものに感じさせるのだった。先人達が描いた見事な表現で飾られた女の同意を示すメニューは、毎月十五日には告解をしていた彼女のような敬虔な若い娘に対しては実に罪深い代物だ! この時の彼女は魂の財宝のありったけを与えてしまったが、後の富裕で幸福になった時の彼女なら、このように感情に身を任せて総てを打ち明けるようなことはしなかったに違いない。

「もう成功間違いなしだ」ヴォートランがウージェーヌに言った。「我等の伊達男二人は闘うんだ。総て順調だ。見解の相違は埋めようがなくてね。あの愛すべき鳩君が何を思ったのか私の友人の鷹に決闘を申し込んだんだ。明日、クリニャンクールの角面堡で。八時半にタイユフェール嬢は、彼女の父親の愛と資産を相続することになる。その間、彼女はここにいて、静かにバターつきのパンをコーヒーに浸けて食べてりゃいいんだ。何か変なところあるかね? このタイユフェールの坊やは剣が強くて、また、ポーカーのフォーカードを手に持っているかのようにいつも自信満々のやつなんだ。しかし、彼だって、私の編み出した剣の一撃で切り殺すことが出来る。どうするかって、剣先を急に持ち上げて相手の額を突き刺すんだ。私は君にその突きを見せてやろう、そりゃあ恐ろしいほど良く決まるんだ」

ラスチニャックはぼんやりした様子で聞いていて、何も答えなかった。この時、ゴリオ爺さん、ビアンション、その他の何人かの下宿人達がやってきた。

「ほら私が君に望んでいた通り」彼に向かってヴォートランが言った。「君は自分のやるべきことは分かってるだろう。いいな、可愛い鷲君! 君は人々を支配するんだ。君は強く、率直で、頑健だ。私は君を買ってるんだ」

彼はラスチニャックの手をつかもうとした。ラスチニャックは自分の手を勢いよく引っ込めた。そして椅子に青ざめて座りこんでしまった。彼は目の前に血の池を見る思いがした。

「あー! 我々はまだ相変わらず小いちゃな道徳のしみが付いたおしめをつけているようだな」ヴォートランが低い声で言った。「ドリバンの父っあん[78]は三〇〇万フランを持ってるんだぜ。私は彼の財産を知ってるんだ。持参金を見れば、君もまるで結婚衣装のように真っ白になるだろうぜ、自分の目が信じられないくらい真新しい人間になってるんだ」

ラスチニャックはもはや躊躇しなかった。彼は今晩中にタイユフェール氏のところへ行って、彼の息子になることを報せようと決意した。この時、ヴォートランは去ったが、ゴリオ爺さんが彼の耳にささやいた。「貴方は悲しそうですね、そうでしょう! 私が貴方を陽気にしてあげましょう、私が。いらっしゃい!」そして老製麺業者はランプで彼のネズミ部屋を明るくした。ウージェーヌは好奇心でいっぱいになって、彼について入った。

「貴方の部屋へ行きましょう」爺さんが言った。彼はシルヴィに学生の部屋の鍵を借りて持っていた。「貴方は今朝、彼女が貴方を愛してないと思ったでしょう、どうです!」彼が言った。「彼女は貴方を力づくで追い出した、そして貴方はそれに立腹して、すっかり絶望的になってしまった。馬鹿な娘だ! 彼女は私を待っていたんだ。分かりますか? 私達はアパルトマンの飾り付けの手配を完了させなければならんのです。貴方は三日後にはここを出て、そちらへ移り住むんだから。私を裏切らんで下さい。彼女は貴方を驚かせたがっている。だが私はこれ以上貴方に秘密を隠しておけないんです。貴方はアルトワ通に住む。サンラザール通の直ぐ近くです。そこでの貴方は、まあ王子様ですな。私達は貴方に、まるで花嫁のためのように家具を揃えましたよ。この一ヶ月、私達はずいぶんなことをやりました。これも貴方に何も不満が残らないようにと思ったのでね。私の代訴人は手続きを始めています。娘は年に三万六千フランを手にするでしょう。彼女の持参金に対する利息です。そして私は彼女の八〇万フランを良質の債権に投資するように強く要請する積りです」

ウージェーヌは黙って歩き回っていた。腕を組んで同じところを行ったり来たりして、彼は自分のみすぼらしい寝室の中ですっかり混乱していた。ゴリオ爺さんは学生が彼に背中を向けている瞬間を捉えて、暖炉の上に赤いモロッコ革に包まれた箱を置いた。箱には金色に彫りこまれたラスチニャック家の紋章があった。

「ねえ」哀れな爺さんが言った。「私はこれに夢中で首までどっぷり浸かってますよ。しかし、こうなんですよ、私は結構エゴイズムで動いていて、私は貴方が住む町を代える事に興味があるんです。貴方は私を拒絶したりされんでしょう、ね、そうでしょ! 例えば私が貴方に何かをお願いしたとしても?」

「貴方は何をお望みなんですか?」

「貴方のアパルトマンの上、六階に寝室が一つあって、それは付属しているんだが、私はそこに入りたいんですがね? 私は年寄りだ。私は娘達を訪ねるにも遠過ぎる。私は貴方に迷惑をかけたくない。ただそこに居たいだけだ。貴方は毎晩彼女のことを私に話してくれるだろう。そんなことが貴方には不愉快になるだろうか、言って下さい? 例えば貴方が帰ってきたとする。私はベッドに入っているので、私は貴方の様子に耳をそばだてている。私は思うんだ。彼はたった今、私の可愛いデルフィーヌに会ってきたんだ。彼は彼女を舞踏会へ連れて行った。彼女は彼のお陰で幸せだ。もし私が病気になったら、それすら私の心に慰めを与えてくれるだろう。それは貴方の帰ってくる音を聞いたり、貴方がまた静かになったり、出て行ったり、貴方には私の娘との沢山の関わりがある! 私がシャンゼリゼに行くにも、そこはほんの直ぐ近くだ。そこで彼女は一日中過ごしている。私は彼女達と毎日会うだろう。その一方で、私は何回か遅刻もする。そして彼女は恐らく貴方のところへ来るでしょう! 私は彼女の声を聞く、私は翌朝には部屋着姿の彼女に会う、彼女はまるで子猫のようにチョコチョコ動き回り、可愛らしく歩く、彼女はこの一ヶ月来、昔の彼女に戻ったみたいです。若い娘らしく、陽気で粋な感じです。彼女の心は今、回復期にあります。彼女が幸福になれたのは貴方のお陰です。あー! 私は貴方には感謝しきれないくらいです。彼女は私にいつも繰り返し言うんです。『パパ、私はとても幸せだわ!』娘達は儀式ばって言う時には『お父様』と言って私の気持ちを冷やすんです。しかし娘達が私をパパと呼んでくれる時には、また小っちゃい頃の彼女達に会っているような気持ちになるんです。彼女達は私に思い出を総て返してくれるんです。私はよほど父親らしい気持ちになれるんです。私は彼女達のことを人間以上のものと思っています!」爺さんは目のあたりをぬぐった。彼は泣いていた。「私があの言葉を聞かなくなってから長いです。おー! そうだ、私が娘のどちらかと並んで歩かなくなってからも、ざっと十年は経ってしまった。彼女の服に体をこすり付けたり、彼女の後に従ったり、彼女と一緒に熱くなったりすることって良いものですよ。結局、私は今朝、デルフィーヌをあらゆるところに連れてゆきましたよ。私は彼女と一緒に何軒かの店を回ったもんです。そして私は彼女を家まで送っていったんです。あー! 私を貴方の傍においてください。いつか貴方は誰か自分に尽くしてくれる人間を必要とするでしょう。私こそ、そこで役に立つのです。あー! あのアルザス人の太っちょがくたばってくれたら、やつの血が逆流して胃が痙攣しちまえばなあ、私の可哀想な娘、彼女も幸せになれるんだがなあ! 貴方はそうすれば私の婿殿になるんだ、貴方は天下晴れて立派な彼女の夫になれるんだ。くそっ! 彼女は何だってこう不幸せなんだ、だってそうだろ、彼女はこの世の喜びなんて何一つ知らないんだから、私は彼女の罪は総て許してしまうんです。正しき神は誰よりも深く愛する父の側に立って当然なんです。彼女は貴方をすごく愛している!」彼は一呼吸おいた後、頭で頷きながら言った。「行く途中ずっと彼女と私は貴方のことを話していたんです。『そうじゃない? お父様、彼っていいでしょ! 彼は良い心の持ち主だわ! 彼は私のこと話してた?』何と彼女は私にずっとそんな調子で話してたんです。アルトワ通からパノラマ道路に至るまで、ずいぶんな量だった! 要するに彼女は自分の心の中にあったものを全部、私の心の中に注いだんです。この幸せな午前中ずっと、私はもう老人という気はしなかったし、心はまるで羽のように軽く感じられました。私は貴方が私に千フランの札を預けたことを言った。おー! 可愛い娘、彼女はそれに感動して涙を流しました。あの暖炉の上に置いてある物は何ですか?」じっとしているラスチニャックを見ていて、どうにも我慢しきれなくなったゴリオ爺さんがとうとう言った。ウージェーヌは全く不意を突かれて呆然として隣人を見た。ヴォートランによって翌日の予定を告げられたあの決闘は、ウージェーヌが描いていた高貴な希望の実現とは激烈な対照をなしていたので、今の彼はまるで悪夢にうなされているような気持さえするのだった。彼は暖炉の方を振り返り、そこに小さな四角い箱を見つけて、それを開いた。そしてその中にブレゲ製の時計が紙に包まれているのを見つけた。その紙の上にはこんな言葉が書かれていた。〈私は貴方にいつも私のことを思っていて欲しいのです、何故なら……デルフィーヌ〉 この最後の言葉は疑いもなく彼等の間でそれ以前に起こった場面について言及したものだが、ウージェーヌはほろりとしてしまった。彼の家の紋章は箱の金箔の中にちりばめられていた。この珠玉の作品は本当に長い間の憧れだっただけに、鎖、鍵、細工、デッサンの総てが彼の望みにかなっていた。ゴリオ爺さんはこれ以上ない晴れやかな表情だった。彼は疑いもなく娘からウージェーヌへの贈り物が起こした驚きのどんな小さな効果も、彼女に語って聞かせることを彼女に約束していたに違いない。何故なら彼自身はこうした若者の感動については部外者であって、一緒に感動しているとは見えなかったからだ。彼は既にラスチニャックを愛していた。そしてそれは娘のためであり、また彼自身のためでもあった。

「貴方は今晩彼女に会いに行かれるんでしょう。彼女は貴方を待ってます。太っちょのアルザス男は、お気に入りの踊り子のところで食事します。あーあ! 私の代訴人が奴さんの痛いところをずばりと突いた時は、やつはもう相当面食らってたなあ。やつは娘を偶像のように愛してるとか言ってたんじゃないかな? もしやつが娘に触れたりしたら、私はやつを殺す。私のデルフィーヌに何か……(ここで爺さんは溜息をついた)酷いことを考えると、私は犯罪を犯してしまいそうなんです。しかし、それは殺人ではないんです。やつは豚の体に子牛の頭を載せただけのものですからね。貴方は私がこんなことを言っても面白がって受けとめてくれるのではありませんか?」

「はい、我がゴリオ父さん、貴方がもうご存知のように私は貴方を愛してます……」

「分かってます。貴方は私のことを恥ずかしいなどとは思われていない、貴方はね! 貴方をしっかりと抱かせてください」そして彼は学生を両手で抱き締めた。「貴方は娘をうんと幸せにしてやって下さい。約束ですよ! 貴方、今夜行くんでしょう、そうでしょう?」

「おー、そうです! 私はどうしても延期出来ない用事があって、出かけなければなりません」

「何か私でお役に立つことありませんか?」

「もちろん、あります! 私がニュシンゲン夫人の家へ行ってる間に、親父のタイユフェール氏のところへ行って、夜会で私が彼と一時間話せるように時間をくれるように言っといてもらえませんか? 彼とは野暮用で話さねばならないんです」

「えっ、それは本当ですか、貴方」ゴリオ爺さんは顔色を変えて言った。「貴方は彼の娘に言い寄ってたんではないんですか、下にいる例の下らない連中の話によるんですが? くそっ! 貴方はそれこそが、まさにゴリオの銃眼ともいうべきものだと知らないんですね。そしてもし貴方が私達を騙したとすると、これは一発拳固をお見舞いしなければなりません。おー! そんなことはあり得ない」

「私は貴方に誓います、私はたった一人の女性しか愛さないことを、私はそのことをたった今知ったんです」

「あー、何と言う幸せだ!」ゴリオ爺さんが叫んだ。

「しかし、タイユフェールの息子が明日決闘するそうです。そして私は彼が殺されるだろうと聞いています」

「それが何か貴方に関係あるんですか?」

「勿論、彼に息子を決闘に行かせないようにすべきだと伝えなければなりません……」ウージェーヌは叫んだ。

この瞬間、彼はヴォートランの声によって遮られた。彼の足音が戸口に近づくのが聞こえ、そこで彼が歌った。

おー、リシャール、おー、私の王!

世界は貴方を見捨てた……[79]

ブルン! ブルン! ブルン! ブルン! ブルン!

