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名古屋納屋町小島屋庄右衛門の身内に半田村の重吉という楫取がいた。尾張知多郡の百姓だったのが、好きで船乗りになり、水夫から帆係、それから水先頭と段々に仕上げ、二十歳前で楫場に立った。文化十年、重吉が二十四歳の秋、尾張藩の御廻米を運漕する千二百石積の督乗丸で江戸へ上ったが、船頭と五人の水夫が時疫にかかって陸に残り、重吉が仮船頭をうけたまわって名古屋まで船を返すことになった。
和船も千二百石積くらいになると相当な大船で、蝦夷あたりまで行くこともあるから、舷も頑丈な三枚棚(三重張)につくる。甲板の下は横墨と船梁で区切って、舳から順々に、表ノ間、胴ノ間、※ノ間、艫ノ間と四つの間に別れ、表ノ間は座敷ともいい、八畳間ぐらいの畳敷で船頭がいる。胴ノ間は荷倉、※ノ間は炊事場、楫場の下の艫ノ間は二間に仕切られて楫取と水夫の寝框がある。
重吉は船頭から尾張藩の御船印と浦賀奉行の御判物を受取り、伊豆生まれの水夫を五人雇い入れて半田村の藤介を楫取にひきあげ、水夫頭に庄兵衛、帆係一番に為吉、同じく二番に七兵衛を据え、賄の孫三郎、水夫、綱取、飯炊など合せて十四人、帰り荷の燈油二百樽、大豆二百俵を積み、十月の下旬に江戸を出帆した。
伊豆の子浦に寄り、十一月四日の夜、遠州の御前崎の沖あたりまで行くと、海面がにわかに光りを増し、海全体が大きな手で持ちあげられるように立ちあがったと思う間に、丑寅の強風が滝のような雨とともに火花を散らして吹きつけてきた。そのはげしさ目覚しさは、後にも先にもおぼえのないほどで、楫場にいた藤介が楫を離して藁屑のように吹き飛ばされてくる、十五になる飯炊の房次郎が炊桶を抱えたままキリキリ舞いをするというはなはだしさ。船中、総出になって「帆をおろせ」「楫を立てろ」と騒いでいるうちに、ひときわ高い返り波が潮しぶきを吹いてうちあげ、舷の垣根にいた綱取の要吉が、あッと言う間にさらいとられてしまった。
海に人が落ちたときは、箱でも板でも、その場にありあうものを投げこんで取りつかせて、船を戻してひきあげるのだが、探してもわからないときは、端舟を一隻捨てる風習になっている。そうなっては端舟も捨てたところで無駄なのだけれども、そうしておけば後で死んだものの親兄弟に言訳が立つ。しかしその時は墨を流したような闇夜のことではあり、船は疾風に乗って空を飛ぶかという異変の最中で、手の施しようなどとてもありようはなかった。
ようやくのことで帆はおろしたが、それでどうなるというのでもない。波と風とに翻弄されながら、闇黒の海の上を飄々と吹流されて行くうち、夜の八ツ時、伊良胡崎の燈台の火が見えた。この崎から伊勢の港湾までは五里足らずだから、「助けたまえ、お伊勢さま」とそのほうへ向いて拝んでいるとき、急に風が戌亥にまわった。いままで東北から吹いていた風が反対の西北に変ったので、波の余勢が風にあおられて山のような逆浪が立ち、海面いちめん煮釜が湯玉をあげるように沸きたつなかを船が後へ後へと戻りはじめた。せっかく伊勢の近くまで来て、後帰りするさえ迷惑なのに、帆柱にあたる風ばかりのため、五十里を二刻ほどで走り、翌五日の夜明けごろ、要吉が海へ落ちた御前崎の近くまで吹き戻されてしまった。
船乗は迷信深いものだから、つまらぬ気迷いを起さねばいいがと案じていると、果して伊豆柿崎の三郎助という水夫が、端舟を捨ててやらなかったので、要吉の怨みで船がひき戻されたのにちがいない、死んだものの思いのかかった端舟だから、この際、どうでも捨ててもらわねばならぬと、血相変えて強談にかかった。そこで重吉は、
「まァそれは待て。万一、風が変って南へ流されるようなことにでもなれば、その辺にあるのはみな切立った岩山の島ばかりだ。水主水夫といっても、犬掻き泳ぎもできないのが大概だから、端舟がないと、島にとりつくこともできない。端舟一隻のあるなしが、生き死にの分れ目。要吉の思いを晴らしてやるのもいいが、なんといっても、生きている十三人の命のほうが大切。早まったことをすると、あとで後悔の臍を噛むようなことができる」
