女の出発
「たいそう暗いが、キヌさん、もう何時ごろかのう?」
「まあだ、三時にはなりゃあすまいね」
「やれやれ、この谷は一日がよその半分しかないよ。仕事も半分しか、でけやせん」
「その代り、夜がよその倍あるわ」
「倍あったって、電燈はつきゃせんし、油は高いし、寝るしか用がない。この村の者がどんどん都に出て行くわけがわかるよ。遠いところに行く者は、ハワイやブラジルまでも行っとる。成功しとる者もたくさんある。その成功した者は、もう二度とこんな草深い田舎には、かえって来やせん。かえらんのがほんとよな」
「マンさん、あんたもどうやら、出心がついたようにあるねえ。兄さんの林助さんは、関門の方に行ってなさるということだが、元気にして居りんさるかね」
「はい、門司で、沖の仕事をして、儲けだしとるとかで、わたしに、出て来んか、って、なんべんも手紙をくれなさる」
「だけど、たいがいなら、港なんどというところには出んがええよ。人気が荒うて、若い娘はモミクチャにされるというけえ。……マンさん、もう、煙草葉のばすこと、やめんさい。帰ろうや」
「お父っあんが、楽しみに待ってなさるけえ」
「親孝行もんよ。おふくろも安心でがんひょう。でも、その煙草葉、大丈夫なのけえ?」
「大丈夫とも」
深い谷の底である。四方の山がきりたっているので、この部落には、朝の光線がさすのはおそく、日の暮れるのは早い。まして、日の短い秋であるから、まだ三時というのに、もう黄昏のようだ。部落の名は、広島県比婆郡峯田村字峯。
はげしいせせらぎの音をたてる谷川の岸で、二人の若い村の娘が話をしている。健康そうなのは共通しているが、マンの方は丸顔の小柄、キヌの方は長顔で、おそろしく背が高い。
粗末な木綿着のマンは、川岸にある二段歩ほどの煙草畠にしゃがみ、しきりに落ちた古葉をさがして重ねる。ていねいに、皺をのばす。なれた手つきである。
野良着で、手に鎌を持っているキヌの方はススキの林のなかに、あおむけにひっくりかえって、
「やあれ、もう、狐さんたちが鳴き騒いどらあ」
と、のんきたらしく独りごとをいいながら、無意味に、バサッ、バサッと、ススキをたたき切っている。
深い山には、狐、狸、兎、猿、などがたくさん居り、ときどき、猪があらわれることがあった。昔から現在にかけて、狐に化かされた話は数えきれない。谷川には河童がいるという。河童と角力をとったという老人が、自分の実見談を、炉辺で、まじめな顔して話す。
マンは、煙草好きの父のために、一枚でも余計に葉をひろうつもりである。においの強い、黄色い枯葉が、笊のなかにたまる。
すると、寝ころがっていたキヌが、突然、くるりと起きあがった。なにかを見つけたらしい。
「マンさん、大事、鬼が来たよ。早よ、隠れんさい」
切迫した語調で、叫んだ。
おどろいたマンも、狼狽したが、おそかった。
「こらあ、逃げることならんぞう」
と、太い声が、山の道からひびいて来た。
観音堂のある山道の曲り角にあらわれた一人の大男が、大股でバネ仕掛のようにとびながら、かけ降って来た。黒い中折帽をかぶり、黒い詰襟服で、これも黒の皮カバンを右手にぶらさげている。顔いろも、日やけと酒やけで赤黒く、ちょび髭が木炭をくっつけたようだ。
「とうとう、見つけられたなあ。ええかげんで、早よ、やめんもんじゃけえ」
キヌは、もう、青くなっている。
「かまうもんか」
観念したとみえて、マンは、煙草畠のなかに立ちあがって、男の近づいて来るのを待った。煙草の葉を入れた笊だけは、畠のくぼみに隠した。
「逃げるんでないぞう。逃げたってわかるぞう」
男は、まだ、そんなことを叫びながら、谷川の岸に来ると、朽ちかけた丸木橋を、あぶなっかしい足どりで渡った。二人のところにやって来た。
「こんなことだろうと思うた。お前、谷口の娘ッ子だな?」
「はい」
「盗んだ葉を出しなさい」
「盗みはしません」
「ちゃんと見とったんだ。そこの笊を出しなさい」
マンはあきらめて、黙って、くぼみから笊をとりだした。
「ほうら、こんなに盗んどる」