私は久しく世界をさまよった

そして誰もが私を知っている……

トラ、ラ、ラ、ラ、ラ……

「皆さん」クリストフが叫んだ。「食事が出来ました。どうぞ食卓へ」

「おや」ヴォートランが言った。「私のボルドー・ワイン一瓶を誰か持っていったな」

「あれは綺麗だと思いますか、あの腕時計ですよ?」ゴリオ爺さんが言った。「彼女は趣味がいいでしょ、そうでしょう!」

ヴォートラン、ゴリオ爺さん、それにラスチニャックは一緒に降りていった。そして彼等は遅れていったものだから、おのずから食卓では互いに隣り合わせに坐ることになった。ウージェーヌは夕食の間中、ヴォートランの様子に最大の注意を払って見た。ヴォーケ夫人の目にあれほど人好きのするこの男が、それまでには決して見せたことがないようなセンスを披露してくれた。彼は終始才気をきらきらさせて、会食者の皆を元気にしてくれた。その自信と冷静さはウージェーヌを驚嘆させた。

「今日はまた上手い商売で儲かったのかしら?」ヴォーケ夫人が尋ねた。「貴方はずいぶんご機嫌がいいのね」

「私は良い仕事をした後はいつでも陽気だよ」

「お仕事って?」ウージェーヌが訊いた。

「そうだな! うむ。結構な口銭で商品の一部を引き渡すことが出来たんでね。ミショノーさん」と彼はハイミスが彼のことをじっと探るように見ているのをちらと見て言った。「私の姿を見てると何か貴女の気に入らない特徴でもあるんですか、それで貴女はアメリカ人のような目で私を見るんですか? それは言ってくれなきゃ! 私は貴女に気分よくしてもらうためにはそいつを改めるようにしましょう」彼は老役人を横目で見ながら言った。「ポワレ、我々はそんなことで仲違いはしませんよね、どうですか?」

「貴方って実に恰好いいなあ! 貴方はほら吹きヘラクレスのポーズをとっても似合うでしょうね」若い画家がヴォートランに言った。

「確かにそれはいい! もしミショノー嬢がペールラシェーズのヴィーナスのポーズをとってくれるのならの話だが」ヴォートランが答えた。

「で、ポワレは?」とビアンションが言った。

「おー! ポワレはポワレのポーズだ。それは庭のテントウムシだろうな!」ヴォートランが叫んだ。「彼の先祖はポワール(梨)だよ……」

「古くて腐った!」ビアンションが付け加えた。「そういうことなら、貴方は梨とチーズのデザートでくつろげるってわけですね」

「それくらいにして! 馬鹿話は」ヴォーケ夫人が言った。「それで貴方、私達の方へボルドー・ワインを回してくれないかしら、ちょっと瓶の頭が見えたのでね! それはお腹の足しになるし、私達も楽しい気分でいられるからね」

「皆さん」ヴォートランが言った。「会長である奥様が秩序を取り戻すように我々に言って下さった。クチュール夫人とヴィクトリーヌ嬢も我々の滑稽な議論に気を悪くされることもなさそうだ。しかし、ゴリオ爺さんの素朴さを見習おうじゃないか。私は貴方にボルドー・ワインの小瓶を一本差し上げよう。シャトー・ラフィット[80]のワインだ。政治的な話は慎むが、フランス銀行総裁もラフィットだな。おーいチャンコロよ、来てくれ!」彼はまだろうそくを灯けてなかったクリストフの方を見ながら言った。「ここだ、クリストフ! お前は何だって自分の名前が聞こえないんだ? チャンコロめ、飲み物を持ってくるんだ!」

「お持ちしました、旦那様」クリストフが彼に瓶を差し出して言った。

ウージェーヌとゴリオ爺さんのグラスにワインを注ぎ足した後、二人の隣人が飲んでいる間に、彼はゆっくりと自分のグラスにも少しだけ注いで、それを味わうように飲んだ。が、突然彼が顔をしかめた。

「何だ! 何だ! コルクの臭いがする。これをお前飲んでみろ、クリストフ、それからな、も一度行って、もっと持って来るんだ。右側だったかな? お前知ってるだろう。我々は十六人だ、八本下ろすんだ」

「あなたが気前良くワインをおごってくれるんだから」画家が言った。「私は栗百個分はお支払いしましょう」

「おー! おー!」

「ぶー!」

「ぷるるー!」

めいめいが発する叫び声が、飾り燭台から花火が打ち上げられるように飛んでいった。

「よーし、ヴォーケのママ、シャンパン二本はママのだったね」ヴォートランが彼女に向かって叫んだ。

「はあ、その通りだわ! あたしのものなら、どうせならこの家のことを言えないの? シャンパン二本! でも、それ一二フランするのよ! あたしはそれだけ稼げないわ、駄目ね! でも、もしウージェーヌさんが、その分払ってくれるんなら、カシスなら、お出し出来ますけどね」

「ほらこれが彼女が言ったカシスだ。カラマツの脂と同じように下剤作用があるんだ」医学部学生が声を落として言った。

「君ちょっと黙っててくれないか、ビアンション」ラスチニャックが叫んだ。「僕は松脂のことを話されるだけで心臓が……あ、はい、シャンパンの件はいいですよ。それは僕が払います」学生は付け加えて言った。

「シルヴィ」ヴォーケ夫人が言った。「ビスケットとショート・ケーキを出して」

「貴女のショート・ケーキはちとでか過ぎますね」ヴォートランが言った。「あれはカビが生えてる。だが、ビスケットの方は頂きましょう」

ちょうどこの時、ボルドー・ワインは回されていて、会食者達は活気付いて陽気な気分は倍加していた。それは激しい笑いの最中だった。突然何か様々の動物の声のようなものが鳴り響いた。博物館員は思わず恋する猫のにゃーごと泣く声にも似たパリの鳴き声を再生してみたい気を起こした。直ちに八つの声が同時に次のような文句をがなり立てた。「包丁とぉーぎ!」「栗の実ぃの小鳥だよー!」「さあ奥さん、ワッフルはいかが、さあゴーフルだよ!」「陶器の修理ぃー!」「殻から剥きたての牡蠣だよー、牡蠣だよー!」「女房に負けるな、服にも負けるな!」「古着ぃー、古飾りぃー!」「古帽子、売りまーす!」「甘ーい、甘ーい、さくらんぼー!」棕櫚の枝の栄誉は、ビアンションの鼻にかかったアクセントのこの呼び声に与えられた。「傘屋でござーい!」

やがてこれらの声がうんざりさせるような騒音になり、話題が次々に飛躍する会話になり、ヴォートランがオーケストラの指揮を執る本物のオペラとなった。しかし彼は、既に酩酊状態のウージェーヌとゴリオ爺さんの監視も怠らなかった。この二人は背中を椅子にもたせ掛けて、いつにない混乱を重苦しい様子でじっと見つめていた。彼等は少し飲んだだけだった。この二人は今夜中にやらねばならないことに完全に気を取られていた。しかしながら彼等はまるで立ち上がることも出来ないような気がしていた。ヴォートランは彼等の様子をはたで観察しながら、彼等の顔色の変化を追って、彼等の目が揺れ動き、目を閉じてしまいそうに見えた瞬間を捉え、ラスチニャックの耳許に身をかがめて、こう言った。「おい君、君は君のヴォートラン・パパと戦えるほど、そんなにずる賢くはないんだ。その上、彼は君が馬鹿な真似をするのを放っておくわけにはいかないんだ、とても君が好きなんでね。私がことを決めたからには、私の道を阻めるような強者は神以外にはいないんだ。あー! 君はタイユフェール爺さんに前もって知らせてやるつもりだった。ほとんど小学生並みの間違いをしでかすところだった! かまどは熱い、小麦粉も捏ねられている、パンは木べらにもう乗っている。朝には、我々は焼き上がったパンにかぶりつき、その勢いでパン粉は我々の頭より高く舞い上がるっていうんだ。なのに、我々はパンをかまどに入れるのをやめちまうのかい? いやいや、そうはさせない、全部焼けるだろう! もし君に何か小さな後悔があっても、美味いパンを食っていれば忘れちまうさ。我々がちょっと昼寝でもしている間に、大佐フランシュシニ伯爵が彼の剣先を操って、ミッシェル・タイユフェールの財産相続の件の行方を決めてくれるさ。君にも成り行きが分かるだろう。兄からの財産を相続すると、ヴィクトリーヌは一万五千フランの年金の所有者だ。私が既に聞いた話では、更に母からの相続額が三〇万フラン以上[81]に達する……」

ウージェーヌは彼の言葉を聞いていたが、返事することが出来なかった。彼はまるで舌が口蓋に張り付いてしまったように感じた。そしてどうにも耐えられないような眠気に襲われた。彼は光の輝く霧を通してテーブルや会食者の姿をやっと見ることが出来るだけだった。やがて物音が静まり、下宿人は一人また一人と去っていった。そしてもう、ヴォーケ夫人、クチュール夫人、ヴィクトリーヌ嬢、ヴォートラン、それにゴリオ爺さんしかいなくなった時、ラスチニャックは何か夢うつつの間に、ヴォーケ夫人が真新しい瓶に置き換えるために、飲み残しのある瓶をつかんでは、それを空にすることに専念しているのに気がついた。

「あー! みんな頭が変なのかしら、ったく若いんだから!」寡婦が言った。

これがウージェーヌが理解出来た最後の言葉だった。

「こんな茶番劇でも、様になるのはヴォートランさんだけね」シルヴィが言った。「さてと、あら、クリストフったら、轆轤がんなのようないびきをかいてるわ」

「おやすみ、お母ちゃん」ヴォートランが言った。「私は大通りに行って、〈野生の山〉のムッシュ・マーティを大いに堪能してきますよ。〈隠者〉[82]が原作のすごい劇なんですよ。よかったら、例のベリー公とその劇場に同行していた婦人のように、貴女をそこにお連れしますよ」

「ありがとうございます」とクチュール夫人が言った。

「あら、どうして貴女が!」ヴォーケ夫人が叫んだ。「貴女は〈隠者〉から取った劇は見ないと言ってたじゃない。この劇もアタラ・ド・シャトーブリアンの作品で、私達もよく読んだわね。これはとても綺麗な作品なので、菩提樹の木陰で去年の夏なんか、エロディーの身の上のことで、ずいぶんと泣いたものだわ。要するに道徳的な作品で、貴女のところのお嬢さんには影響してしまうんじゃない?」

「私達はお芝居を見に行くことを禁止されてるんです」ヴィクトリーヌが答えた。

「大丈夫、ほら仲間がいる、この人達が」ヴォートランはそう言って、おどけた仕草でゴリオ爺さんやウージェーヌの頭を動かせて見せた。

学生が楽に眠れるように頭を椅子の上にのせてやった時、彼は歌を口ずさみながら、学生の額に熱烈なキスをした。

おやすみ、私の可愛い恋人!

貴方のそばで私は寝ずの番をします![83]

「私は彼が病気じゃないかと心配なんです」ヴィクトリーヌが言った。

「それじゃ、そばにいて面倒みてあげるのがいい」ヴォートランが答えた。「それは」と彼は彼女の耳許でささやいた。「貴女が従順な妻になるんなら当然の行為なんだ。彼は貴女を熱愛している。この若者はね。そして貴女は彼の可愛い花嫁さんになる。私は貴女にそのことを予言しておく。二人は何処の国に住もうと皆に尊敬され、幸福に暮らし、そして子供も沢山もうける。以上が総ての恋愛小説の完結の仕方だ。さてと、母さん」彼はヴォーケ夫人の方を向いて声をかけ、彼女を抱き締めた。「帽子と伯爵夫人のマフラーに見劣らないようなワンピースを着てきなさい。私は貴女達のために辻馬車を見つけてくる。私が行く」そして彼は歌いながら出て行った。

太陽、太陽、偉大な太陽

あなたはカボチャを熟れさせる

「まあ! ねえ、クチュールの奥様、あの人ったら、あたしを幸せにしてやるって、世間に言いふらす積りよ。さてと」ヴォーケ夫人はそう言うと製麺業者の方を見て、「ほらゴリオ爺さんを忘れるところだったわ。あの老いぼれの爺ときたら、あたしを何処かへ連れていってやろうなんて考えはからっきし持ったことがないんだからねえ。だけど上手いもんで、彼は地の底へ落ちてゆくところさ、ざまみろだよ! いい年をした男が正気を失うなんて、まあなんて下品なんだろう! 貴方は言ったわよね、持っていなければ人は何も失うものはないって。シルヴィ、さあ彼を部屋に連れてっておやり」

シルヴィは爺さんを腕の下から支えて歩かせた。そして彼を服を着せたまま、まるで荷物を投げるようにベッドの上に投げ出した。

「可哀想に、この若い方」クチュール夫人は彼の目の上にまでかぶさっていたウージェーヌの髪をかき上げてやりながら言った。「彼ってまるで若い女の子のようだわ。彼にはまだ行き過ぎって言うのが、どんなものだか分かってないのね」

「ああ! あたしにはずいぶん沢山話したいことがあるわ。あたしがこの下宿屋を始めて、もう三十一年になるけど」とヴォーケ夫人は言った。「お世話した若い人が何人も、いわゆる卒業をしていったわ。だけどあたしはウージェーヌさんほど優しくて、しかも秀でたところのある人は見たことがないの。彼は寝てる時もハンサムなの? 彼の頭つかんで、貴女の肩の上にのせてみてよ、クチュールの奥様。あら! 彼ったら、ヴィクトリーヌ嬢の肩の上に頭のっけたわ。子供達にとっての神のような存在があるんだわ。まだ少し、彼は頭を椅子の握りの方にも半分のせてるわね。この二人は似合いのカップルになりそうね」

「ねえ奥さん、少し黙っててくれる」クチュール夫人が叫んだ。「貴女喋りすぎよ……」

「へえ!」ヴォーケ夫人が言った。「聞こえてないわよ。さあシルヴィ、あたしの着替え手伝いに来て。あたしこれから大きなコルセットをつけるのよ」

「あら大変! 奥様の大きなコルセットを夕食後直ぐにですって? 奥様」シルヴィが言った。「あっ駄目、貴女を締め上げるんだったら誰か他の人をお探しになったら? 奥様を殺す役目なんて私は真っ平ですよ。うっかりそんなことをすると、奥様、命を落としかねませんよ」