と説いて聞かせたが、三郎助は両手で耳をふさいで受けつけようともしない。もともと伊豆者と尾張者は気性が合わないところへ、尾張方は一向宗、伊豆方は日蓮宗で宗旨までちがう。こじれだしたらおさめようのないことを知っているので、ずいぶん下手に出てなだめたが、どうしてもきかない。
「田子村の、柿崎の、それから丑蔵も福松も、いま船頭の言うたをなんと聞いた。われらはどうせ淦水汲みだから、海に落ちて死ぬことは厭わないが、端舟を捨てて、懇ろに弔ってくれると思えばこそ諦めもする。船頭がこういう了見では、この先、海へ落ちても見捨てられるにきまった。おぬしらどう思うか。それでもいいのか、情けないとは思わないのか」
と胴ノ間に胡坐をかいて、精一杯に怒鳴りたてた。伊豆組は三郎助のぐるりにかたまり、重吉に白眼をくれながら、
「三郎助ぬしのいうとおり、こんな薄情な扱いをされては、情けなくて働かれない。端舟を捨てればよし、さもなければ言うことは聞かぬ」
とガヤガヤしだした。
重吉は横を向いて聞かないふりをしていたが、思いがけないあらしで気先が弱ったのか、海上の便宜をわきまえている水先頭や帆係までが、いっしょになって管を巻くようになった。こういう大時化のときは、さなきだに気を揃えて働かねば乗切れぬというのに、みなの心が離れ離れになっては、助かる船も助からないことになる。掛替えのない端舟だが、言うようにしてやるほかはなかろう。先のことは先のこと、なるようにしかならぬものだ、と思いきって端舟を捨てることにした。
伊豆方の水夫は苫の下から端舟を運びだし、
「要吉ぬし、端舟をやるから受取ってくれえよ」
諸声に法華経をとなえながら海に投げる。こういう時化では端舟などは木ッ端にもあたらない。いちど逆打ちをうっただけで飽気なく沈んでしまう。水夫どもはこれが大難のはじまりになるとも知らず、要吉が喜んで端舟を持って行ったなどと、口々に噺しているのはいかにも愚かな成行であった。
そのうちには雨はやんだが、風はいよいよ吹きつのる。伊豆の子浦の地方の見えるあたりまで行ったところで、舵を壊され、船が横倒しになって山のような浪がうちこむ。これはというので、総出になって荷打(積荷を海へ捨てること)をしたが、それでも及ばないから、帆柱を切倒しにかかった。
帆柱を倒すのはむずかしいもので、倒そうと思う方(風下の方)はすこし下、風のほうはすこし上の方を、目の高さほどのところへ、同時に双方から斧を入れるのが心得になっている。舷に帆布や蒲団のような柔かなものをかい、帆柱がフワリと跳ねかえって海へ落ちるように仕掛け、さあいま倒れるというとき、すばやく控綱を切る。これが遅れると、ハンドウにひかれて帆柱が縦に倒れて舳を割ることがある。言うのはやすいが、天地を覆えすような大時化の中でやることだから、斧を持って転げまわるばかりで思うようなこともできない。朝の五ツ時にかかって、八ツ時にようやく切り倒し、地方の見えるところで麾をあげる。菰と笠を棹の先につけて舳に立て、流れ舟だから助け舟を出してくれというこれが合図。千二百石積の流れ船はあまりないことだから、村方でもなんとかして助け舟を出そうと、岸波の寄せてはかえす荒磯を、蓑笠着た人々が走りまわっているのが見えたが、そのうちに岩角の高いところへ上って詫火を焚きだした。われわれの力ではとても助け舟を出されない。どうぞ運よくよその島で助けてもらってくれろというわけ。ここで見捨てられては最後だから、こちらは必死にマネキを振る。村方ではさかんに火を燃す。あの端舟さえ捨てなかったらと、今になって歎くのも愚痴。みすみす手の届くところに地方を見ながら、端舟がないばかりに漕ぎつけることもできない。いまはもう舵もなく、帆柱もなく、浪風に弄ばれるままに、一町、一町、岸から遠ざかる。日も暮れ、その日の宵五ツ時、伊豆の利島と新島の間を通った。この間はわずか十七、八町ばかりなので、太い苧綱を三本つなぎ、三百尋ほどにして碇をおろしてみたが、底が深くて届かない。船は碇をひきずったまま流れて行く。六日の朝、三宅島が見えたので、大急ぎでまた麾を上げたがどうにもならない。情けない情けないといっているうちに、三宅島も波の下に沈んでしまった。