「盗んだんじゃありません。落ちていたのを拾うたとです」
「こんなに葉が落ちるわけがあるか。どうもこの辺の奴はたちが悪い。政府を馬鹿にしとる。今度は許さん。処罰してやる。……おい、そっちの娘ッ子、お前もいっしょにやったのとちがうか」
「とんでもない。わたしは草刈りに行った帰りに、通りかかっただけです」
「怪しいな。ま、ええわ。共謀としてひっくくるところだが、特別にこらえてやる。帰れ」
キヌは、籠を背に負うと、一散に走り去った。
「谷口の、わしについて来なさい。お前のお父うに逢うて、ようと調べたうえで、罰金申しつけてやる」
「お役人さん、そればっかりは堪忍して……」
「ならん」
「ほんとに、盗んだとじゃないけえ」
「やかまし、行け」
男にはげしく肩をつかれて、マンはしかたなく先に立った。
黒服の男は専売局の役人である。煙草が専売制になると、厳重な規則ができた。この部落でも作っている家が多いが、段に何本と定められ、それは専売局の原簿に記帳される。種は専売局からもらい、葉の数は精密に調査されて、一枚も私することはできない。ただ、葉の上、中、下とそれぞれ味がちがい、役にたたぬ部分もあり、その落ちた何枚かを自家用に吸うことだけが、大目に見られていた。
山峡の底は日没が早く、二人が歩いてゆくうちに暗くなる。点々とある家に、ランプがともる。ツクツク法師と狐とが鳴いている。
淵になった谷川の横に、水車小屋があった。水車がゆるく廻っている。そこまで来ると、役人は立ちどまった。あたりを見まわしながら、
「ちょっとお待ち」
「なんぞ……?」
「話したいことがある。そこの水車小屋に入んなさい」
マンは、ちらと水車小屋に視線を投げたが、その切れのながい、大きな眼に、不安のいろが浮かんだ。
「話なら、ここで聞きます」
「ちょっと、お前の持っとる煙草葉の数を読みたいんだが、外では風で飛ぶ。たいそう風が出て来た。小屋の中なら飛ぶ心配はない。さあ、入んなさい」
そういうと、役人はがたぴしと水車小屋の一枚戸をひきあけて、さっさと、先に入った。中から、マンをうながした。
マンも、しかたなく、おずおずと、小屋に入った。
暗い。鎧窓からさすかすかな光線で、三坪ほどの小屋の一隅に、土間に半分埋められた木臼が、三つならんでいるのがわかる。その中に、籾が入れられ、水車の廻転によって動く三つの杵が、それをおそい速度で、ドッス、ドッスと搗いている。たえ間なく、水の音がしている。小屋の中は、へんにかびくさい。
「煙草の葉を見せてごらん」
役人は、やさしい声でいった。態度がまるで変っている。帽子から、服、カバン、靴、顔にいたるまで黒い大男が、急に、猫なで声を出すので、マンは一層気味がわるくなった。無言で、笊をさしだした。
役人は、葉を一枚々々とりだして、手でもんだり、においをかいでみたりしながら、
「ずいぶん念入りに取ったものだなあ。お前は、わるい女のようではないが、どうして、政府の物を盗むようなことをするかね?」
「お父っあんが、煙草がしんから好きなもんですけえ……」
「なんぼ親孝行でも、法は法、可哀そうでも、罰金をかけにゃあなるまいなあ」
「お役人さん、もうしませんけ、どうぞ、堪忍して……」
「さあねえ」
思わせぶりに、役人は、じろりと、マンを見た。この、「鬼」という綽名をつけられている専売局の駐在員は、さっきから、マンの後から歩いてゆくうちに、下等な慾情をそそられた模様である。こりこりとひきしまった若い女の身体つき、腰や尻の弾力に富んだ動き、藁草履をはいた白い素足、ほつれ毛のたれかかっている小麦色の首すじ――この、眼前にある新鮮な熟れた果実を、とって食べたくなったものにちがいない。
「谷口の、罰金はいやかね?」
と、舌なめずりする口調で、マンの方に寄って来た。三角眼が淫らに光っている。
「はい、いやです」
「とりやめにしてあげようかね?」
「お願いします」
「じゃが、タダというわけにはいかんなあ。あんたもこれだけのことをしといて、タダですむとは、まさか思うて居らんだろう?」