「何でもいいからさ、とにかくヴォートランさんの体面を保ちたいのよ」

「それじゃ奥様、あの人がお好きで後添えにお考えに?」

「さあ行くよ、シルヴィ、ごちゃごちゃ言わないで」寡婦はそう言うと立ち去った。

「あの歳でねえ」料理女はヴィクトリーヌに女主人の方を指し示しながら言った。

クチュール夫人とその教え子、――その肩に頭をのせたウージェーヌは眠り続けていたのだが――この二人だけが食堂に残っていた。クリストフのいびきが静まり返った館内に響き渡り、子供のように優雅に眠っているウージェーヌの眠りの穏やかさを引き立てて見せた。慈悲深いこの行為は、ヴィクトリーヌに女性的な感情をいっぱいに溢れ出させ、また彼女に罪悪感なしに若い男の心臓を胸をどきどきさせながら、自身の心臓の上に肌身で感じ取らせたものだが、自分にそれを許すことの出来る幸せで、彼女の顔つきは何かしら母性本能の働きによって誇り高くなったように見えた。彼女の心の中に湧き上がった千もの思いを突き破って、ある混沌とした官能の動きが浮かび上がり、若くて純粋な熱気の交換を促した。

「可哀想に、愛しい少女!」クチュール夫人は手を胸に押し当てながら言った。

老婦人はこの率直で受難の少女を賛嘆していた。少女の姿には幸福の光が降り注ぐのが見えるような気がした。ヴィクトリーヌはあの素朴な中世絵画を思い起こさせるところがあった。それらの絵では芸術家達によって余分な装飾はほとんど排除されていたが、彼等は黄色い色調で姿を描くための静かで誇り高い絵筆の魔術は持ち続けていた。しかもそこでは天空もまた黄金色に映し出されているかのように見えた。

「彼は二杯以上は飲めないわ、母さん」ヴィクトリーヌは自分の指をウージェーヌの髪に通しながら言った。

「だけど、彼が放蕩者だったら、あなた、彼だって他の人と同じようにワインには強いはずだわ。彼の酔いは褒めてあげるべきよ」

道路に馬車の音が響いた。

「母さん」若い娘が言った。「あれはヴォートランさんね。さあウージェーヌさんを支えて。私、あの人にこうしているところを見られたくないの。彼の言い方は心を傷つけるし、彼の視線はまるで女から服を脱がすかと思われて、とても気分が悪いのよ」

「いいえ」クチュール夫人が答えた。「あなたは間違ってますよ! ヴォートランさんは実直な人だわ、いくらか、死んだクチュールのタイプかもしれない、ぶっきらぼうだけど人が善くて、気難しいけど、いいことを言ってくれる」

ちょうどこの時、ヴォートランが至極上機嫌で入ってきた。そしてランプの光が柔らかに照らす二人の子供によって構成された絵の様な光景を目にした。

「よーし」彼は腕を組みながら言った。「そうら“ポールとヴィルジニー”[84]を書いたあの善良なベルナダン・ド・サンピエールの美しい頁によって鼓舞されたのか、ともかく、ここにそういった場面が展開している。若さとは実に美しいもんですな、クチュール夫人」彼はウージェーヌをじっと見つめながら言った。「ねえ君、眠るんだ。果報は寝て待てだ。奥さん」彼は寡婦の方に向いて言った。「私がこの若者に惹かれ、私が感動するのは、彼の魂の美しさが彼の姿の美しさとよく調和しているからなんですよ。見て下さい、天使ケルビム[85]が、こちらの天使の肩の上に休んでいるんじゃないですか? 彼は愛されるに相応しい、天使ケルビムです! もしも私が女だったら、私は死んでもいい、いや、そんな馬鹿は嫌だ! 彼のために生きたい。こんな風に彼のことを褒め称えていると、奥さん」彼は声を低くして寡婦の耳許にかがみこみながら言った。「私は神様が彼等をお互いに惹かれあうようにお作りになったんだと、どうしても考えてしまうんですよ。神は上手く隠された方法を知っておられる。神は腎臓や心臓まで検査される」彼は声を高くして叫んだ。「あなた達が一緒になっているのを見ていると、ねえ君達、同じ純粋さと総ての人間的感情によって結ばれているのを見ると、君達が仮にも将来離れ離れになることなどあり得ないと、私は思うんだ。神は正しい。だが」彼は若い娘の方に向かって言った。「私には、どうも貴女の手に繁栄の筋を見たような気がするんだ。私に貴女の手を見させてもらえませんか、ヴィクトリーヌ嬢? 私は手相占いが出来るんだ。私は何度か意外な出来事を言い当てたことがある。さあ、心配は要らない。おー! 何というものを見てしまったんだろう。誠実な男として誓ってもいい、貴女は間もなく、パリで一番の富裕な相続人となる。貴女は貴女が愛する人を幸福で満たすことになるだろう。貴女のお父さんは貴女を自分の傍らへ呼び寄せるだろう。貴女は爵位を持った、若くて美しい、そして貴方に夢中の男と結婚する」

この時、めかしこんだ寡婦が降りてくる重々しい足音がして、ヴォートランの予言を遮った。

「おや、ヴォーケ・ママだ。星のように綺麗で、人参のように紐で締め回しておられる。それじゃあ息苦しくありませんか?」彼はコルセットの上部へ手を回しながら彼女に言った。「胸の脂肪が大分圧迫されてますな、ママさん。その圧迫で涙されるようなら、そこには感情の爆発がありましょう。しかし、私は骨董屋のように注意深く残骸を拾い集めてあげますよ」

「彼はフランス的な慇懃な言葉を心得ているよ、今さっきのがまさにそれ!」寡婦はクチュール夫人の耳許にかがみこんで言った。

「おやすみ、子供達」ヴォートランはウージェーヌとヴィクトリーヌの方を振り向いて言った。「私は君達のために神の加護を祈る」彼は手を彼等の頭の上に置きながら言った。「本当ですよ、お嬢さん、真正直な男の望むことはそれなりに意味があって、幸運をもたらしてくれるに違いないんだ、神様はお聞き届けになっている」

「おやすみなさい、親愛なる皆様」ヴォーケ夫人が下宿人達に言った。「貴方、信じる」彼女は低い声で付け加えた。「ヴォートランさんがこのあたしのことで何か意向をお持ちだってこと?」

「ふうん! へー!」

「あー! ねえお母さん」ヴィクトリーヌが溜息まじりに自分の手を見ながら言った。「私達が二人だけでいた時、あの真正直なヴォートランさんが本当のことを言ったんです!」

「彼が予言でもしたの? ある事が起こればそれは当たる仕掛けなのよ」老婦人が答えた。「あなたのあの人でなしの兄弟が馬から落ちればいいだけなのよ」

「あー! 母さん」

「ええ! 恐らく敵の不幸を願うことは罪なことだわね」老婦人は続けた。「さてさて、私なら、それに対しては贖罪をしますね。本当に私は心から彼の落馬を悼んで、お花を送りたいと思ってるわ。まあひどい兄弟だったけれどね! 彼は彼の母のために何か尽くしてやることなんてなかった。そのくせ彼は策略をめぐらせて、貴女には母の遺産が全然回されないように自分に都合よく遺産を管理しているのよ。私の従姉はとても立派な財産を持っています。貴女にとって不運なことに、彼は決して契約書の中で彼の財産を提供しようなんてことは考えたこともなかったの」

「私に幸運をもたらすためには誰かが命を落とさなければならないんだったら、それはかえって辛いことだわ」ヴィクトリーヌが言った。「そして幸福になるためには私の兄弟が死ななければならないんだったら、私はむしろこのままここにいる方がましです」

「まあ! あの善良なヴォートランさんが言われるんだから、ね、あなた彼をよく知ってるわよね、信仰心があつくて」クチュール夫人が言った。「私は嬉しいことに最近知ったんだけど、彼は他の人達のように神を信じないっていうんじゃないの。ほかの連中ときたら、神様の話をするにも、まるで悪魔のことを話すのと変わらないくらい、これっぽっちの尊敬の念も込めてないんですからね。それで、どんな声が我々を導いたら神様は気に入って下さるのでしょう、それを誰が知ることが出来るでしょうか?」

シルヴィに助けてもらって、二人の女はウージェーヌを彼の部屋に運び上げ、ベッドに寝かせた。料理女が彼を楽にするために服を緩めてやった。部屋を出てゆく前に、保護者夫人がこちらに背中を向けていた時、ヴィクトリーヌは犯罪的盗みが彼女にもたらすに違いない幸運の総てを捧げるような気持ちでウージェーヌの額にキスをした。彼女は戻ってきて自分の部屋を眺めた。この数日の幸せを総て集めて、いわば唯一の考えにたどり着いた。それを彼女が長い間じっと見つめてきた絵にした。そしてパリで一番幸せな少女となって眠りについた。ヴォートランはウージェーヌとゴリオ爺さんに麻酔薬の混じったワインを飲ませたが、その供応をしているうちに件の男を亡き者にしてしまおうと心に決めた。ビアンションは半ばほろ酔い加減だったので、ミショノー嬢に“不死身”について訊くのを忘れてしまった。もし彼がこの名前を言っていたら、彼は間違いなくヴォートラン、あるいは彼の本名で言えば徒刑囚の間で最も知られた名前の一つであるジャック・コランの注意力を喚起したに違いない。更に言えば、ミショノー嬢がコランの商取引の公正さに信頼を寄せながらも、彼に危機を予告し夜中に逃走させることがより良い選択であるかどうかを考えた時、彼が彼女を“ペールラシェーズのヴィーナス”と渾名したことが、ミショノー嬢に徒刑囚を売り渡すことを決意させた。彼女はポワレに付き添われて、例の警視庁の男に会うために宴席を抜けてきた。そこはサンタンヌという小路だった。彼女の頭の中では取引する相手はまだゴンデュローという名の高官だった。実際は警視庁課長の彼は彼女を慇懃に迎えた。それから、総てを明確にするための会話が一通り済んだ後、ミショノー嬢は徒刑囚の刻印を判別するために必要な水薬を要求した。サンタンヌ小路の偉大な男は満足そうな身振りをして、彼の事務所机の引き出しの中で小瓶を探した。今まさに警察が一人の男を捕らえようとしているのだが、彼を捕らえる事は単に徒刑囚を捕らえるよりも遥かに重要な意味を含んでいることをミショノー嬢は見抜いた。一生懸命に脳みそを絞ったお陰で、彼女は警察が徒刑囚の裏切り者によってなされた何らかの情報によって、かなり重要な価値のあるものについに手をかける時が迫っていることに期待を寄せているのではないかとの疑いを持った。彼女が彼女の憶測をこの古狸に説明し終わった時、彼は微笑を浮かべ、ハイミスの疑いの方向を変えようとし始めた。

「貴女は間違っています」彼は答えた。「コランは泥棒仲間でかつて存在した中の最も危険なソルボンヌなのです。ただそれだけのことです。仲間の連中はそれをよくわきまえてます。彼は彼等の旗であり支えであり、ついには彼等のボナパルトなのです。彼等はひたすら彼を愛しています。この不思議な人物は、事件の現場に決して自分のトロンシュを残しておきません」

ミショノー嬢は理解出来なかった。ゴンデュローは彼女に、彼が使った隠語のうちから二語について説明を加えた。ソルボンヌとトロンシュは泥棒独自の効果的な言語表現の中の代表的な二語である。泥棒達、その先達は人間の頭脳を二つの側面から考慮する必要があると感じた。ソルボンヌは活動している人間の頭脳であり指針であり思考でもある。一方、トロンシュは軽蔑語で、頭が切り落とされると、それは如何に無意味なものになってしまうかを説明する意図を含んでいる。

「コランは我々をもてあそんでいます」彼は更に続けて言った。「もしも我々が彼等に遭遇して、彼等がイギリス式に焼きを入れた鋼鉄棒のごとき不撓不屈の連中であるとすれば、彼等を捕らえる際、彼等がちょっとでも反抗を試みるようなら、それは我々にとっては、彼等を殺すための方便になるんです。我々は明日の朝コランを殺すためのある方策を立てています。我々はこれによって、訴訟、警備費用、食費を節約出来る。そしてそのことが社会を浄化するのです。更に言えば、訴訟手続き、証人の召喚、彼等のための手当て、処刑、これ等の事は、我々の社会からあのやくざ者を法的に取り除くための手続きですが、それらをひっくるめると、あなたが手にするであろうところの千エキュを遥かに超える費用がかかるんです。これは時間の節約にもなるんです。“不死身”の太鼓腹に銃剣の見事な突きをくれてやれば、我々は百件くらいの犯罪を防げるし、今にも軽犯罪を犯しそうな小悪党五十人くらいは思いとどまらせることも出来るでしょう。ほらね、警察もよく働いてるでしょう。本物の博愛主義者に言わせると、今話したようなやり方が犯罪を未然に防ぐ唯一の方法なんだそうですよ」

「しかし、それはお国のために、そのように働いてるんでしょう」ポワレが言った。

「さあどうですか」警官が答えた。「貴方は今晩、思慮分別のあることをおっしゃってる。そうです、勿論我々は国のために働いています。それにしては世間は我々に対して結構不公平なんではありませんかな。我々は社会に対して、ずいぶんと知られない大きな仕事をして、お返ししてきたんです。結局、偏見に左右されないのは、非常に優れた人と、ありきたりの思想に染まっていなくて運不運は代わる代わる自分の後からついてくるものと悟っているクリスチャンだけなのでしょうね。パリはパリなのです、お分かりですか? この言葉が私の人生を語ってくれます。さて今日のところは、マドムワゼル、これでお別れしましょう。私は明日、私の部下と一緒に植物園に行っています。クリストフをビュフォン通のゴンデュローの家に差し向けてください。私がいたあの家です。ご主人、私は貴方の御用を伺います。例え貴方がこれまで一度も物を盗まれたことがなくても、貴方が何かを取り戻そうという時は、私に言ってください。私は貴方のお役に立ちます」

「うーん、そうだな!」ポワレはミショノー嬢に言った。「こういう警察の言葉を何か分かりにくくしてしまう馬鹿は多いだろ。でも、この方はとても親切だから、彼が貴女に求めてるのは、まるでボンジュールって言うくらいの簡単なことだよ」

