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カストリ侯実録
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カストリ侯実録
久生十蘭
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Chapter 3 of 4

3

訴訟がグズグズ長びいているうちに七月のクウ・デタが起き、シャルル十世は英国へ蒙塵してブゥルボンの公然の敵だったオルレアン家のルイ・フィリップ一世が王位に登った。ルイ・フィリップは一八三三年の夏になってから、虫の好かないシャルル十世の長男の嫁をすこし貧乏にさせてやってもいいと思ったらしく、司法大臣にアングレーム公爵夫人に譲渡したルイ十六世の遺留分を返還させ、リシュモンには伯爵ぐらい授けて一時を糊塗してはどうかと相談をしかけた。

するとその年の九月十六日、もう一人のルイ十七世が巴里へやってきて、同じように王領地所有認証の訴願をした。それは現在北独逸のクロッセンに住んでいるルイ・シャルル・カストリ侯爵、独逸名をカアル・ウイルヘルム・ノオンドルフという時計職人で、自ら語るところによると、タンプルの脱出はこんな風にして行なわれたのだった。

一七九四年の一月十八日、つまりシモン夫婦が太子の専任看護人を辞任した日の夜の十二時頃、こっそり寝床からひきだされ、塔をつなぐ頂上の石畳の通路を通り、久しく無住のままになっていた北塔の四階へ移された。結局のところ太子は一度も暗牢へは入っていないのである。最初の第一日から暗牢へ入れられたのは、ジャヴェル(第十五区)に住んでいたシモンの先妻の子、ガブリエルという十歳の少年で、よく事情をいいきかせ、充分納得させた後、身代りにそこへ入れた。それはシモンの細君の全然知らないことで、七月二十七日、恐怖政治が終った日、タンプルへ訪ねてきたバラッス子爵に、「死にたい」といったのはその子供だったのである。

ルイ・シャルルはサンルウという使丁長と雑役ミシュウの庇護のもとに、西塔の四階で満二年の間、静かに暮していた。隔日にフィルマンという家庭教師がやって来、夜半、こっそり姉のいる西塔へ遊びに行くことも出来、不自由だがさほど不足もない生活をつづけた後、一七九六年の七月十四日、連盟祭の当日、遊びにきていた雑役の子供たちにまじってなんのこともなくフラリとタンプルを出てしまった。

この瓢逸な脱出を計画したのは、そのとき六十歳だった前海軍相シャルル・ド・カストリ侯爵だった。奇異な運命を辿った八七二人の皇帝の最後を調べあげた奇書、「皇帝の行方」という著述もある一風変った剛腹な老貴族だが、シモンが太子の専任監視人になると、硬貨百万法で買い落し、ル・サンルウと雑役のミシュウは、家作、牛舎付の農地二百アルパンと一万五千リーヴルの年収のある国庫証券で買い潰した。

使丁長と雑役は、生涯を安楽に暮すだけのものを貰い、あぶなくなったら身体一つで落ちて行くつもりで家族は貰った土地へ片付けておくという抜目のなさであったが、シモンの細君は細君でシモンを裏切り、かねて人知れず単独の活動をしていたらしく、シモンが断頭台に上った後、ジロンド党の議員七十二名が国会へ復帰した十二月八日の前夜、余命いくばくもない聾唖の浮浪児を身代りに置き、シモンの子供とも知らずにバスケットに入れて運びだした。その月の十九日、ミショウ、ラチュウ、ルベルションの三人の議員がタンプルを訪問して見た太子というのはこの子供だったのである。

太子はル・サンルウに連れられて英国へ行き、そこで侯爵と落ちあった。海賊の裔である長身の貴族は、房のような白い眉の下から猛々しい眼付で太子の顔を見据えながら、「やあ、ご機嫌よう。王様には懲りごりなすったでしょう。どんなことがあっても王様になろうなどと考えてはいけません。王様というのはどれほど不幸なものか、これから時間をかけてお教えしましょう。ときに私はあなたを時計屋へ見習いに住みこませようと思って居ります。生計を後援するに足るだけのものを残してあげたかったが、あの馬鹿げた塔からあなたをひきだすのに意外に金がかかって、差しあげられる金といえばこれが全部です」といって机の上へ一ルイドールの金貨を十枚置いた。