「どうしたら、よろしゅう、がんひょうか?」
「そうじゃなあ、一番簡単なことですますとするかね。……な、それで、よかろ?」
マンも、男の考えていることが、やっとわかった。飛びすざった。
「それは、いやです」
「いや? へえエ、ええことしたうえに、罪を帳消しにしてもらうのがいや? もう、処女でもあるまいに。みんな、そうするんじゃがなあ。それが、利口だよ」
そういううちにも、黒い大男の身体が、小柄なマンを、風呂敷につつむように、からんで来た。マンははげしく抵抗したが、強い男の腕力に抱きすくめられた。まったく身うごきができなくなった。
ドブロクくさい男の息が、顔に近づいて来た。マンは土間にあおむけに転がされ、恐しい力でおさえつけられた。
前に、一度、マンはこれと同じ目にあったことがある。
この夏の盆踊りの晩であった。草深い山峡の部落では、盂蘭盆会は、若い男女が思いきり羽をのばす唯一の祭である。盆踊りは、柿ノ坂という、養蚕のさかんなことで有名な部落の仲蔵寺で行われる。谷口家先祖代々の墓も、この寺にあった。
父善助は、子供たちをこの寺につれて来て、祖先の墓の前に立たせ、昔ばなしをするのが好きだった。もう時代のほどもわからぬ古びた墓石は、原形をとどめぬほど、方々がかけている。文字もよく読めない。しかし、善助は、
「ほうれ、この紋を見れ」
といって、墓石の上部を、節くれだった指で示してみせる。
「なんにも、ありゃせん」
子供たちがそういうと、善助は得意になって、語りだす。
「お前たちにはわからんでも、お父っあんには、ありありとみえる。これはな、平家さんの御紋じゃ。源平合戦で敗れた平家さんの落武者は、源氏の追討が、えッときびしいもんじゃけえ、日本国中の山奥に逃げこんだんじゃが、このあたりにも来なさったんじゃ。今はこれだけでも開けたが、わしの小さいころは、この谷は昼間でもお化けの出るようなところでな、平家さんの残党が永いこと隠れて住んどった。国勢調査のとき、はじめてそれがわかってな、なんでも、まだ、チョン髷結うた、奇妙なサムライが山奥に居るちゅうんで、官員さんが調べに行ったらな、刀さしたのが出て来て――もう、源氏は亡びたか、と、きいたというわい。谷口家も、平家さんの一門じゃ。根ッからの土ン百姓とはちがうぞう」
マンは、先祖が平家であろうがなかろうが、格別、なんとも思わなかった。父の自慢するのがおかしかった。どうかすると、そのことに父の衰えを感じて悲しかった。
ところが、このことは村では由緒めかして取り沙汰され、村長の家から、二男というのに、ぜひマンをくれと縁談の申しこみがあった。二男坊は大学を出たということだったが、マンは、高慢ちきで、鼻眼鏡をかけたこの男を好かなかった。いく度、強硬に督促されても、拒絶した。すると、盆踊りの夜、この男から、寺の裏の杉林にひきこまれ、おさえつけられたのである。青白い顔なのに、恐しい力だった。すんでのところに、提灯をつけて、誰かが通りかかり、あやうく難をのがれることができた。
家に帰って、このことを父に報告すると、善助は、「馬鹿たれが。そんなことはこれからもある。よう覚えとけ」と、女の護身法を教えてくれた。
専売局の「鬼」に組みしかれたマンの頭に、ぱっと、そのときの父の言葉が浮かんだ。マンは、もう夢中だった。しかし、声は立てなかった。歯を食いしばり、眼だけを怒りに燃やした。男の股間にさしこまれたマンの右手に、あるかぎりの力がこめられた。異様な叫び声を発した男の顔色が、スウッと大根葉色に変った。はげしい痙攣をおこすと、「鬼」はぐったりとなって、そこへ倒れた。
マンは、はね起きた。飛びすざった。顔が熱く火照り、動悸がはげしく打つ。肩で大きく息をしながら、見ると、暗い土間に、松の大木をころがしたように、男は横たわっている。動かない。
そっと、近よった。眼がひきつり、乱杭歯をむきだしにして、唇の部厚な口が、ポカッと開いている。狸のようである。マンは、耳を男の胸にくっつけてみた。それから、そこらに散乱している煙草の葉をかきあつめ、笊に入れた。それを持って、水車小屋を出た。