翌日はメゾン・ヴォーケの歴史の中で途方もない重大な一日として記憶されることになった。その日まで、この穏やかな日々の中で一番目立った出来事といえば、ランベルムスニルという偽伯爵夫人の流星のような出現だった。しかし総てのことはこの偉大な日に起こった大事件の前に色褪せてしまい、その大事件は以後、ヴォーケ夫人の会話における永遠のテーマとなった。まず第一にゴリオとウージェーヌ・ド・ラスチニャックは十一時まで寝ていた。ヴォーケ夫人はゲテ座[86]から真夜中に帰ってきて、翌朝は十時半までベッドの中にいた。クリストフはヴォートランに勧められてワインを飲み干したが、お陰でこの館の今朝の用意はすっかり遅れてしまった。ポワレとミショノー嬢は朝食が遅れたことについて別に不平も言わなかった。ヴィクトリーヌとクチュール夫人について言えば、二人ともたっぷりと朝寝坊をしていた。ヴォートランは八時前に出かけて、ちょうど朝食が始まった時に帰ってきた。そんなわけで、十一時十五分頃にシルヴィとクリストフが朝食の用意が出来たことを告げるために皆の戸を叩いた時、誰も文句を言う者はいなかった。シルヴィと下僕が席を空けていた時、ミショノー嬢が真っ先に降りてきて、ヴォートランのものである銀製の柄付きコップにリキュールを注ぎ入れた。実はそのコップにはヴォートランのコーヒーに入れるクリームが入っていて、他の食器と一緒に湯煎鍋で暖めて置いてあったのだ。ハイミスは彼女の企みを成し遂げるために、この下宿館の台所の習慣を計算に入れていた。七人の下宿人はなかなか集まっては来なかった。ウージェーヌが伸びをしながら皆の最後になって降りてきた時、走り使いの男が彼にニュシンゲン夫人からの手紙を渡した。その手紙には次のような文が書かれていた。

〈友よ、私は誤った虚栄心も怒りも、貴方に対して持っていません。私は夜中の二時まで貴方をお待ちしておりました。愛する人をお待ちする! こんな刑罰は誰だってもう沢山だと思うことでしょう。私は貴方が初めて本当に愛したのは私だということを存じております。それなのに一体何が起こったんですか? 不安が私を虜にしました。私は私の胸のうちを洗いざらい晒してしまうのが怖かったの、そうでなければ、貴方に起こった幸運だか不運だかを確かめるために貴方の許へ駆けつけてしまっていたでしょう。でも、あんな時間に出掛けるなんて、徒歩であれ馬車であれ、それは気の確かな女に出来ることでしょうか? 私は女であることを不幸だと感じています。私にはっきりとおっしゃって説明して下さい。何故貴方が来られなかったのかを、貴方が父にあの様にお話された後で。私は自分に嫌気してます。でも私は貴方のことは許します。貴方は病気なんですか? 何故離れたままでいるんですか? 優しい言葉を言って下さい。もう直ぐ会えるんでしょ? 貴方が忙しいのなら、一言だけ下されば十分です。言って下さい。直ぐ行くとか、気分が悪いとか。でも、もし貴方の体調が悪いんだったら、父がその事を言いに来るはずなんだけど! 彼は一体どうなっているのかしら?〉

「そうだ、彼はどうなってるんだ?」ウージェーヌはそう叫んで、手紙は読みさしのまま皺くちゃにして、食堂へ飛んでいった。「何時なんだ?」

「十一時半だよ」ヴォートランがコーヒーに砂糖を入れながら言った。

脱獄囚はウージェーヌに冷たく射すくめるような視線を投げかけた。ある種の卓抜して幻惑的な人間のみが放つことの出来る天賦の才であり、そうした人間は精神病院で凶暴な狂人すらおとなしくさせるといわれている。ウージェーヌの手足が全部震えた。駅馬車の音が道路から聞こえて、タイユフェール家のお仕着せを着た従僕が直ぐにクチュール夫人を認めると、ひどく狼狽した様子で館内に飛び込んできた。

「お嬢様」彼が叫んだ。「貴女の父上が貴女をお呼びです。大変な不幸があったんです。フレデリック様が決闘で倒されたのです。彼は額を剣で刺され、医者は彼を救う事は絶望的だと言っています。彼と最後の別れをするため、何とか時間を割いて下さい。他には彼の知り合いはいないのです」

「若いのに気の毒な!」ヴォートランが叫んだ。「何だって三万フランも年金がある男が、喧嘩なんてやるんだろうなあ? これは間違いなく若気の至りというやつだ」

「貴方!」ウージェーヌが彼に向かって叫んだ。

「おや! 何だね、お偉い坊や?」ヴォートランは彼のコーヒーを静かに飲み終えようとしながら言った。ミショノー嬢が細心の注意を払いながら目で追っている薬の効き目は、やがて誰もがあっと言うような途轍もない出来事を引き起こそうとしていた。「パリでは今朝、決闘があったんじゃないのかね?」

「私が貴女について行きます、ヴィクトリーヌ」クチュール夫人が言った。

そして二人の女はショールも帽子もなしで急に立ち上がった。立ち去る前に、ヴィクトリーヌは目に涙を浮かべてウージェーヌを見たが、その目はこう語っていた。『私は私達の幸せが涙と引き換えになろうとは考えていませんでした!』

「へえー! こうなると貴方って予言者じゃない、ヴォートランさん?」ヴォーケ夫人が言った。

「そうさ私は何にでもなれるよ」ジャック・コランが言った。

「とにかく奇妙なことばかりね!」ヴォーケ夫人はこの事件についてであろうか、瑣末なことをとりとめもなく喋りだした。「死は予告もなくあたし達を襲うのね、そして、若者達がしばしば老人達より先にこの世を去ってしまう。でも、あたし達は幸せです、このあたし達、女というのは、決闘なんて関係ないし……だけど、あたし達はそれとは別に女としての病とでもいうものを抱えています。それは男が罹らない病です。あたし達は子供を生みます。そして母親という苦労が長いんです! ヴィクトリーヌは何て幸運なんでしょう! 彼女の父は彼女を養子にせざるを得なくなったんだわ」

「ほらみろ!」ヴォートランがウージェーヌを見ながら言った。「昨日彼女は一文無しだった。今朝彼女は何百万というお金持ちだ」

「それじゃ言って下さいよ、ウージェーヌさん」ヴォーケ夫人が叫んだ。「貴方は良い結婚相手を見つけられたのね」

この釈明要求に、ゴリオ爺さんは学生を見て、その手にくしゃくしゃになった手紙が握られているのに気がついた。

「貴方はまだ放っていたんですか! これは一体どういうことですか? 貴方も他の連中と変わらないんですか?」爺さんが彼に問い質した。

「奥さん、私はヴィクトリーヌ嬢とは決して結婚しません」ウージェーヌがヴォーケ夫人に向かって、恐れと嫌悪の感情を示しながら言ったので、彼の援護者も驚いてしまった。

ゴリオ爺さんは学生の手をつかむとそれを握り締めた。彼はそれにキスしようとさえした。

「おーおー!」ヴォートランが言った。「イタリアには良いことわざがある。時の経つに連れて!」

「貴方のご返事を待ってますよ」ニュシンゲン夫人の代理人がラスチニャックに言った。

「私は行くとお伝え下さい」

代理人は立ち去った。ウージェーヌは激しい苛立ちの中にいたので、用心深く振舞うことが出来なかった。「どうしたらいいんだ?」彼は独り言の積りが、大きな声で喋っていた。「何の証拠もない!」

ヴォートランは微笑をもらし始めた。この時、例の水薬が胃に吸収され効き始めていた。

しかし、この脱獄囚は非常に頑丈だったので立ち上がって、ラスチニャックを見た。そして虚ろな声で言った。「若者よ、果報は寝て待て」

次の瞬間、彼はその場に倒れ息絶えていた。

「これは一体、神の裁きなのか」ウージェーヌが言った。

「うわっ! 一体彼はどうしたんだ、この気の毒なヴォートランさん?」

「卒中だわ」ミショノー嬢が叫んだ。

「シルヴィ、お行き、あんた、医者を探しに行っといで」寡婦が言った。「あー! ラスチニャックさん、急いでね、ビアンションさんのところへひとっ走りして下さいな。シルヴィはあたしのかかりつけ医のグランレルさんをつかまえられないかもしれないからね」

ラスチニャックはこのぞっとするような洞窟から離れる口実が出来たので、喜んで走って逃れ出た。

「クリストフ、さあ、薬屋に走って、何か卒中に効くものをもらっといで」

クリストフが出て行った。

「さて、ゴリオ爺さん、彼を階上の彼の部屋に運び上げるのを手伝ってくれません?」

ヴォートランは抱えられ何とか階段を通って彼のベッドに寝かされた。

「私がいても貴女の役に立たない。私は娘に会いに行く」ゴリオ氏が言った。

「老いぼれのエゴイスト!」ヴォーケ夫人が叫んだ。「行っちまいな、あたしはあんたが犬ころみたいに死んじまうように祈るよ」

「あの、エーテルがあるかどうか見てもらえませんか」ヴォーケ夫人にミショノー嬢が言った。彼女はポワレに手伝ってもらって、ヴォートランの服を脱がしたところだった。

ヴォーケ夫人は自分の部屋に降りていったので、ミショノー嬢はそのまま階上の修羅場を支配し続けることになった。

「さあ、それじゃ彼のシャツを脱がして、早くうつ伏せにして! ちょっとは上手くやってよ、私に嫌な裸なんか見させないで、ポワレ、貴方ってまだ赤ん坊みたいに何も出来ない人ね」

ヴォートランはうつ伏せにされた。ミショノー嬢は病人の肩に強い平手打ちを加えた。そうすると、赤く染まったところに二つの決定的な文字が白く浮き出てきた。

「やった、貴女って実に素早く三千フランの特別手当をものにしちまったなあ」ポワレはヴォートランの体を起こしながら叫んだ。その間、ミショノー嬢は彼のシャツを着せていた。「わっ! 彼は重い」ポワレはヴォートランをまた寝かしながら言った。

「黙って。金庫って、あったかしら?」ハイミスは快活に言ったが、その目は壁を突き通すように見つめていた。一方で彼女は激しい渇望を抱きつつ室内のどんな家具も調べつくした。「誰かがこの事務机を開けるとしたら、何らかの口実がいるわね?」彼女が言った。

「それは恐らくまずいだろうな」ポワレが答えた。

「いいえ。盗まれた金よ、皆のものなのよ、もう誰かのものじゃないのよ。でも、もう時間がない」彼女が言った。「ヴォーケの声が聞こえるわ」

「ほら、エーテルよ」ヴォーケ夫人が言った。「まあ言うなれば、大事件の日といえば、それは今日ということになるわね。神様! あそこにいる人は病気になんてならない人です。彼は雛鳥のように無垢なんです」

「雛鳥のように?」ポワレが繰り返した。

「彼の胸はいつもどきどき弾んでいるんです」寡婦はそう言うと、彼の胸の上に自分の手を置いた。

「いつも?」ポワレが驚いて言った。

「彼はとても素敵です」

「貴女そう思う?」ポワレが尋ねた。

「勿論さ! 彼はどうやら眠ってるようだね。シルヴィが医者を探しにいってるよ。ちょっと、ミショノーさん、彼、エーテルをくんくん吸ってるよ! ふうん! 痙攣なのね。脈は大丈夫ね。彼はとても力が強いからね。ほら見て、貴女、お腹の上のうぶげよ。彼、百歳まで生きそうね、この人だけはね! にもかかわらず、彼の鬘はいい具合ね。ほら、ぴったりくっついてるわ。彼はヘアピースもしてるのね。これは彼が赤ら顔だからでしょ。よく言われるけど、赤ら顔の人って、すごくいい人かすごく悪い人か、らしいわ! 彼は勿論いい方よ、どお?」

「いいね、首吊りには」ポワレが言った。

「貴方って人は、可愛い女の人の綺麗なうなじのことを考えてるんでしょ」ミショノー嬢が活き活きとした声で叫んだ。「貴方は、じゃあ、行きなさい、ポワレさん。これは私達がやること、私達女がね。貴方が病気になったら、看てあげるからね、それに、貴方のためになることといえば、あなたはよく散歩することだわ」彼女は更に付け加えた。「ヴォーケ夫人と私は、私達はこの親愛なるヴォートランさんをしっかりとお守りするわ」

ポワレは静かに不平も言わずに、まるで主人に蹴りを食らった犬のように立ち去った。ラスチニャックは歩いて新鮮な空気を吸いたくてまだ戸外にいた。彼は窒息しそうになっていた。この犯罪は時間を限定して行われていた。彼は出来ることならヴォートランの目覚めを妨げたい気持ちだった。彼はどうなってるだろう? 彼は何をするんだろう? ラスチニャックは共犯者であることに震えた。ヴォートランの冷静さは彼をいっそう不安にした。

「それにしても、ヴォートランが何も言わないまま死んでしまうとすれば?」ラスチニャックは思った。

彼はリュクサンブールの小道を横切っていった。彼はまるで猟犬の群れに追い詰められているような、そして犬達の吼え声が聞こえるような気がした。

「おーい!」ビアンションが彼に声をかけた。「君はル・ピロットを読んだかい?」

ル・ピロットは急進的な新聞でティソ氏が編集していたが、これは地方向けに朝刊の数時間後に、今日のニュースをのせた版を出すことにより、地方県において他の新聞よりも二十四時間先んじてニュースを提供していたわけである。

「例の話のことが分かったぞ」コシン病院のインターンが言った。「タイユフェールの息子は古い衛兵のフランシュシーニ伯爵との決闘でやられたんだ。伯爵は彼の額を五.四センチも突き刺したんだ。そして我等のヴィクトリーヌが、パリで一番金持ちの結婚相手になったというわけだ。だろう! 分かってたらなあ? 片方が死んじゃうとは、丁半博打にしたってひどすぎるぜ! それでヴィクトリーヌが君を好意的な目で見ていたっていうのは本当かい、君?」

「黙ってて、ビアンション、僕は彼女とは決して結婚しない。僕には、とても魅力的な女性がいて愛している。彼女にも愛されている。僕は……」

「君がそう言うのは、まるで不実であるのを避けるために一生懸命無駄な努力をしているように見えるんだ。それじゃ、僕にそのタイユフェールとかの財産をふいにしてもいいほどの女性を見せてくれよ」

