第五囘
お珍らしやお高さま今日の御入來は如何いふ風の吹まはしか一昨日のお稽古にも其前もお顏つひにお見せなさらずお師匠さまも皆さまも大抵でないお案じ日がな一日お噂して居ましたと嬉しげに出迎ふ稽古朋輩錦野はな子と呼ばれて醫學士の妹博愛仁慈の聞えたかき兄を見眞似か温順しづくり何某學校通學生中に萬緑叢中一點の紅と稱へられて根あがりの高髷に被布扮粧廿歳を越しての肩縫あげ可愛らしき人品なりお高さま御覽なされ老人なき家の埒のなさ兄は兄とて男の事家内のことはとんと棄物私一人が拍つも舞ふもほんに埃だらけで御座いますと笑ひて誘ふ座蒲團の上おかまひ遊ばすなと沈み聲にお高うやむやの胸の關所たれに打明けん相手もなし朋友の誰れ彼れ睦まじきもあれどそれは春秋の花紅葉對にしてす簪の造物ならねど當座の交際姿こそはやさしげなれ智慧宏大と聞くは此人すがりて見ばやとこれも稚氣さりながら姿に知れぬは人の心笑ひものにされなばそれも恥かし何とせんと思ふほど兄弟ある人羨ましくなりてお兄樣はおやさしいとかお前さま羨ましと口を洩るれば花子少し笑みを含んでこればかりは私の幸福さりとて喧嘩する時もあり無理な小言いはれまして腹立ち合ふこともあれど跡も無し先もなし海鼠のやうなと笑はれます此頃は施療に暇がなうて芝居も寄席もとんと御無沙汰その内にお誘ひ申します兄はお前さまをといひかけて笑ひ消す詞何としらねどお施しとはお情深い事さぞかし可哀さうのも御座いませうと思ふことあれば察しも深し花子煙草は嫌ひと聞しが傍の煙管とりあげて一服あわたゞしく押やりつそれはもうさま/″\ツイ二日計前のこと極貧の裏屋の者が難産に苦みまして兄の手術に母子とも安全ではありましたれど赤子に着せる物がないとか聞きませば平常の心に承知がならず其の夜通して針仕事着るもの二つ遣はしましたと得意顏の物語り徳は陰なるこそよけれとか聞しが怪しのことよと疑ふ胸に相談せばやの心は消えぬ花子さま/″\の患者の話に昨日往診し同朋町とやら若しやと聞けばつゆ違はぬ樣子なりそれほどまでにはよもやと思へど正しくならば何とせん實否くはしく聞きたしと思へど咎むる心に詞つまりて應答何やらうろうろになりぬお高さま御ゆるりなされ今兄も戻りまする先それよりはお目に懸けたきもの往日お話し申せし兄が祕藏の畫帖イエお前さまに御覽に入るゝに賞められこそすれ何として小言聞くことではなしお待遊ばせよと待遇ぶり詞滑かの人とて中々に歸しもせず枝に枝そふ物がたり花子いとゞ眞面目になりて斯う申してはをかしけれどお前さまはお一人子私とても兄ばかり女の同胞もちませねば淋しさは同じこと何かにつけて心細し御不足かは知らねど妹と思召してよと底にものある詞遣ひそれは私より願ふことゝいふ詞聞きも畢らずそれならばお話ありお聽き下さりますかと怪しの根問ひお高さまお前さまのお胸一つ伺へば譯のすむ事外でもなし實の姉さまにおなり下さらぬかと決然いはれて御串戯私こそ實の妹と思召してと言ふを遮りそれでは未だ御存じの無きならん父御さまと兄との中にお話し成立つてお前さまさへ御承知ならば明日にも眞實の姉樣お厭か/\お厭ならばお厭でよしと薄氣味わろき優しげの聲嘘か實か餘りといへば餘りのこと、亂るゝ心を流石に靜めて花子さま仰せまだ私には呑込めませぬお答へも何も追てのこと今日は先づお暇と立たんとするを強ても止めず然らばお歸りか好きお返事お待申しますと送り出す玄關先左樣ならばを跡になして乘り出す車の掛聲に走り退く一人の男あれは何方の藥取憐れの姿やと見返れば彼方よりも見返る顏オヽ芳さま詞の未だ轉び出でぬ間に車は轣轆として轍のあと遠く地に印されぬ。