井戸の底から見あげるような空に、うす赤い夕焼雲がただよい、一羽の鳶が悠々と舞っている。あたりには、家もなく、人影もない。キョーン、と一声、遠くに、狐の声が聞えた。
マンは、水車のところに来た。笊を置き、水車をまわしている瀬の岸にしゃがんだ。落ちて来る谷川の流れで、手を洗った。それから、水を両手ですくい、ごくごくと飲んだ。咽喉がひどくかわいていた。澄んだ冷たい水が、食道から胃袋へ通ってゆくのがわかり、
「ああ、おいしい」
と、思わず、声が出た。
かすかな黄昏の光のなかで、マンは、すぐ眼のまえの流れに一匹の鮠のいるのを認めた。水はかなりはげしく流れているのに、小さな魚は流れにさからって、間断なく鰭をうごかしながら、ほとんど停止している。すこしずつ、進む。それを見ると、マンはしいんとした気持になり、すこし落ちついた。
マンは、もう一度、両手で水をすくい、それを口一杯にふくんで、立ちあがった。小走りに、また、小屋の中に入った。
倒れている役人のところに行き、顔を目がけて、プウッ、プウッと、二度に、水をふきかけた。すると、男の顔がびくついて、開いていた口がふさがり、ウウン……と、くぐもった呻き声が、咽喉の奥底から起った。役人が動きだす気配を知って、マンは表に飛びだした。水車のところに置いた笊をとると、一散に、走った。
恐しいのか、悲しいのか、腹だたしいのか、それとも、うれしいのか、わからず、彼女は、ただ、早く家に帰りたかった。谷川に沿った小径を、わき目もふらず急いだ。稔った稲穂のうえを、しだいに強くなった風がわたって行くと、湖のようである。また、キョーンと、するどい狐の一声が、今度はすぐ耳の間近でひびいた。
いくつも坂を越えた。やっと、前方にわが家が見えて来た。ランプの下で、ワラジを編んでいる母の静かな姿が眼に入って、マンは、突然、ぐっと胸がこみあげてきた。大声をあげて泣きだしたい衝動を、やっと、唇をかんでこらえた。涙があふれ出て来て、前方のランプの光がゆらゆらと流れた。
このとき、背後で、馬の蹄の音がした。
「マン坊」
と、声をかけられた。
ふりかえると、馬に乗った一人の筒袖姿の青年が、ススキの深い曲り道から、姿をあらわした。
「時やんけえ、びっくりしたあ」
「びっくりするこたあ、なあじゃろ。狐じゃあるまあし。……ほれ、郵便じゃよ」
「どこからな?」
「門司の林助兄さんからと、……こっちの方は、専売局じゃ」
「専売局?」
マンは、どきっとした。
大川時次郎は郵便配達夫である。柿ノ坂の郵便局まで来る郵便物を、彼は馬に乗って、部落々々に配達して廻る。ときには、書留や小包などの大切な物も扱うので、信用の置ける者にしか委せられない。時次郎は、その点では村中での模範青年といってよかった。さらに、雨、風、雪、嵐のときにも、配達を休むわけにはいかないので、身体の頑健な者でないと勤まらない。その点でも、草角力の横綱である時次郎は、最適任者であった。
「おやあ」と、馬上から、時次郎は、マンの顔をのぞきこむようにして、「マン坊、泣いたのとちがうか」
「うんにゃ、泣きはせん」
「それでも、一杯、涙がたまっとる。マン坊の泣き虫は珍しゅうはなあが、また、村長の二男坊から、いじめられたとみえるなあ」
「誰が、あんな、鼻眼鏡……」
「マン坊の方はそんな気でも、まあだ、敬やんはあんたのこと、あきらめんというぞ。根が狡ン坊のうえに、大学出の智慧者じゃけえ、惚れたがメッチャラで、なにを企らむか知れん。気をつけんさいや」
「なんでやって来ても、負けやせんよ」
「そんなら、ええが……」
ひろい縁の麦藁帽の下から、きりッとしまった面長の顔が、なにかの思いをこめて、マンを見る。すこし鈍くはあるが、眼には意志的な光があり、黒く太い眉がたくましい。
マンは、時次郎の瞳にただよっている、その思いというのが、なにか、よく知っている。そして、マンの方も、時次郎にたいして、或る気持を抱いていた。