「悪魔が全部、この僕に付きまとってると言うのかい?」ラスチニャックは叫んだ。

「それじゃ一体誰に付きまとってるんだ? 君はどうかしちゃったのか? ちょっと手を出してごらん」ビアンションが言った。「僕が君の脈をとってやる。君は熱があるぞ」

「じゃあ、ヴォーケの母ちゃんのところへ行こう」ウージェーヌが彼に言った。「あの悪党のヴォートランが倒れて死にそうになってるんだよ」

「あー!」ビアンションはラスチニャックから飛びすさって言った。「君は僕が確認に行きたいと思っていた疑念が根拠のあるものだということを明確にした」

法学部学生の長い散歩は厳粛だった。彼はある意味で、自分の良心の点検をしていた。彼は動揺し自己を省みた、そして躊躇もした、しかし、彼の誠意はあらゆる試練に耐え抜いた鉄棒のごとく、この不快で恐ろしい内面的討論の末に導き出されたのだった。彼は前日ゴリオ爺さんが彼に告げた秘密を思い出した。彼は彼のために選ばれたダルトワ通のアパルトマンを思い出した、その直ぐ近くにデルフィーヌは住んでいるのだ。彼は彼女からの手紙を取り出し、読み直し、それにキスをした。「今となってはこの愛が僕の頼みの綱だ」彼はそう思った。「この哀れな老人は精神的にずいぶん痛めつけられている。彼は自分の悲しみについては何も言わない。しかし、それを見抜けない者などいるものか! ところで! 僕は彼から父親としての気遣いを受けることになるだろう。僕の方も彼に千もの喜びを返せるだろう。もし彼女が僕を愛してくれたら、彼女はしばしば僕のところへ来て一日中彼の近くで過ごすことになるだろう。あの尊大なレストー伯爵夫人が全くむかつく存在だが彼女なら、父親に守衛のような役をやらせるところだろうな。可愛いデルフィーヌ! 彼女は爺さんにとって一番のお気に入りになるだろうな、勿論彼女はそれだけ愛されるに相応しいんだから。あー! 今晩、僕は何て幸せなんだろう!」彼は時計を取り出し、改めてそれに見とれてしまった。「僕は何もかも上手くいってる! もし僕達がいつも互いに愛し続けることが出来るんだったら、僕たちはお互いに助け合ってゆける。僕はこの考えを受け入れることが出来る。まず第一に僕はそこに辿り着けるだろう。そして絶対に何もかも百倍にして返してやる。それらの関係の中では、犯罪もないし、最も厳しい道徳家の眉をすらひそめさせるようなことは何もない。このような結合をやりおおせる真正直な人間が世の中に何人いると言えるだろうか! 僕達は人を騙さない。僕達を堕落させるものといえば、それは嘘だ。嘘をつくってことは、それは退場することではないのか? 彼女は夫と離れ離れになって久しい。まず最初に僕は彼に言おう、僕自身の口で、あのアルザス人に、彼が再び幸福にしてやることが不可能となったあの女性を僕に譲るように頼むんだ」

ラスチニャックの心の葛藤は長く続いた。勝利は若者らしい道徳の上に留まるべきであったが、それに反して、彼は抗し難い好奇心でもって引き寄せられるように、そろそろ夜のとばりも下りようという四時半頃に、この下宿は永久に立ち去るのだと彼自身が決意したところだったあのメゾン・ヴォーケのあたりに戻ってきた。彼はヴォートランが死んだのかどうかを知りたいと思っていた。ヴォートランに吐剤を投与する考えをとったビアンションは、ヴォートランが戻したものを自分の所属病院へ送った。それを化学分析にするためだった。ミショノー嬢がそれを捨てるように執拗に望んでいた事は彼のかねてからの疑いを強固なものとした。それに、ヴォートランが余りにも早く回復したので、ビアンションは下宿内で陽気に座をにぎわしていた男に対して何らかの謀議が企てられたのではないかと疑わざるを得なかった。ラスチニャックが帰った時、ヴォートランはもう回復して食堂の暖炉のそばにいた。タイユフェールの息子の決闘のニュースによって、いつもより早く集まってきた下宿人達は事件の詳細と事件がヴィクトリーヌの上に及ぼす影響を知りたくて興味津々で、ゴリオ爺さん以外の皆が再び集まり、この大事件について談笑していた。ウージェーヌが入っていった時、彼の目が平然としたヴォートランの目と出会った。その目は先に彼の心に入り込み、そこで何らかの悪しき琴線を強く弾いたので、彼はそれに対しておののいた。

「これはこれは! お兄さん」脱走中の徒刑囚が言った。「死神は私についてはずっと時期を間違っているんだ。私はあの婦人のお陰で脳出血に打ち勝って生き延びた。この発作は牡牛でも殺してしまうほどのものなんだ」

「あー! 貴方はもう牡牛のように元気に話せるのね」ヴォーケ夫人が叫んだ。

「あんたは私が生きているのを見て残念なんじゃないのか?」ヴォートランはラスチニャックの耳にささやいた。彼はラスチニャックが『この男は何とまあ強いんだ!』と考えてたまげていることを見抜いていた。

「ああ、確かに!」ビアンションが言った。「ミショノーさんが一昨日、不死身っていう渾名の人のことを話してましたね。その名前なんて貴方にぴったりですよ」

この言葉はヴォートランに雷のような衝撃を与えた。彼は青ざめてよろめいた。彼の磁気を帯びた眼差しが太陽光線のようにミショノー嬢の上に注がれた。この意志の塊のような視線は彼女のひかがみを砕いた。ハイミスは椅子に沈み込んだままでいた。ポワレは彼女とヴォートランの間に立つように素早く前に出てきた。彼女が危機に陥っているのを理解してのことだったが、それは穏やかな仮面の下に隠されていた本性を現した徒刑囚の姿が冷酷無慈悲なものとなったからであった。このドラマの意味するものをまだ何一つ理解していない下宿人達は皆ただびっくりしているばかりだった。この時、人々は何人かの人の足音と兵士が歩道上で響かせる小銃のような物音を聞いた。コランが機械的に窓や壁を見ながら逃げ道を探していたその時、四人の男が広間の入り口に現れた。先頭の男は警視庁課長だった。後の三人は公安局吏員だった。

「法と国王の名において」吏員の一人が言ったが、彼の言葉は驚きのざわめきによってかき消されてしまった。

やがて静寂が食堂を支配した。下宿人達はこの三人の男に道を開けるために二つに分かれた。三人はいずれも手を脇ポケットに突っ込み、武装用ピストルをしっかり保持していた。憲兵が二人、警官の後に続き広間の出入り口を固め、更に二人の憲兵が現れ、階段へ続く出口を固めた。幾人もの兵士の足音と小銃の音が建物正面に沿った石畳の道にこだましていた。したがって、不死身が逃亡し終せる希望は総て断たれた。誰もが抑えがたい好奇心の目を彼に注いでいた。警視が彼の正面に歩み寄り、頭に荒々しい平手打ちを食わせたので、それは鬘をふっ飛ばし、彼の頭は恐ろしいジャック・コランの頭にすっかり戻ってしまった。れんが色の赤毛で短い髪は、力が悪知恵と混じり合った恐ろしい性格を印象づけ、この頭とこの顔は分厚い胸と釣り合って、あたかも地獄の炎がそれらを照らすかのように煌々と映し出されていた。誰もがヴォートランの全貌を理解した。彼の過去、彼の現在、彼の未来、彼の仮借なき原理、彼の快楽信仰、その思想が彼に反世間的態度を与えたところの闇の王国、彼の行動、あらゆる場面で示された組織力。彼の顔に血が上って目は野性の猫の目のように輝いていた。彼はとても獰猛なエネルギーが現れた動作で飛び上がり、大声で喚き散らしたので、下宿人達は皆恐怖の叫び声をあげた。このライオンの動作と広がった叫び声に応じて、警官達はピストルを取り出した。コランは各軍隊の犬が光に照らされているのを見て危険を察知した。彼は突然、人間としては考えられないような途轍もない力を示したのだった。恐るべき魔術的な光景だった! 彼の顔つきがある現象を呈したのだ。それはあのくすぶった蒸気で満ちた窯、時には山をも持ち上げ、また巨大な氷山もあっという間に溶かしてしまうという、あの湯気の立つ蒸気で満ち溢れた窯以外比べようもないものだった。彼の怒りを冷ました一滴の水は、稲妻のように一瞬ひらめいた思考だった。彼は微笑を浮かべると、自分の鬘に目をやった。

「君が今日来るとは聞いていなかったよ」彼は警視庁課長に言った。そして彼は憲兵に頭で合図しながら手を差し出した。「憲兵殿、私に手錠でも鎖でもかけて下さい。私はここにおられる人達に私が抵抗しなかったことの証人になってもらいます」この火山のような男から噴出して、また元に収まった溶岩と炎、その素早い変化に感嘆の声が上がり広間に響いた。「こいつは君の大手柄だな、お巡りさん」徒刑囚は有名な警視庁課長を見つめながら言った。

「さあ、いいから、服を脱ぐんだ」彼に向かって、サンタンヌ小路の住人が軽蔑感をいっぱいこめて言った。

「何故ですか?」コランが尋ねた。「婦人方もおいでです。私は何も否認しないし、降参しています」

彼は一呼吸おいて、集まった人々を見つめた。雄弁家がまさにこれから驚くべきことを語ろうとしているかのようだった。

「書き取ってくださいね、ラシャペル・パパ」彼は白髪の小柄な老人に向かって言った。その老人は書類入れから逮捕者の調書を取り出して、テーブルの端に坐っていたのだった。「私はジャック・コランであることを認めます」不死身が言った。「二十年の禁固刑を言い渡されています。そして、私の渾名は盗んだものでないことは、たった今証明したところです。もし私が手を挙げて抵抗していたら」彼は下宿人達に向かって言った。「ここにいる三人のポリ公は、ヴォーケ・ママの家の床の上に私の血を撒き散らして汚してしまうところだったんです。この愚か者達はくっつきあって私に罠をかけました」

ヴォーケ夫人はこの言葉を聞いて気分が悪くなった。「何てことだい! 口惜しいじゃない。あたしとしたことが、昨日は彼と一緒で幸せな気分に浸っていたなんて」彼女はシルヴィに言った。

「人生哲学的には、ママさんよ」コランが追っかけて言った。「昨日、ゲテ座の私のボックス席に行ったってことをそんなに不運だと思うんですかね?」彼は叫んだ。「貴女は我々よりもマシなんですか? 貴女の心の中にあるよりも、私達が背負っている汚濁の方がまだ綺麗なくらいですよ。貴女は腐敗した社会の無気力なメンバーに過ぎないんですよ。貴女達の中の最高の人間でも、この私には対抗出来ません」彼の目はラスチニャックの上に止まった。コランは彼に優しい微笑を送ったが、それは彼の粗暴な外観とは奇妙な対照をなしていた。

「我々のささやかな契約はまだ生きてるよ、私の天使、君が受けてさえくれたならな! 今だってな! この歌知ってるかい?」彼は歌った。

私のファンシェットはチャーミング

彼女が素直でいる限り

「大丈夫だよ」彼は続けた。「私の取り分は取り戻すさ。怖くて、この私の分をちょろまかすなんて、誰にも出来ないんだ」

徒刑囚は今、自ら語りかけて、その言行、陽気さから恐怖への急激な変化、途轍もない残忍さ、人懐っこさ、下劣さを突如露わにした。そしてこの男は、一人の人間に過ぎないが、ある種の堕落した国家、または、野蛮でいて論理的、粗野でいてしなやかな民衆の総ての典型を併せ持っていたのだった。一瞬にしてコランは地獄の詩となり、そこには人間らしい感情が溢れ出していた。ただし後悔の念は一切含まれていなかった。彼の眼差しは常に闘いを好みながら失墜した大天使のそれだった。ラスチニャックは彼自身の邪悪な考えを償うかのように、自身が罪に加担していることを認めて、目を伏せていた。

「誰が私を密告したんだ?」コランは恐ろしい目を集まった人達の上に這わせながら言った。そして彼はミショノー嬢の上で目を止めた。「あんただ」彼女に向かって彼が言った。「老いぼれ婆、あんたが私を脳出血にしたんだな。どうやったのか知らんが! 一言で言えば、私は一週間後の今日にでも、あんたの首を鋸で挽くことだって出来る。だが私はあんたを許してやる、クリスチャンだからな。それに、私を売ったやつはあんたじゃない。じゃ誰だ?」彼は司法警察の吏員が彼の洋服箪笥を開け、彼の財産を押収している音を聞きつけて叫んだ。「鳥の巣をやっと見つけた。が、肝心の鳥は昨日飛び立っていたってことだ。私の部屋からは何も見つからんよ。私の商売の種はここなんだ」彼はそう言って、自分の額を叩いた。「私を売ったのは誰か、今、分かったよ。そいつは恐らく詐欺師の“絹糸”だな、だろ? とっつかまえ屋の爺さん?」彼は警視庁課長に言った。「私の部屋の札束は、お暇して出ていったとこだよ。今頃探し回るとはタイミングが良過ぎるくらいだな。からっきしないよスパイ君。ところで“絹糸”だったら、貴方が憲兵隊総がかりでやつを守ろうとしても、十五日以内にやつは墓の中だ。このミショノー嬢ちゃんに貴方は何をあげたんですか?」彼は警察官に尋ねた。「何千エキュもですか? 私はそれ以上に値打ちがありますよ、虫歯のニノン、ボロ着のポンパドール、ペールラシェーズのヴィーナス[87]。もし、あんたが私に前もって知らせてくれていたら、あんたには六千フランやったんだが。あー! あんたはそれは疑うことなかったんだ、年取った肉屋さん、疑ったりしなければ、あんたをひいきしてたのに。そうさ、私はあの不愉快で私をすってんてんにするだけであろう旅を逃れるためには、私はあんたに何だってくれてやったさ」彼は手錠を掛けられながら言った。「あそこの連中はこれから私を引っ張りまわして、うんざりするほどの長い時間を楽しもうって魂胆だ。彼等が私を直ぐに徒刑場に送ってくれたら、オルフェーブル河岸[88]で私のことをじろじろ見る犯罪捜査課の連中が目障りだが、そのうち私は自分の仕事に戻れるんだがなあ。あそこでは、彼等は直ぐさま、ばらばらの心を一つにして彼等の将軍、この立派な不死身を逃すために働き始めるんだ。貴方達の中に、この私のように、貴方の為には何でもやろうと待ち構えている兄弟が一万人もいる、これほどに恵まれた人間はいるか?」彼は誇りに溢れて尋ねた。「ここに良いところがあるんだ」彼は自分の胸を叩きながら言った。「私はこれまでに人を裏切ったことが一度もない! おや、ダボハゼ、あれを見なさい」彼はハイミスに向かって言った。「彼等は私のことを恐ろしげに見ている。だが、あんた、あんたは彼等の心に嫌悪感を起こさせる。せいぜい賞金を集めることだな」彼は一呼吸おいて下宿人達を見回した。「ところで貴方達は一体何を考えてるんだ! 貴方達は一度でも徒刑囚を見たことあるのか? ここに現にいる、コランのようなタイプの徒刑囚は他の人間に比べて卑劣なところのない男だ。そしてその男は反社会的人間が味わう深い幻滅感を打ち破ろうと闘っているのだ。丁度ジャン・ジャック・ルソー[89]が言ったようにだ、そして私は彼の弟子であることを誇りに思っている。要するに、私は政府に対し、沢山ある裁判所、憲兵、予算のことで反対してるだけなんですよ。で、私は揺さぶってみてるわけです」