太子はカストリ侯爵の養嗣子になり、ロンドンにいる亡命貴族の幾人かを呼んで養子縁組披露のお祝いをしたが、誰一人それが太子だと気づくものはなかった。

太子はベンハム街の時計屋へ見習いに入ったが、一八〇一年に老侯が死んで、天涯孤独の身になった。フランスの貴族の国外逃避は、ルイ十六世がヴァランヌの逃走に失敗した直後にはじまり、その後もひきつづいて行なわれていたが、どの国でもあまり尊敬されず、スペインなどでは王家を見捨てた卑怯者だと、市中で刺殺されたものもあった。英国へ亡命した貴族はほとんどみな持金を使いはたし、ウエスト・エンドの細民街のひどいところに住み、衣食に窮して紐売やヴァイオリンの流し弾きをしているようなのさえあった。

太子は時計の渡職人になって、「唄にもうたえないような」ひどい貧乏をしながら英国を放浪しているうちに夢のように十五年の月日が経ってしまった。一八一四年に叔父のプロヴァンス伯がルイ十八世となって王位にのぼり、亡命貴族はみな手を額にして喜び勇んでフランスへ帰ったが、太子には帰るべき国がないのであった。叔父なるプロヴァンス伯は母后マリイ・アントアネットの敵で、バッツ男爵やジャルジャエーが太子の救出に失敗したのは、プロヴァンス伯が一々妨害したからだと後で老侯から聞いた。

ダントンは六十万磅くれるならルイ十六世を英国へ逃がそうと宰相のピットに内密の申入れをし、ピットにあっさり拒絶されたということだが、ルイ十八世なる叔父は、太子の首に十万法の賞金をかけ、国境の憲兵達は熊鷹のような眼で「カペエの似顔」を見張っているということである。もう一人の叔父、アルトア伯の長男は姉のマリイ・テレーズと結婚し、ノルマンディの土地収益の大部分を掠めとっている。叔母のアデライドは大革命災害報償令で返還されたナヴァールの太子領を横領して娘の持参金にふりかえ、ルイ十八世自身はフランス全体を五人の親族で分け取りしてしまった。フランスと叔父の一族にとって、ルイ・シャルルは要するに邪魔なやつなのであった。

太子は二十五歳ぐらいからだんだんルイ十六世に似てきて、即位時代に宮廷にいた古い貴族に逢ったら一と眼で素姓を見破られてしまう危険があり、英国はフランス人の往来がはげしいので、身を置くのに適当な場所ではなくなった。一八一六年二月、太子はリヴァプールから船でナポリへ行き、そこから南独逸へ入ったが、ウルテンベルヒ、バーデン、バヴァリヤなどの国境には、依然として、「浮浪人、亡命貴族の入国を禁ず」という立札があり、カストリ侯爵の身分証明書では宿屋に泊ることさえ出来ないので、救貧院で死にかけていたウイリアム・ノオンドルフという乞食から身分証明書を買い、ベルリンの近傍のスパンドオという町で小さな時計屋を開業し、三十五歳になってやっとのことで独逸の片隅で安住の地を見いだした。一八二二年(三十七歳)ヨハン・アイネルスという娘と結婚し、翌年、カールが生れた。

一八二五年、贋造紙幣行使の嫌疑で二年の刑を申渡されて獄へ入り、二十八年出獄。その土地にも居憎くなってフランクフルトの近くのクロッセンという町へ移った。以上がカストリ侯爵の昔語りだった。(ノオンドルフ・ド・カストリ自著「薄倖なる太子の生涯に対する摘要」ロンドン・一八三六年)

二人のルイ十七世の登場は、背景が巴里であるだけに大きな舞台になり、どちらも役者がいいので感興もまたひとしお。新聞社は競争で花を贈るので、巴里の話題はこの一事に焦げつき、どちらが本物かという評論でごったかえした。

ド・リシュモンのほうは相変らずたいへんな威勢だったが、ド・カストリのほうは従者も馬車もなく、フォーブゥル・聖タントアンヌ街の安ホテルに居をかまえ、身につけているものも雲泥の相違、畝織の手堅い長上着にはそれとなき布地のほつれが見え、襟飾もいくどか洗いざらして黄味がつき、貧苦の霜に傷んだしおたれた風姿だったが、いささかも恥ずるところも挑むようなところもなく、淡白で、高雅で、そのくせ驚くほど謙譲で、人の好意には心から感謝するといった王族の寛大な風を身につけていた。容貌も骨柄もそのままルイ・カペエの直写しで、ド・リシュモンにはあきたらなかった十六世時代の古い廷臣も、これこそルイ・シャルルなりとみな争って承認簿に署名した。