「マン坊、今夜、閑けえ?」
「うウン、今夜は、ちょっとばかし、用がある」
用はなかったけれども、水車小屋での事件が、どんな結果を生むか、閑であるとはとてもいえなかった。それどころか、マンは、今にも息をふきかえした「鬼」が、跡を追って来るにちがいないと、びくびくしているのである。
「そうか、閑なら、今夜遊びに行って、ゆるゆる話したいことがあったんじゃがなあ。……明日の晩は?」
「それも、わからんわ」
「たいそう忙しいんじゃなあ。いつか、おれのために、閑をつくってくれんさいや」
「そのうちにね」
時次郎は、つれないマンの態度に、あきらかに、失望のいろをあらわしたが、それでも、にこにこ顔をつくって、
「そんなら、また」
と、愛馬の頭をめぐらした。上背のある、たくましい栗毛の四歳馬である。
「時やん」
と、マンは、急に、すこし狼狽した顔で、呼びとめた。
「あン?」
「あんた、七瀬の水車のところを通って、帰りんさるかね?」
「そうよ。あの道しかないけえ。それが、どうかしたな?」
「どうも、しやせん」
マンは、くるりと廻ると、飛びあがるようにして、家の方に走った。
家の下の崖まで来て、足音を殺した。斜になった石段を、そっと登った。母にさとられぬよう、裏手の牛小屋の方に廻った。
すると、どこにいたのか、愛犬のシュンが、暗闇のなかから飛びだして来た。はげしく尾をふり、クウン、クウンと鼻を鳴らして、まつわりつく。
「シイッ、シッ」
びっくりして、追ったけれども、シュンは逃げない。昼間からずっと、一番可愛がってくれる主を見なかったので、よっぽどうれしかったらしい。煙草葉を入れた笊を落しそうになるほど、騒々しく飛びかかって、じゃれる。
その気配に、
「おマンけえ?」
ランプの下から、母イワが、ワラジ編む手を休めて、表の暗がりをすかして見た。
「はい」
と、しかたなく、答えた。
「お父っあんには、逢わなんだけえ?」
「いンね」
「山に居ったんじゃあ、なあのけえ?」
「煙草畠に行っとりました」
「やンれ、やンれ、お父っあんは、炭焼小屋じゃろうというて、山の方に、お前を迎えに行きんさったんじゃが。今日は、朝っぱらから、たいそう、狐どんが鳴きよるけえ、おマンが化かされたらいけん、というて……」
「すみません」
マンは、牛小屋に行った。犬も、ついて来た。牛は、もう、マンの足音を知って、小屋の板壁を角でつき、足踏みをはじめた。去年生まれた小牛と二匹、親子ともよく彼女になついている。ブルルルと鼻を鳴らす。歓迎の啼き声を出す。
牛小屋に入ると、マンは、棚のうえのランプに、火を点じた。飼料桶に、藁を入れてやった。牛は親子で、早速、それを食べはじめる。
マンは、牛小屋の戸をしめ、ふところから、二通の封書をとりだした。耳をすまし、誰も来る気配のないのをたしかめてから、兄林助の手紙から先に、封を切った。
小学校三年を中途でやめた兄の手紙は、片仮名で、ところどころに入っている漢字は、全部、嘘字である。しかし、意味はわかる。
「――関門海峡ニハ、タクサンノ外国船ガ入ッテクルコトトナッテ、沖ノ仕事モ増スバカリトナッテ、組デハ、若クテヨイ働キ手ヲサガシテオル。オ前ガ出テクルノヲ待ツ。ソンナ山オクデ、一生ヲ終ルナンテ、馬鹿クサイト思ワンカ。思イキッテ、出テ来ンサイ」
それから、いつでも、自分の親方の浜尾組で、部屋仲仕として引きとること、住居、賃銀、門司の港と町の賑わい、都会の面白さ、などが、たどたどしい、しかし、心をときめかさずには居られないような書きかたで、こまごまと、記されてあった。
マンは、二通目の封書を開いた。専売局のも片仮名文であったが、嘘字はなく、これはいかめしく印刷してあった。
「冠省、先般ヨリ申請中ノ願書、詮衡ノ結果、今回、谷口マン儀、煙草女工資格者ト決定セルニ付、採用ノ旨、通告ス」
マンは、二つの手紙を、何度も読みくらべながら、いくらか狂気じみた、夢みる瞳になって、牛小屋の中に立ちつくした。
(どうしたら、よかろうか?)