「何とまあ! 彼は実に見事にデッサンするね」絵描きが言った。

「ねえ、死刑執行人殿の王太子、寡婦の司令塔(徒刑囚達がギロチンに、恐怖の詩に溢れたこの名前をつけた)」彼は警視庁課長の方を振り返って、こう付け加えた。「ねえ、頼むよ、私を売ったやつは”絹糸”なのか! 私は誰か他のやつの仕業を彼に被せたくないんだ。それは正当じゃないからだ」

この瞬間、コランの部屋の総ての棚を開け、総ての整理をし終わった警官が戻ってきて、捜査隊長に低い声で何やらささやいた。調書は完成した。

「皆さん」コランが下宿人達に向かって言った。「彼等は私を引っ立てて行こうとしています。貴方達は私がここに暮らさせてもらった期間ずっと、私には本当に親切にして下さった。私は感謝申し上げます。さようならと言わせてもらいます。出来ることなら、あなた方にプロヴァンスのイチジクを送らせてもらいます」彼は何歩か歩いたが、振り返って、ラスチニャックの方を見た。「さようなら、ウージェーヌ」彼は優しく寂しげな声で言った。それは彼のぶっきらぼうないつもの話しぶりとは奇妙に対照的に響いた。「もし君が金に困るようなら、私は君の役に立つように私の忠実な友を置いておくぜ」手錠を掛けられていたが、彼は防御の姿勢はとることが出来た。彼は軍隊の長官がやるように点呼を取って号令した。「一、二! それ突きだ。何か困ったことがあったら、そいつのところへ行きなさい。人間でも金でも、君の好きなように使いなさい」

この特異な人物は彼の最後の言葉の中に思いっきりふざけた調子を込めたので、その意味はラスチニャックと彼自身にしか解らなくなっていた。館内から憲兵、軍人、それに警官達が立ち去った後、女主人のこめかみを酢でこすってやっていたシルヴィは呆然としている下宿人達を見た。

「あらあら! それにしても、彼って良い人だったんだわ」

この言葉は先ほどの場面によって掻き立てられた感情がそれぞれの人々の上に生み出した魅力と多様性を断ち切る作用を及ぼした。この瞬間、下宿人達はお互いにじろじろ見つめあった後、皆が一斉に目を向けたのは、やせて干からびて冷たくて、まるでミイラのようなミショノー嬢だった。彼女はストーブの横で隠れるようにして目を伏せていた。その様子はまるで彼女が自分の眼差しの表情を隠すためには、ランプの陰も十分の覆いにはならないことを恐れているかのようだった。彼女の姿は彼等にとって、これまで長い間、何故か反発を抱かせるものがあったが、それが突然皆の腑に落ちたように感ぜられた。一人一人の呟きが、完全な音の統合によって全員一致の嫌悪感となって現れ鈍く響いた。ミショノー嬢はそれを聞いて、じっとしていた。ビアンションが口火を切って、隣の人にかがみこんだ。

「あの女が我々と夕食を続けるんだったら、僕は退散します」彼は小声で言った。

ポワレを除いた誰もが目配せで医学部学生の提案に同意した。学生は全員の同意に意を強くして、古くからの下宿人の方に歩み寄った。

「貴方はミショノー嬢と、とりわけ仲が良いですよね」学生が言った。「彼女に言って下さい。彼女に今直ぐにここから立ち去るべきことを理解させてやってください」

「直ぐにだって?」ポワレが驚いて鸚鵡返しに言った。

それから彼はハイミスの傍へ行き、何かを彼女の耳許で言った。

「だけど私は下宿代をもう払っています。私は皆と同じように払った分だけここにいます」彼女は下宿人達にマムシのような眼差しを投げつけながら言った。

「それは大したことじゃありません。私達が分担金を出し合って、あなたに払い戻してあげますよ」ラスチニャックが言った。

「コラン支持者様」彼女が蛇のような毒々しい探るような視線を学生に投げかけつつ言った。「見え透いた事を言うのね」

この言葉に、ウージェーヌはまるでハイミスに飛びかかって、その首を締めんばかりの勢いで飛び上がった。彼女の視線は彼がコランと共犯者であった事を示唆し、その視線は彼の魂にも恐るべき光線を当てたのだ。

「そんなの放っておけ」下宿人達が怒鳴った。ラスチニャックは腕を組んで黙り込んだ。

「ユダ嬢とは、けりをつけて下さいよ」画家がヴォーケ夫人の方を向いて言った。「奥さん、もし貴女がミショノー嬢を追い出さないなら、我々は皆、貴女のバラックから出てゆきます。そしてそこらじゅうで、ここにはスパイと徒刑囚がいるだけだと言いふらしますよ。逆の場合は、我々はこの事件については完全に口をつぐみます。これは結局のところ、最良の社会に達することが出来たのだろうと考えてね。我々は徒刑囚の額に刻印まで打った。そして我々は彼等がパリの小市民に変装することを禁じた。そして彼等が何にでもなれる馬鹿げた笑劇をこれ以上演じることを禁じた」

この議論の最中にヴォーケ夫人は奇跡的に健康を回復し、姿勢を正し、腕組みをして、目をはっきりと見開いた。涙の痕跡もなかった。

「だけど、ねえ貴方、貴方は一体この家をつぶしてしまいたいの? ヴォートランさんだったらねえ……おー! 悲しい」彼女は中断しながら思った。「あたしは彼のことを正直な男だと考えざるを得ないわ! ほら」彼女は続けた。「空になったアパルトマンが一戸、その上に、貴方達はまだ二戸も空の貸間を私に持たせようって言うのよ、この誰も彼もが住居も落ち着かせようって季節によ」

「皆さん、帽子を手に持って、ソルボンヌへ夕食に出かけましょう、フリコトー[90]で夕食だ」ビアンションが言った。

ヴォーケ夫人は一瞬にして最も有利な方針を決め、ミショノー嬢のところへ走り寄った。

「さあ可愛いお嬢さん、貴女はまさかあたしの大事な施設が駄目になってしまうのをお望みじゃないでしょう、どうなの? 貴女見たでしょう、何とも言えない大変なことで、あたしはこの人たちに逃げられてしまうのよ。今晩のところは、貴女は自分の部屋に上がっといて」

「ぜーんぜん、ぜーんぜん」下宿人達が怒鳴った。「我々は彼女が今直ぐ出てゆくように言ってるんだ」

「しかし、彼女は夕食を食べてないんだ、この可哀想なお姉さんは」ポワレが哀れげな様子で言った。

「彼女は好きなとこで夕食するんだろ」何人かが叫ぶ声がした。、

「出てゆけ密告者!」

「皆さん」ポワレが叫んだ。彼は愛が雄羊に与えた勇気によって、突然心が最高に昂揚していた。「女性に向かって、言葉に気をつけて下さい」

「密告者に女性も何も関係ないよ」絵描きが言った。

「話題のセクソラマ(女)」

「ポルトラマ(戸外)へ出てゆけ」

「皆さん、これは無作法というもんです。もし人が誰かを追い出そうとするなら、当然やり方があります。私達は家賃を払っている。私達は留まります」ポワレはハンチングをかぶりながら言った。そしてヴォーケ夫人に説教されていたミショノー嬢の脇の椅子に座った。

「聞き分けのないこと!」絵描きがおどけた様子で彼に言った。「つまんないことで聞き分けのない、やれやれ!」

「さあ、貴方達がいなくならないんなら、我々が立ち去りますよ、我々の方がね」ビアンションが言った。

そして下宿人達は寄り集まって広間の方へ動いていった。

「お姉さん、貴女は一体何をお望みなの?」ヴォーケ夫人が叫んだ。「あたしは破滅よ。貴女はもういられないわ。もう直ぐ暴力沙汰になってしまうわ」

ミショノー嬢が立ち上がった。

彼女は立ち去るだろう! 彼女は立ち去らないだろう! 彼女は立ち去るだろう! 彼女は立ち去らないだろう! 二つの言葉が交互に言われ、言葉に含まれた敵意が彼女に襲いかかっていた。女家主と低い声で何らかの規約を確認しあった後、ミショノー嬢はとうとう館からの退出を余儀なくされた。

「私はビュノー夫人のところへゆきます」彼女は脅すような声で言った。

「何処でもお好きなところへいらっしゃい、お嬢さん」ヴォーケ夫人はそう答えたが、この選択の中に残酷な侮辱が含まれているのが分かった。その館こそ彼女がライバル視してきたものであり、結果として、この選択は彼女にとって耐え難いほど嫌なものだった。「ビュノーのところへお行きなさい。あそこじゃ、ヤギに飲ませて元気づけるワインが出るそうよ。それに料理だって、ろくでもないとこから仕入れてるんだから」

下宿人達は深い沈黙の中で二列に並んだ。ポワレはとても優しげにミショノー嬢を見つめていて、自分が彼女についてゆくべきか留まるべきか決められないままに、あからさまに優柔不断の姿を晒していたので、下宿人達はミショノー嬢と別れられるのも嬉しくて、お互いに顔を見合わせて笑い出した。

「いけ、いけ、ポワレ」絵描きが彼に向かって叫んだ。「それいけ、それ、それ!」

博物館員は有名な恋歌の冒頭部分を滑稽な調子で歌い始めた。

シリアに向かって発たんとす

若き美貌のデュノワ[91]

「さあ行きなさい。貴方達は行きたくてたまらないんでしょう。トラヒット・スア・ケムク・ウォルプタス」ビアンションが言った。

「蓼食う虫も好き々々、ウェルギリウスの意訳です」家庭教師が言った。

ミショノー嬢はその男を見ながらポワレの腕を取る様子を見せた。彼はこの誘いに抵抗できず、ハイミスに腕を差し出した。拍手が湧き起こり笑いが爆発した。ブラヴォー、ポワレ! 老いぼれポワレ! アポロン・ポワレ! マルス・ポワレ! 勇者ポワレ!

この時、使い走りの者が入ってきて、一通の手紙をヴォーケ夫人に渡した。彼女はそれを読んで、そっと椅子の上に置いた。

「まあ雷が落ちて、あたしの家を燃やしちまったてことよ。タイユフェールの息子は三時に死んじまった。あたしは、この可哀想な若者を犠牲にしても、うちにいる婦人達が幸せになれるんだったらいいと願ったんだけど、バチが当たったんだわ。クチュール夫人とヴィクトリーヌが、あたしにまた彼女達の持ち物を送るように言ってきたんだけど、そしてヴィクトリーヌの父と一緒に住もうとしているのよ。タイユフェール氏は娘と一緒に住むことを、更にクチュール夫人を保護してあげることも認めたのよ。四つのアパルトマンが空になるのよ、下宿人が五人も減るのよ!」彼女は座り込んで泣き出しそうになっていた。「不幸があたしに落ちかかってきた」彼女が叫んだ。

馬車がやって来て停車する音が突然路上に響き渡った。

「まだ何か嫌なことかね」シルヴィが言った。

ゴリオが突然、顔を輝かせ幸福感が溢れた表情で現れた。それは彼が再生されたと人に信じさせるほどのものだった。

「ゴリオが辻馬車に乗ってきた」下宿人達が言った。「この世の終わりだな」

爺さんは隅っこでまだ物思いにふけっていたウージェーヌの方に真っ直ぐに近づき、彼の腕をつかんだ。「来なさい」彼はウージェーヌに嬉しそうに言った。

「貴方はまだ何が起こっているか知らないんですか?」ウージェーヌが彼に言った。「ヴォートランは徒刑囚だったんです。彼を捕まえに警察官が来てたんです。そしてタイユフェールの息子は死にました」

「へえ、そうですか! でも、それが私達には、どうってことないでしょ?」ゴリオ爺さんが答えた。「私は娘と夕食をとる。貴方の家でね。聞いてるんですか? 彼女は貴方を待ってるんだ、行きましょう!」