七日になっても風がやまない。船底に水が入り、梁まで届くようになった。水鉄砲を仕掛けて二人で横木を踏み、小口の樋から淦水を掻いださせたが、いちど浪がうちこむと、一刻の骨折ももとの杢阿弥になってしまう。水夫どもはいっこうに腑甲斐なく、桃尻になってうそうそと胴ノ間にしゃがんでいて、大浪が来ると大声をあげて艫ノ間へ逃げこみ、寝框に突ッ伏して念仏をとなえるという埓のなさであった。
八日の朝、西北の方角におぼろな島影を見たのが最後で、それからはどちらを眺めても八重汐の海の色ばかり。賄の孫三郎は、心細がって、その日、髪をおろして出家になった。
十一日の夕方から風が落ちかけ、十二日の朝、九日目でやっと凪になった。見るかぎりの大海原だが、行きちがう船もないではなかろう、昼は見張を立て、夜は灯影を絶さぬように申しあわせ、形ばかりの舵と帆柱をこしらえにかかった。これから先は八丈島だけが頼みだから、心願をこめて神をとってみると、八丈島はとっくに通り越し、いまいるところは島の南二百里の海上と出た。
誰も口にだしてはいわないが、このぶんでは容易なことでは帰れぬと覚悟をきめたらしく、まず賄の孫三郎が有米をしらべさせてもらいたいといいだした。積荷の大豆は二百俵もあるが、帰りの船のことだから、食い米は五斗俵で六俵しかない。みなの意見で一俵だけはなにかの用意に囲い、五俵を十三人に割当て、そのうえのことに豆を粉にして主な食料にあてる。月のはじめに大雨に逢ったきり、その後、いっこうに雨気がない。飲み水が不足するのはわかっているから、海水をランビキ(蒸溜)し、その水を等分に分けて飲むことにきめ、十一月いっぱいはそんな風にして暮した。
十二月のはじめから急に暑気が強くなった。暦では寒のさなかだというのに焙られるような暑さで、日中は甲板へ出ることもできない。のみならず、凪ぎだとはいえそこは大海のことで、大波も来ればこれはと胆を冷すような風も吹く。そのたびに念仏を唱えて騒ぎたてるものだから、気力の弱いものはうろたえ疲れ、暑気と心労でほとほとに弱りこんでしまった。なかでも十六歳にもならぬ飯炊の房次郎と年寄の庄兵衛は、浪の色を見るのさえ物憂くなったのか、寝框にひっこんだきり、なにがあっても出てこぬようになった。伊豆組の三郎助、福松、田子村の丑蔵、音七、亀崎の半兵衛の五人は、益もない繰言のあげくは争論になり、海が荒れだすと、あわてて念仏をとなえ、凪ぎるとまたぞろ愚痴、
「おゝおゝ、国元ではどんなに案じていることだろう。此処かしこと聞きたずねても行方が知れぬから、もしや八丈島にでも居はせぬかと、八十八夜の八丈島の上り船をあてにして、首も細るほど待っているのだろうに」
丑蔵がいうと福松は首を振って、
「いや、そうではあるまい。当座の間は、好い夢を見たといってはうれしがり、悪い烏鳴きを聞いたといっては覚束ながり、神やら仏やら、あれこれと祈りまわるのであろうが、そのうちにはあきらめて空葬式をだし、一本華に仏の飯を供え、子供らを仏壇の前に坐らせ、よう拝むのぞ、父さんはあそこにござるなどというのだろう。あゝ、帰りたい、帰りたい。皆の顔が見たい」
すると音七という二十四になるのが、
「おぬしらは、そうして恋しい恋しいと思うばかりなのか。おれのほうはそれどころのことか。出がけに銭を五百ばかり置いてきただけだから、それが心にかかってならぬ。国を出てから、これでもう三月。今ごろは食うあてもなくなり、人の門に立って、どうぞや、お余りでもと、物乞いをしているのだろう。それを思うと、胸が張り裂けるようだ。あゝ、切ない切ない」といって泣く。
重吉もまだ二十四で、帰りたい気持はおなじだが、浪風の苦だけでもたくさんなのに、故郷を思い、親や妻子のことを案じて泣いてばかりいては、そのうちに病いついてしまうだろう。せっかくどこかの島へ漂い着いても、病気になって死ぬのではつまらない話だと思い、