マンは、迷う。
村でも、専売局の煙草女工になりたい希望者は多い。ひょっとしたら、村娘にとっての、唯一最大のあこがれかも知れない。しかし、資格に面倒な条件がたくさんあって、なかなか採用にならない。その金的を、マンは射とめたわけである。普通なら、飛びあがってよろこぶところだ。
ところが、マンの顔は当惑したように、眉がよせられている。
――都会。
――港。
――自由の世界。
――ブラジル。
せせこましい谷底の故郷から、ひろびろとした天地へ出たい。青春の血を騒がせる漂泊と放浪の思いは、すでに、早くから、絶ちがたい情熱となって、マンの胸に燃えている。どこに行っても、鼻先のつかえる狭い山奥、田や畠をつくっても、五段歩とつづけられる土地がない。母の兄、マンには伯父に当る人が、ブラジル移民で成功し、大農園を経営している。そこには眼のとどかぬところまで続いた農場があり、四季を通じて、自由な耕作ができるという。マンの空想は、はるかに海を越えて、ブラジルの天地にまで飛ぶ。
――まず、門司港にいる兄林助を頼って行き、そこで足場をこしらえて、ブラジルへ。
これが、マンの憧憬の構図であった。
大川時次郎の顔が浮かぶ。郵便局に勤めているこの青年を、マンも好きだ。村一番の男と思う。時やんも、マンを嫁にしたがっている。しかし、時やんは一人息子であり、大川家を継いで、生涯をこの部落で終らねばならぬ。時やん自身も、引っこみ思案のところがあって、村を出る積極的な気持はない。彼の最後の理想は、柿ノ坂の郵便局長になることにあるらしい。
(そんなのは、いやだ)
と、マンは、思う。
表で、足音がした。牛小屋の前に来てとまった。
「マン坊けえ?」
父善助の声だった。
「はい」
と答えて、あわてて、兄林助の手紙の方を、ふところに隠した。
小屋の戸を開けた。マンより先に、犬が飛びだした。背に薪を負い、手に鎌を持った長身の父が立っている。
「なんじゃい、戸をしめこんでしもうて……」
「お父っあん、これ」
マンは、専売局からの封筒をわたした。ランプの明かりでそれを読む、善助の日やけした顔に、みるみる、狂喜にちかい表情が浮かびあがって来た。
「やンれ、よかったのう。万歳、万歳」
そういって、両手で、万歳の恰好をし、どんと、娘の肩をたたいた。
「おマン、お前も、うれしいじゃろうのう?」
「はい」
そう答えなければ、しかたがなかった。
囲炉裏端で、一家、にぎやかな夕食がはじまった。善助、イワ、長兄倉助、その嫁ミキ、その子の三歳になる松男、弟牛三、それに、マンの七人。マンの採用のお祝いといって、善助は芋焼酎の燗をつけたが、ふと、思いだしたように、
「専売局といやあ、あの駐在所の鬼が、七瀬の水車小屋でなあ……」と、話しだした。
マンは、胸のなかで、心臓が一廻転したような気がした。かあッと、顔が燃えた。眼を皿にして、父の顔を見た。
善助は、上きげんで、焼酎の徳利から、独酌をしながら、
「……なんでも、とうとう、狐に化かされたらしいぞ。あの鬼奴、いつも、威張りくさっとった。――この谷の者はみんな間抜けの阿呆たれじゃ。この文明の世の中に、狐が人間を化かすなんて、そんな馬鹿げたことがあるか。おれの方が狐を化かしてみせる。……なんて、いうてな。それが、今度は、狐どんからやられたんじゃ。罰よ」
「そりゃあ、ええ気味じゃが、どがあな風に、化かされんさったとな?」
これも、茶碗で焼酎をかたむけ、もう赤くなっている倉助が、きく。
「わしも聞いたことで、ようは知らんけどな、高門の武十旦那の話によると、こうじゃ。――旦那が七瀬の水車の横を通りかかんさった。そしたら、小屋の中から、ウンウン呻る声がして、なんか、入口から這いだして来た。旦那はびっくりしたらしいけんど、胆の太い人じゃけ、提灯をさしだして、照らして見んさった」
「それが、専売局じゃったとけえ?」
と、母イワが、身体を乗りだす。
「そうよ。どがあしたわけか知らんが、腑抜けのようになってな、旦那が声をかけても、返事もせんし、フラフラッと立ちあがって、なんべんか倒けながら、川の岸をユウラユラ、酔いどれみたいに、歩いて行ったというわい」
「どっちの方に?」
マンは、切迫した声できいた。
「柿ノ坂の方じゃ。狐に化かされとっても、駐在所に帰る方角だけは、知っとったとみえるのう。服は泥だらけになっとったというが、そんなことも気づかん風じゃったらしい」
「カバンは持って居らんじゃったけえ?」
「カバン? それまでは聞かんじゃった」といったが、ふっと、不審そうに、「マン坊は、どうして、鬼がカバンを持っとったこと、知っとる?」
「いンね、……役人さん、いつも黒いカバン持っとるけえ、どうしたか、と、ちょっと思うたもんじゃけえ……」
マンは、どぎまぎと答えた。