彼はとても荒々しくラスチニャックの腕を引っ張ったので、学生は無理やり歩かされてしまった。ゴリオの様子はまるで自分の女主人を連れ出すといった風情だった。

「夕食だ」絵描きが叫んだ。

みなが一斉に椅子を取り食卓についた。

「あらら」でぶのシルヴィが言った。「今日は何もかも駄目だわ。羊肉のシチューが煮え過ぎちゃったわ。ごめんね! ちょっと焦げたの食べてね、仕方がない!」

ヴォーケ夫人は彼女のテーブルの周りにいた十八人の代わりに、たった十人の人間しかいないのを見ると、一言も言う元気がなかった。しかし皆は彼女を慰めたり明るくさせようと試みた。まず第一に通学生達がヴォートランやその日の出来事について話し合い始めると、彼等はやがて蛇のようにくねくねとした会話に陥ってしまい、決闘、徒刑囚、裁判のことを語り始め、改正すべき法律のことや牢獄のことにまで話は及ぶのだった。それから彼等は気がつくと、ジャック・コランのことを千回も話していて、ヴィクトリーヌや彼女の兄弟のことも話していた。彼等は十のものも二十に話し、ごく普通のものを途轍もない数字のように言った。今日の夕食と前日の夕食との間にあるもの、それは途轍もない変化であった。しかし更に翌日になると、この利己主義な人々はパリの日常の出来事の中にまた新たに恰好の題材を見つけて楽しむことになり、慣れ親しんだのんきさが彼等の気分を支配することとなるのだ。そしてヴォーケ夫人でさえも、でぶのシルヴィの意見を聞くうちに希望のようなものが湧いてきて、静かな気持ちに身を置けるようになっていた。

その歴史的一日は、その日の晩方にはウージェーヌにとっては最早、夢幻劇のようなものになっていた。彼は性格の強さや頭脳の明晰さにもかかわらず、自分の考えをどう整理すればよいのかわからないままに、駅馬車に乗り、ゴリオ爺さんの横に座っていた。爺さんは話しているうちに、いつにない嬉しさを隠しきれない様子で、感動の余り爺さんの声がまるで夢の中で聞こえるようにウージェーヌの耳に響き渡るのだった。

「今朝の事はもう終わった。私達は三人きりで一緒に夕食です、一緒に! 聞いてるんですか? そうだ、私のデルフィーヌと夕食をしたのは、もう四年も前です。ああ可愛いデルフィーヌ。私は今晩はずっと彼女のそばにいられるんです。私達は今朝から貴方の家にいたんですよ。私は汚い服を着て労務者のように働いたんですよ。私は家具を運ぶのを手伝いました。ああ! 貴方は食事の時、彼女がどんなに優しいか知らないでしょう。彼女はこの私の世話をしてくれるんです。『さあパパ、ほらこれ食べてみて、おいしいわよ』なんてね。それでいて、私はこれを食べられないんです。あー! 私が彼女と幸せに過ごしていた時から何と長い時間が経ってしまったんだろう。だが私達はこれからは昔のように一緒に過ごそうとしているんです!」

「しかし」ウージェーヌが口を挟んだ。「今日という日は本当にとんでもない日でしたね?」

「とんでもない日ですって?」ゴリオ爺さんが答えた。「そうかね、かつてのいつの時代に比べても、世の中、こんなに良くはなかったですね。今はどちらを向いても、道には陽気な人、握手を求める人、抱き合う人しかいないくらいですよ。いつも夕食を娘の家でとっているような幸せな親父が、娘がシェフに注文した可愛らしいディナーなんぞを飲み込むように平らげてるのを私は目の前で見たことがあります、くそっ! あれはカフェ・デ・ザングレ[92]でしたな。しかし、なあに! こっちだって、デルフィーヌのそばなら、アロエの苦汁でも蜂蜜のように甘くなりますよ」

「僕も貴方には昔のような生活が戻ってくると思います」ウージェーヌが言った。

「おい、御者さんよ、もっと走れんかね」ゴリオ爺さんが前のガラスを開けて叫んだ。「ほれ、もっと早く頼むよ。あんたもご存知のあそこへ十分以内にわしを連れてってくれたら百スーやるから、それで一杯やってくれ」この約束を聞いた御者は光のような速さでパリを駆け抜けた。

「この御者は良くないですね」ゴリオ爺さんが言った。

「ところで、一体何処へ連れてってくれるんですか?」ラスチニャックが爺さんに尋ねた。

「貴方の家ですよ」ゴリオ爺さんが答えた。

馬車はダルトワ通で止まった。爺さんがまず馬車を降りて、寡夫にありがちな浪費癖から、御者に一〇フランを投げ与えた。爺さんは嬉しさの絶頂にあって、身を守るすべを知らなかった。

「行って上がりましょう」彼はラスチニャックにそういうと、中庭を横切って、四階建ての新しくて外観の綺麗なメゾンの裏手にあるアパルトマンの戸口へと彼を案内した。ゴリオ爺さんが呼び鈴を鳴らすまでもなかった。ニュシンゲン夫人の小間使いのテレーズが彼等にドアを開けた。ウージェーヌは若者向きの実に快適なアパルトマンの中に入った。部屋の構成は待合室、小広間、寝室、それに庭を見渡せる書斎からなっていた。小広間の調度品や装飾は、最高の美しさ、最高の上品さといわれるものに比べても遜色のないものだった。彼はろうそくの光の中で、デルフィーヌの姿を認めた。彼女は炉辺の小型ソファから立ち上がり、優しさに溢れた声に抑揚をつけて彼に言った。「どうして貴方を探し回らなきゃならないの、ねえ、このわからずやさん」

テレーズは出て行った。学生はデルフィーヌを腕の中に抱いた。彼女も激しく抱き締めながら嬉しさに泣いた。沢山の苛立ちが心と頭を疲れ切らせたこの一日の間に彼が見たことと、たった今見たこととの究極的な対比はラスチニャックという人間における鋭敏な神経を決定付ける出発点となったのだ。

「この私には良く分かってる。彼がお前を愛してることをな」ゴリオ爺さんはうんと声をひそめて娘に言った。その時には、ウージェーヌは疲れ切って、ソファーの上に横になっていた。彼は一言も発せられず、また、魔法の杖の最後の一振りがどんな方法で可能となったのかもさっぱり分からなかった。

「さて、それじゃあ見に行きましょう」ニュシンゲン夫人はそう言って彼の手を取り寝室に連れて行った。そこの絨毯、家具、それに様々な小物は彼にはデルフィーヌの寝室をミニチュア化したもののように思われた。

「ベッドがまだないんですね」ラスチニャックが言った。

「はい、貴方」彼女は顔を赤らめつつ言って、彼の腕を取った。

ウージェーヌは彼女を見た、そして若いながらも、愛する女の心の中の本当の羞恥心の総てを理解した。

「貴女は僕が心から愛し続けてやまない最愛の女性だよ」彼は彼女の耳許で言った。「そうさ、僕達はよく理解し合っているから、あえて言葉に出したんだ。愛が生き生きと真実のものであるほど、それにはヴェールをかけて神秘的でなければならない。僕達の秘密は誰にも明かさないことにしましょう」

「おお! 私はその誰かじゃないよ、私はね」ゴリオ爺さんが少し不満げに言った。

「貴方は勿論僕達と同じですよ、貴方は……」

「ああ! それこそ私が望んだことだ。貴方はこの私には注意を払わなかった、そうでしょ? 私はそこいらに漂っている善良な精霊のように行ったり来たりする。目には見えなくとも、そこにいる事は皆が知っている! おやおや、デルフィネット、ニネット、ドゥデル! 私がこれまで言ってきたことは間違ってるか? 『アルトワ通に綺麗なアパルトマンがある。彼のために二人でそこに家具を備え付けよう』お前はそれを望まなかった。ああ! お前の喜びを作り出すのは私なんだよ。お前の人生を作り出すのと同じようにね。父親というのはいつも与え続けて幸せになれるんだ。与え続ける、これが父親たるものがなすべきことなんだ」

「何ですって?」ウージェーヌが尋ねた。

「そうです、彼女はためらっていた。彼女は下らない噂を立てられるのを恐れていた。まるで世間体のために幸せをふいにしても仕様がないって感じだった。だが、女達は皆、彼女のようになることを夢見てるんだ……」

ゴリオ爺さんは一人で喋り続けていたが、ニュシンゲン夫人は構わずラスチニャックを書斎に案内した。そこでは、軽く交わすキスの音さえも響き渡ったことだろう。この小部屋はこのアパルトマンの優雅さと上手く調和していた。言うまでもなく、ここには不足な点は何もなかった。

「貴方のご希望に適ったでしょうか?」食卓につくため広間に戻ってきて、彼女が尋ねた。

「はい、良過ぎます、びっくりです! この豪奢、それも完璧な、これは美しい夢の実現だ、若々しく優雅な人生の総ての詩的表現だ。僕はそれを十分過ぎるほど感じるので、感謝しきれないくらいに思っています。しかし、僕はこんなものを貴女から受け取るわけにはゆきません。それに僕はまだ貧乏過ぎて、この……」

「ああ! 貴方はもうあたしに逆らってる」と彼女はちょっとからかう風に威圧的に言って、可愛い仏頂面をして見せた。これは女達が更なる気晴らしに誘い込むために、男の中の几帳面さといったものを嘲笑したくてとる態度なのだ。

ウージェーヌは、この重大な一日をかけて仰々しく自問していた。そしてヴォートランの逮捕は、彼の前に深淵の深さを示した。彼は危うくそこに転がり落ちそうになっていたのだが、今ようやく、自分の高潔な意識と細やかな心遣いをしっかりと固めることが出来た。その結果、彼は時には寛大な考えでもって、相手の反論が弱いと知りながらも譲歩してやることも出来るようになったのだ。深い悲しみが彼を捉えた。

「どうして!」ニュシンゲン夫人が叫んだ。「貴方は断るお積り? そんな拒絶が何を意味するか、貴方ご存知なの? 貴方は未来を疑っている。貴方は貴方をあたしに結び付けようとはしない。貴方はもしかして、あたしの愛を裏切ってしまうかもしれないと恐れてるの? もし貴方があたしを愛してるのなら、どうして、これっぽっちの些細な贈り物の前で尻込みなさるの? あたしが若い男所帯の家事を調えるのに、どんなに夢中になって没頭したか、貴方が知ってくれたら、貴方は躊躇したりしないはずよ。そしてあたしに御免なさいって言うはずだわ。あたしは貴方のお陰でお金を得たわ。あたしはそれを上手に使ったんだわ、それだけよ。貴方は自分を度量のある人間だと信じてる、だけど貴方はちっぽけな人間よ。貴方はねぇ……もっと沢山聞きたい?」彼女はウージェーヌの情熱的視線を捉えて言った。「それに貴方ったら下らないことを気取ってるのよ。もし貴方があたしのことを全然愛してないなら、ああ! はい、断ってちょうだい。あたしの運命は貴方の言葉にかかってるの。言って下さる? でも父もいるわ。彼にもまた、はっきりと理由を言って」彼女は父の方を振り向き、一呼吸おいて、付け加えて言った。「あたしも私達の名誉に関しては父に劣らず敏感なのよ、信じて下さる?」

ゴリオ爺さんはこの可愛い喧嘩をアヘンの香りの中で凝固したような微笑を浮かべて、見たり聞いたりしていた。

「要するに! 貴方って人生の入り口にいるのよ」彼女はウージェーヌの手をつかみながら言った。「貴方は大抵の人には乗り越えがたいような障壁を見つけたのね。一人の女の手を開いて覗いてみた、そして尻込みしてる! でも、貴方は成功する。貴方は輝かしい富を築く。成功は貴方の美しい額に記されているわ。あたしが今日貴方に貸したものを、貴方が返せないなんてことあるかしら? 昔は貴婦人達が騎乗槍試合に彼女達の名誉をかけて戦いに行く騎士達に、甲冑、剣、兜、鎖帷子、馬を与えたんじゃなかったかしら? さあそれで! ウージェーヌ、あたしが貴方に差し出しているものは現代の武器よ。何者かになろうという人にとっては必須の道具なのよ。結構なもんだわ、貴方がいらっしゃる屋根裏部屋のことよ。パパの部屋と似たりよったりと言うじゃない? さてと、私達はまだ夕食してなかったっけ? 貴方はあたしを悲しませたいの? さあ答えてくれる?」彼女は彼の手を揺さぶりながら言った。「ああ、パパ、彼の決心助けてあげて! でなきゃ、あたしが出てゆくわ、それで貴方とは二度とお会いしないでしょうね」

「私は貴方に決心してもらう積りですよ」ゴリオ爺さんが夢うつつ状態から醒めて言った。「私達のウージェーヌさん、貴方はユダヤ人から金を借りようとしているんじゃないですか?」

「その通りです」彼が答えた。

「そうですか、待って下さい」爺さんはそう言うと擦り切れた革の汚い紙入れを取り出した。「私がそのユダヤ人に代わってあげましょう。私が請求額を全部支払いました、ほらこれです。貴方はここにあるものについては一銭も払う必要はないんです。そんなに大した金額じゃありません。全部で五千フランちょっとくらいです。私はそれを貴方にお貸しします、私が! 貴方は私を拒絶しないでしょ、私は女じゃないんですから。貴方は私に何かの紙切れに認めを書いてくれたらいい。そして、いつか後で私に返してくれたらいいんです」

幾筋かの涙が同時にウージェーヌとデルフィーヌの目から流れた。二人は驚きの余り顔を見合わせた。ラスチニャックは爺さんに両手を拡げて抱きついた。

「おや! こりゃ何だ! 貴方は私の子供じゃなかったのかな?」ゴリオが言った。

「だけど父さん、一体どうやってこれを?」ニュシンゲン夫人が尋ねた。

「あー! それだよな問題は」彼が答えた。「私がお前にこの件を自分で片付けるように決心させた時だったが、私はお前がまるで結婚する女のように色々の物を購入するのを見ていたんだ。私はこう思ったものだ。『彼女の家計は大ピンチになるぞ!』代訴人はお前の夫に対して、お前の財産を返させるように訴訟を起こすと、それは半年以上の期間がかかるといっている。それならと、私は額面二七〇〇〇フランの国債を売った。そして私の分として額面一五〇〇〇フランの終身年金を買ったので、私には毎年一二〇〇フランの配当が入ってくる。そして残った金で貴方達の費用は支払った。子供達よ、私はあの階上の部屋で、年に五〇エキュ払って、毎日五〇スーも使えば王子様のように暮らせるさ。それにまだ残っている財産も幾らかある。私は何も使わない。服だって、ほとんど必要ない。ほら、この二週間というもの、私はこんなことを考えては、ほくそ笑んでいたんだ。『あの子達は幸せにやってるんだ!』ってね。おやおや! 君達は幸せじゃないのかい?」