リシュモンのほうはごたごたと書類を持っていたが、ド・カストリのほうは出生証明書の写しを持っているだけであった。判事長がなにかほかに身分を証明するものはないかといったのにたいして、ド・カストリは、「フランスでは私の顔がよく知られています」と答えた。ド・リシュモンが身分の証明をするときは、かならず大きな身振りが入り、千言万句を流露させるのが常だったが、これはまた飽気ないほど慎ましい言いかたで、かえって強く心をうつなにものかがあった。

君が正当な権利を有するとするなら、王政復古の最初の年、すなわち一八一四年に請願すべきはずである。二十四年も経ってから請求権を行使するのはなぜかという訊問にたいして、ド・カストリは、

「私自身においては、即に過去の因縁となったものを取戻そうなどと一度も考えたことはなかった。しかしながら私は長らく貧苦の中に居り、齢もはや五十歳で、私の力では不幸の淵から這いあがることは覚束ないように思うから、伜を幸福にしてやる程度の遺留分、又は爵位維持のための限定世襲財産の中のほんの少々を」といった。

それくらいのことなら、訴訟に及ぶまでもなく、アングレーム公爵夫人と談合しては如何といったのにたいして、ド・カストリは、即に十年以来、度々救助を求めたが、ただの一度も返事さえ得ることが出来なかったものであると答えた。

ド・リシュモンとの対決では、カストリは二時間にわたる彼の罵詈讒謗を泰然と聞き流していたが、最後にたった一言いった。「シモンの伜、ガブリエルだな、お前は」

ド・リシュモンは対決で惨敗を喫した。役者がまずいのでいい幕切れにならなかった。窃盗罪で七年の刑を受けてミラノの監獄に居り、最近出獄したばかりだったという碌でもないことまで露見し、伊太利へ追い戻され、十二年の刑を受けて投獄されたが、ド・カストリのほうも巴里市検事局によって詐欺、国法紊乱の廉で起訴された。ド・カストリは「ルイ・シャルル、ノルマンディ公爵並にカストリ侯爵」という名刺をつくり、旧貴族と巴里名士の邸を戸別訪問をして助力を乞うたが、もう相手にするものもなかった。ジュウル・ファーブルという弁護士はルイ十七世の境界に惻隠の情を催し、無代で代訴人をひき受け、巴里王室控訴院に上訴して争っているうち、一八三六年、ド・カストリは永代追放の申渡しを受けて和蘭へ放逐された。ルイ十七世の血統には永劫フランスの土を踏ませぬというわけなのであった。

それからまた十年の年月が流れた。和蘭デルフトの小さな公園で日向のベンチのまわりに子供を集め、上手でもないヴァイオリンを奏いてダンスをさせて遊ばせている白髪の老人の姿を見かけるようになった。子供達にあの老人は誰かとたずねると、「むかし偉かった人。名前はない」と答えるのが常であった。

ルイ十七世のカストリ侯爵は一八四五年八月十日、六十歳でデルフトの救貧院で死んだ。墓碑には、「ルイ十七世、フランス王及びナヴァール王(シャルル・ルイ・ノルマンディ公)」と刻まれた。和蘭政府は死亡証明書に進んで「シャルル・ルイ・ブゥルボン、ノルマンディ公爵並にカストリ侯爵(ルイ十七世)」と記入し、その後、和蘭へ移ってきたルイ・シャルルの家族にブゥルボンの称号を用いることを認可した。リシュモンはその後間もなく脱獄して独逸へ逃げ、カストリが死んだ年から九年後の一八五三年、月も日も同じ八月十日にグライスというところで死んだ。アングレーム公爵夫人はその翌年巴里で死んだ。

弁護士ジュウル・ファーブルは一八五〇年、ルイ十七世の遺族のために、ナポレオン大統領に第二回目の請願をしたが却下され、一八七四年、マクマオンが大統領になったとき第三回目の請願をし、これも却下されると、その夜、マドレーヌ街の事務所で拳銃で頭蓋に孔をあけて憤死した。「巴里控訴院に於てジュウル・ファーブルが故シャルル・ギュイヨーム・ノオンドルフの相続者のためになしたる弁論」(フリイドリッヒ)は、この訴訟が如何なるものであったかをよく説明してくれる。

Chapter 3 of 4
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