水車小屋の事件を、マンは父に話さなかった。誰にも話さなかった。盆踊りの晩、村長の二男坊から手ごめにされかけたことは、すぐに、父に打ちあけたのに、今日、ふたたび、同じ目に逢いながら、これは隠した。
盆のとき、父から、「これからも、そんなことはある。よう覚えとけ」といって、教えられた女の護身法を、習ったとおりに実行したのであるから、手柄顔で報告してもよいのに、マンは沈黙を守った。はからずも、危険から身を守ることができはしたけれども、その方法は、純真で一本気な若い娘を、はげしい羞恥におとしいれたのである。得々と報告するどころか、真実を知られることを恐れた。マンに、新しい一つの秘密ができた。
けれども、また、別にマンの心の奥底に、奇体な力が生まれていた。
――女でも、必死になれば、自力で、男に負けぬ仕事をすることができる。
その、胸のふくらむような、自覚と、自信とであった。
一週間ほどが、過ぎた。
村の煙草工場の開所式が、盛大におこなわれた。貧乏部落のくせに、なにかの行事は派手にしたがる癖があって、この工場開きの日は、まるで、お祭騒ぎであった。
「こんな名誉なことは、なあよ。これで、わしも、もう、いつ死んでもええ」
村長は、禿げあがった頭をたたいて、本心から、そういった。まだ電燈もつかない、こんな山奥の村に、政府の指定機関が出来たことは、村長にとっては、一世一代の晴れであったかも知れない。
「村長さん、わたしも、あんたに負けんほど、うれしゅうがんす」
そういうのは、高門の武十旦那である。
煙草工場といっても、単に、大地主である武十の家の倉庫を、改造したものにすぎない。煙草葉をきざむ初期の工程だけをやるのだし、女工も十六人しかいないのだから、結構、それで間にあうのである。
「村長さん、武十旦那さん、わしも、今度のことで、命が三年ほど延びやした。おおきに、ありがとうございやした」
谷口善助のその言葉も、お世辞ではなかった。娘のマンが採用されたばかりか、女工頭に任命されたのである。
開所式の当日、広島からやって来た専売局の若い出張員も、にこにこと、挨拶した。
「ここまで漕ぎつけることのできましたことは、村長さんはじめ、近郊各部落の方々の熱意の賜でありまして、本官は、今回、選抜された優秀なる女工さんがたによって、かならずや、期待される以上の成果が、生みだされるにちがいないことを確信いたします。特に、女工頭の責任ある地位に就かれた、谷口マンさんの活躍に嘱望するところ、はなはだ大であります。……本日は、当地方の駐在員である松富五八郎君が、列席できないことは、まことに残念のいたりでありますが、同君は、一週間ほど前、七瀬の水車小屋に隠匿されてあった不法煙草葉を調査、摘発中、ふいに持病の胃ケイレンをおこして以来、病臥中でありまして……」
どっと、会場内に、爆発するような笑い声がおこった。
得意で挨拶していた若い役人はなんで笑われたのかわからず、すこし、むっとした顔つきになって、
「同君は、技能抜群、誠実無類の人物でありまして、日ごろ、諸君を指導しながら、仕事熱心のあまり、今日、殉職に近い難にあわれましたことは……」
また、ひとしきり、会場内は、奇妙な笑いでどよめいた。役人に遠慮はしていたが、誰もおかしさがおさえきれなかったのである。
笑うことのできなかったのは、マンだけである。中央にしつらわれた、十六人の女工席の先頭に腰かけていたが、顔がまっ赤に燃えてきて、頭があげられなかった。
「マンさん、ウフフ……」
すぐ後にいたキヌが、マンの腰のあたりを指でつついて、意味ありげなふくみ笑いをした。キヌも、女工に採用されていた。
マンは、氷の鎌で腰を切られたような寒気がした。くらくらと、眼まいをおぼえた。
「誰もほんとのことを知らんらしいが、あたしだけは、なにもかも知っとるよ」
キヌの陰にこもった笑いは、明瞭に、そういっていた。
それから、毎日、マンは、高門の煙草工場に出勤した。心内ははげしく動揺していたけれども、表面は、この新しい仕事に嬉々として、没頭しているように見えた。
「やっぱり、マン坊はちがうのう」
武十旦那も、彼女の働きぶりに、大満悦である。毎日、面とむかって、ほめる。
「いンね、旦那さん、つまりません」
「一等葉を、日に三杯もつくるなんて、機械よりも、よう、やりんさる。五等葉でも、三杯、なんぼうにも出来ん者もあるとに……」
煙草葉は、よい部分、わるい部分と、一等から五等までに分けられる。それをきざむのだが、一日に、一等葉を一杯(一貫六百目)つくるのも、なかなか骨だった。それを、マンは、正確に、三杯つくった。ぞんざいにきざむ五等葉なら、六杯ぐらい作る者もあった。一杯の賃銀、三銭から四銭。
「マン坊、村長さんとこの敬やんの嫁女になるげなのう」