「おー! パパ、パパ!」ニュシンゲン夫人は父親に飛びつきながら叫んだ。父は彼女を膝の上に受けとめた。彼女は接吻で彼を覆い、彼の頬を彼女のブロンドの髪が撫ぜ、彼女の涙が喜びで輝かんばかりのこの老人の顔の上に溢れ落ちた。「大好きなお父様、貴方ってすごい父親だわ! いいえ、この世に貴方のような父親は二人といないわ。ウージェーヌは前から貴方のことがとても好きだったんだから、今はどんなに好きだか分からないくらいよ!」

「だが、お前さん達」ゴリオ爺さんが言った。彼はこの十年来、娘の心臓が彼の心臓のまぢかでどきどきしているのを感じる機会がなかったのだ。「だが、デルフィーヌよ、お前もしかして、私が嬉しさの余り死んでしまうのを望んでるな! 私の哀れな心臓は破裂しそうだ! ウージェーヌさんのところへおゆき。私達はもう十分だろう!」そして老人は自分の娘をとても荒々しく熱狂的に抱き締めたので、娘が言った。「もう! いいかげんにしてよ!」「私はお前に嫌われた!」彼は青ざめて言った。彼は想像を超えた深い悲しみのこもった様子で娘を見つめた。この父性のキリストとも言うべき男の表情を正しく描くためには、あの人類の救世主が人々の救済のために蒙った受難劇を描こうとして、画布の天才達が編み出した様々な画像の中に比較の対象を求めねばなるまい。ゴリオ爺さんは彼の指が余りにも強く握り締めていた彼女のベルトの上にとても優しいキスをした。

「いやいや、私はお前の心を痛めさせるようなことはしていない」彼は彼女に問いかけるように微笑みながら言った。「悲鳴をあげて私の心を掻きむしったのはお前の方だよ」彼は慎重に彼女の耳にキスしながら囁いた。「費用はもっとかかったんだが、彼にはごまかしておかないと悩ませる事になるんでね」

ウージェーヌは、この男の無限の奉仕を見て、石のように固まってしまった。そして若者独特の信頼から溢れ出たあの素朴な賛嘆を心に刻みつけながら、この男を見つめていた。

「僕はこの立派な贈り物に相応しい人間を目指します」彼は叫んだ。

「あー! あたしのウージェーヌ、たった今貴方が言ってくれたことって、とても素敵だわ」そう言うとニュシンゲン夫人は彼の額にキスをした。

「彼はお前がいるので、タイユフェール嬢と彼女の百万フランを断った」ゴリオ爺さんが言った。「そうだ、彼女は貴方を愛していた、あの少女は……そして彼女の兄が亡くなった。だから彼女は大富豪のような金持ちになったわけだ」

「あー! 何故そんな話をするんですか?」ラスチニャックが叫んだ。

「ウージェーヌ」彼の耳許でデルフィーヌが言った。「私はそのことは本当に申し訳ないと、今晩ずっと思っていたわ。でもね! あたしは貴方を誰よりも愛しますわ、あたしは! いつまでも!」

「ほら、お前が結婚して以来、私にとって、こんな嬉しい日はなかったよ」ゴリオ爺さんが叫んだ。「神はいくらでも好きなだけ私を苦しめりゃあいいんだ、ただ、それがお前に関わることでなければの話だと、私は思っていた。今年の二月のことだった。私は人生において大概そんなに幸せなばかりでいられないものだと思うが、いつになく自分を幸せだと感じられる瞬間があったんだ。フィフィーヌ、私を見てごらん!」彼は娘に向かって言った。「彼女はとても美しい、そうでしょ? そして私は自分に言うんだ。あんたはこれまでに彼女のように綺麗な色をした、そして彼女のように可愛いえくぼのある女性に何人出会ったかね? ないって、まさか? まあいい、この愛すべき女を作ったのは私なんだよ。これからは、ウージェーヌ、貴方のお陰で幸福になって、彼女は何倍も幸せになることだろう。私は地獄にだって行けますよ、お隣さん、もし私の楽園の一部でもお要りなら、私は貴方に差し上げます。さあ食べよう、食べよう」彼は最早自分の言ってることも分からず続けた。「みんな私達のものなんだから」

「何と哀れな父親なんだろう!」

「ああ、お前が知っててくれたらなあ、なあ娘よ」彼は立ち上がり、彼女のところへ行って言った。そして彼女の頭を抱えて三つ編みの真ん中あたりの髪にキスをした。「私に幸せを返してくれるのなんて、お前にとっては実にたやすいもんだがなあ! 何度か私に会いに来ておくれ、私はあの上の階にいる。お前はほんの少し立ち寄ればいいんだ。約束しておくれ、ちょっと!」

「はい、お父様」

「もう一度言っておくれ」

「はい、私の優しいお父様」

「もういい、本当なら、お前に百回でもそれを言わせたいところなんだが。夕食にしよう」

宵の時間はひどく子供染みた趣向で過ぎていった。ゴリオ爺さんは、この三人の中で相変わらず気違い染みた振る舞いを隠そうとしなかった。彼は娘の脚にキスしようとして身をかがめた。彼は彼女の目の中を長い間見つめ続けた。彼は彼女の衣服に自分の頭をこすりつけた。要するに、彼は飛び切り若く、飛び切り優しい恋人がやるような馬鹿げた行為をやったのだった。

「ご覧になった?」デルフィーヌがウージェーヌに言った。「父が私達と一緒にいる時は、彼の好きなようにさせなきゃならないの。そりゃあ時には邪魔に感じるでしょうけれどね」

ウージェーヌは既に何度か嫉妬の衝動に駆られたが、彼の忘恩の気持ちを元から押さえ込むような彼女の言葉を非難することは出来なかった。

「それで、いつアパルトマンは出来上がるの?」ウージェーヌは寝室を見回しながら言った。「今夜はここに泊まれないのかい?」

「そうね、でも明日、貴方はあたしと夕食をして」彼女は抜け目のない様子で言った。「明日はイタリア座へ行く日よ」

「私は立見席で観るよ、私はね」ゴリオ爺さんが言った。

真夜中になった。ニュシンゲン夫人の馬車が待機していた。ゴリオ爺さんと学生はデルフィーヌについておしゃべりしながら、メゾン・ヴォーケに帰ってきた。話しているうちに彼等の熱中度がどんどん高まってきて、ついにはこの二人の荒々しい熱愛者の間には表現の仕方を巡って奇妙な争いすら生まれた。ウージェーヌは何らの私心に汚されることもない父の愛が、その継続性や大きさにおいて、彼自身の愛を圧倒し去っていることを認めざるを得なかった。偶像は父親にとって常に純粋で美しい。そして彼の熱愛は未来と同じく過去のことも総てを糧として膨らんでゆく。彼等はヴォーケ夫人が片隅のストーブのところで、シルヴィとクリストフの間でぽつんとしているのを見つけた。年老いた女家主は、まるでカルタゴが滅亡した時のマリウス[93]のような感じでそこにいた。彼女はシルヴィにつき合わさせて悪いと思いながら、彼女の下宿人として残っている二人の帰りを待っていたのだった。バイロン卿はタッソー[94]のためにこの上なく美しい悲歌を書いていたが、それらの歌もヴォーケ夫人の理解を超えた現実の深さには遠く及ばなかった。

「明日の朝はたった三つだけのコーヒー・カップでいいよ、シルヴィ。そうだね! あたしの家は空っぽだよ、こんな悲しいことないじゃないか? あたしの下宿人がいなくなっちまうなんて、人生ってなんだい? 何にもない。ほら、あの人達がいなくなった後の家具もないあたしの家。家具があっての生活だよ。あたしはこの世で一体何をしたっていうんだい、こんな災難に会うなんて? うちのインゲンマメとジャガイモの料理で二十人の人を養ってきた。あたしの家へ警官が! これからはもう、あたし等はジャガイモしか食べないよ! こうなったらクリストフは辞めさせるよ!」

サヴォワ出身の少年は居眠りしていたが、突然目覚めて言った。「奥さん?」

「可哀想な子! まるで犬ころ並みの扱いね」シルヴィが言った。

「引越しシーズンは終わってる。皆それぞれ住まいを決めちまってる。何処であたしは下宿人を失っちまったんだろう? 頭がぼっとしてきちまった。それにあの巫女のミショノーめ! あたしからポワレまで奪い取ったんだ! あの男と引っ付くために彼女は一体何をしたんだろうね。彼ったらまるで小犬みたいに付きまとってさ?」

「あー! 奥さん!」シルヴィがうなづいて言った。「あのハイミスはそれこそ悪知恵と巧妙さの塊ですからね」

「あの気の毒なヴォートランさんを奴等は徒刑囚にしちまったんだからね」寡婦は更に続けた。「やれやれ! シルヴィ、これはあたしの手に負えないから、あたしはもうこれ以上考えないことにするよ。陽気ないい人だったねえ、毎月一五フラン払って、ブランデー入りのコーヒーを飲んで、その上、即金で全額払ってくれるんだからねえ!」

「それにあの人は寛大だった!」クリストフが言った。

「ちょっと違うんじゃない」シルヴィが言った。

「いいえ全然違わないよ。彼は自分自身に忠実なだけさ」ヴォーケ夫人が引き取った。「それで、このごたごたの始末があたしのとこへ来るんだからたまんないよ、この猫一匹通らない一角にさ! 誓ってもいい、あたしは今悪い夢を見てるんだ。何故なら、あなたも見たでしょ、私達はルイ十六世が災難に会ったのを見てきたし、私達は帝国の崩壊も見てきたし、帝国が復活しまた倒されるのも見てきた。これら総ては秩序立った世の流れの中にいつだって起こり得ることとして組み込まれているのよ。一方で素人下宿なんぞに反対しようなんて動きはあり得ないのよ。王様無しで済ませられるけど、人は必ず食べてゆかなきゃならない。で、善良な女がいて、コンフラン家の出で、知恵を絞って夕食を提供してきたんだ、世界の終わりが来ない限りは……だけど、それも仕方ないね、世界の終わりなんだからね」

「貴女にとんでもない迷惑をかけたミショノー嬢が、噂によれば、六〇〇〇フランもの年金を受け取ることになるというんだから驚くじゃありませんか」シルヴィが叫んだ。

「あたしにはそのことは話さないでおくれ。あんな性悪女はいないよ!」ヴォーケ夫人が言った。「しかも彼女はラ・ビュノーのところへ行くんだ、念の入ったこった! だけど彼女はどんな報いを受けても仕方ないよ。彼女はここにいて、皆に不快な思いをさせ、人を殺し、盗みをしたんだからね。彼女はあの気の毒な好人物の代わりに徒刑場に行って当然なんだ……」

ちょうどこの時、ウージェーヌとゴリオ爺さんが呼び鈴を鳴らした。

「あー! やっと仲間達が二人帰ってきた」寡婦は溜息をつきながら言った。

二人の仲間はこの素人下宿を襲った災厄についての記憶がもう大分薄れていたので、女家主に対して特に改まった挨拶をすることもなく、ショセ・ダンタンの方に移り住むことになると告げた。

「あー! シルヴィ!」寡婦が言った。「これがあたしを殺す最後の切り札よ。貴方達はあたしに止めを刺したのよ、貴方達ったら! あたしは腹をぶたれたわ。そこに棒杭を叩き込まれたの。ほら、この一日は十年かそれ以上も頭から離れることはないだろうね。あたしは気が狂うよ、誓ってもいい! インゲンマメはどうしよう? あー! そうだ、もしあたし一人だけだったら、あんたは明日でお別れだよ、クリストフ。さようなら、皆さん、おやすみなさい」

「彼女は一体どうしたんですか?」ウージェーヌがシルヴィに訊いた。

「当たり前でしょ! ほら、事件以来、皆揃って出て行っちゃうじゃない。だから彼女の頭が変になっちゃったの。さあ、私が彼女の泣き言を聞いてあげるわ。泣き言を言うのも彼女のためになるわ。こんなの初めてよ、私が彼女のとこで働き始めて以来、彼女があんなに虚ろな目をしているなんて」

翌日、ヴォーケ夫人は彼女自身の表現に従えば、理性を取り戻した。たとえ彼女が下宿人を総て失ってしまって、人生を一変させられた女性らしく、ひどく悲しげな様子に見えたにしても、彼女はもう完全に思考力を回復していて、本当の悲しみ、深い悲しみ――利害をめちゃめちゃにされたり、習慣を断ち切られたりすることが原因となる悲しみ――を彼女の姿は表していた。確かに、恋する男が愛する女が住んでいる家を離れながら投げかける眼差しの悲しげなのも、ヴォーケ夫人が無人の食卓を見つめる時の悲哀ほどではなかった。

ウージェーヌは、ビアンションがあと数日でインターンを終了し、間違いなく自分の後釜にここへ来るだろうと言って、彼女を慰めた。博物館職員もしばしばクチュール夫人のアパルトマンに住みたいという希望を表明していたし、そう遠くない日に彼女は下宿人の補充が出来るだろうとも言ってみた。

「ありがとう、あなたの願いが叶えられますように! だけど、ここには不幸がとりついているんだ。十日もしないうちに死がやって来る。貴方にも分かるはず」彼女は食堂の方に陰鬱な眼差しを投げかけながら彼に答えた。「誰が亡くなるのかしら?」

「引越しするのがいい」ウージェーヌがうんと声をひそめてゴリオ爺さんに言った。

「奥様」シルヴィが仰天して駆けつけて言った。「私が猫を見かけなくなって、これで三日になりますわ」

「あー! そう、あたしの猫が死んだら、猫がいなくなったら、あたしは……」

哀れな寡婦は終わりまで言わなかった。彼女は手を組み合わせて祈ろうとしたが、この恐ろしい予想に打ちのめされて肱掛椅子の背にのけぞって倒れこんだ。

Chapter 3 of 6
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