或る日、工場で、武十旦那からそういわれて、びっくりした。きいてみると、マンが、煙草工場に採用されたことも、女工頭になったことも、すべて、二男坊の顔と口ききとによるものだということであった。マンは、唖然とし、嘔吐をもよおした。
敬造は、谷口家を、毎夜のように、訪れて来るようになった。にやけた声で、しかし、威嚇するように、善助を口説く。
「僕が、一口きいたら、今日にでも、マン坊は、工場をクビになるんだよ。まったく、僕のおかげですよ」
善助は、苦虫をかみつぶした顔で、答えない。やけに、鉈豆煙管で、煙をふかす。イワも、無言で、ワラジを編む。
或る雨のそぼ降る日、工場の入口から入って来た男を見て、マンは、思わず、手元が狂った。庖丁で、指を切った。
「やあ、精が出よるなあ」
「鬼」であった。相かわらず、黒の詰襟服、黒カバン、黒帽子の大男は、にこにこしながら、まっすぐに、マンの方に歩いて来た。女工たちの間に、くすくす笑いがおこった。
マンが、血のふきでた左の親指を口にくわえて、無言でつっ立っていると、役人は、
「怪我したのかね、どれ」
と、親切そうに、赤ら顔をつきだした。ドブロクくさかった。
「なんでも、なあです」
「そうかい」と、憎々しげにうなずいたが、仕事をしている女工たちを見まわして、「やあ、模範的娘ばっかりの展覧会だなあ」
そういって、身体中をゆすりながら、意味ありげに、哄笑した。
マンは、歯を食いしばった。「鬼」が、水車小屋の中で、罪を帳消しにしてやるからといって、身体を求めてきたとき、「みんな、そうするんじゃがなあ」といった言葉を思いだした。この女工たちの中にも、「鬼」の毒牙にかかった者があるのだろうか? 役人は、百姓が泣き寝入りするものと定めていたのだ。マンの例外におどろいたかも知れない。しかし、「鬼」は、かえって非を悔いるどころか、意地になって、新しく、マンを狙いはじめたようであった。
それから、数日後、時次郎が、また、専売局からの書留郵便を、マンのところに、届けて来た。
「専売法違反ノ科料、金二円五十銭也ヲ収メヨ」という命令書であった。
駐在員の松富五八郎が、谷口家を訪れて来た。マンの方を、じろじろ横目で見ながら、
「善助さん、罰金が来たそうだねえ?」
「来ました」
「姐御の親孝行が、かえって、仇になったというところですかな。……だが、なあ、善助さん、この罰金、収めずにすます方法が、なくもないんだがねえ」
「いンね、ええです。収めます」
「そんな空威張りしたって、損だよ。政府だって、血も涙もあるんだから、恩恵に浴してはどうかね? 便法があるが。……科料は大したことはないけど、前科がつくし、第一、罰金を収めに、岡山裁判所までも行かねばならんよ」
「行きます」
「お上に楯ついて、得はないのになあ」
「鬼」は、せせら笑って立ちあがった。大股で、悠々と帰って行った。
「お父っあん、すみません」
「マン坊、なあに、心配はいらん。お父っあんが、よう知っとる」
マンは、わっと泣き伏した。
善助は、罰金を収めるために、岡山に向かって、出発した。二円五十銭といえば、科料としては最低であったが、収めに行くのが大変である。大旅行といってよい。広島の山奥から、谷をわたり、山を越え、幾日も泊りを重ね、やっと、鉄道のあるところまで出て、汽車に乗る。岡山市にたどりつき、裁判所に、科料金を納入すると、また、同じコースを引きかえす。罰金の数倍の費用を使い、善助が、村に帰りついたのは、家を出てから十三日目であった。
善助は、疲れた顔も見せなかったが、日ごろ愛用していた鉈豆煙管、タバコ盆、タバコ入れ、等を、くるくると、油紙につつんで、仏壇の下の物入れにつっこんでしまった。
イワが、妙な顔して、
「あンれ、お父っあん、どがあに、しんさったな? 好きな煙草を、押しこんでしもうて……」
「おれが煙草を吸うもんじゃけえ、マン坊が心配して、罪をおかすようなことをする。今日かぎり、ふっつりとやめた」
マンは、また、涙が出た。
こういうことがあっても、なお、苦しい気持をいだいて、煙草工場に通っていたが、或る風のはげしい日の夕暮どき、マンは、七瀬の水車小屋の横で、大川時次郎とキヌとが、むつまじげに語らっている姿を見た。観音堂のかげから、眼を据えた。
遠くからで、言葉をききとることはできなかったけれども、肩を接するようにして、なにか、大声で、楽しげに笑いさんざめいている。これまで感じたこともない、不可解な嫉妬の感情が、マンの胸いっぱいに溢れた。
(なあんじゃ)
くッ、くッ、と、笑いのような、嗚咽のようなものが、胸の奥底からつきあげて来た。二人の姿が、狐と狸のように見えた。
清冽な流れを、黄昏のうすい光に散らしながら、水車がゆるい速度で廻っている。
それから、数日後、彼女の姿は、この谷底の部落から、消えていた。
明治三十五年、晩秋。
谷口マン、十九歳。