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糞尿譚
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糞尿譚
火野葦平
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Chapter 6 of 8

6

昼を少し廻った頃、公会堂と職業紹介所と教員住宅の汲取りに廻って居たトラックが帰って来た。運転手の沢田は框に腰を下して、弁当を開いたが、口の中に飯をふくみ、日頃から尖った口を余計尖らせて、もぐもぐと、小森さん、今日公会堂で矢橋村の皆田に会いましたよ、公会堂で何かの寄りがあって居る様子でしたが、私がトラックをとめると、その音を聞きつけたらしく、出て来て、帰って小森君に云ってくれといって、今後は絶対に唐人川尻に糞尿を棄てて貰っては困る、と言いました、何かしら、たいそう偉そうにして居りましたよ、と云った。従来汲取った糞尿は三通りに処理されていた。第一は市の周囲にある農村に肥料として売り捌くこと。相当広範囲にわたる農村から相当の需要があり、殊に最近荒蕪地を開発した佐原山頂附近一帯の市有開墾地もよい得意であった。これまでは百姓が個人的に牛車を曳いて町の方に糞尿汲取りに出る者も多かったが、最近では、トラックで運んで来る衛生舎の肥料を買う方が便利でもあり、却って割安であったりするので、大抵衛生舎の得意になっていた。第二には特別構造の糞尿船に積み込み、海を隔てた対岸の地方へ運送し売却すること。糞尿船は一隻しかなく、一度満船して出ると、売り捌いて帰って来るまで三日も四日もかかり、経費の収入が補わないことが多かった。この船はもと給水船であったのを古くなったので、持主から借り船していたのであったが、最近では肥料の値上りと、対岸地方でも自給的に方法を講じ始めたのとで、ますます不成績となり、近ごろでは沖合へ漕ぎ出して行って、玄海灘に棄てて来ることの方が多くなった。ところが老いぼれた船頭の狡いのが乗って居って、あんまり沖合まで漕いで行かず、いい加減のところで流してしまったり、甚だしい時には、海浜に繋いだまま、夜のうちに栓を抜いて流しておいて、抗議を持ちこまれると、栓がゆるかったのでひとりで抜けたのだろう、少しも気がつかなかった、と云って弁解したりするようなことがよくあった。いずれにしろ、従来の行きがかり上、使用しているだけであって、海浜まで桶を運び、また、船の中に入れ、しかもあまり多量には入らず、不便この上もなかった。第三には、唐人川尻、並に、各所に穴を掘って蓄置きすること。農村の方にも、佐原山頂附近にも幾つも穴を掘ってセメントで堅め、糞尿を蓄めた。然し、農村方面には肥料として役立つもののみを蓄え、小学校其の他肥料として用をなさないものは、船に積んで棄てるか、唐人川尻と笹倉山とに掘った穴に棄てた。然し、笹倉山の谷は相当の距離があるため、主として唐人川尻に棄てることが多かった。これも市当局の諒解の上であって、市としては、衛生舎を指定すると同時に、笹倉山の麓に浄化装置を有する市立汲棄場を作ることを立案したのであるが、未だに実現しないで居るのである。既に予算は取ってあるので、早晩著工する筈になっている。唐人川尻の汲棄場は、恰も、塵芥取り部落の外れであって、さなきだに、各種の紛擾の絶え間のない両者の間に、また一つの紛擾の種を蒔いたようなものであったが、外に適当な場所もなく、浄化装置の市立汲棄場が間もなく出来ることになって居り、それまでということで、現在もなお、そのままになっているのであった。今までも何度となく棄てないでくれとドノゴオ・トンカから申し出はあったのであるが、なるたけ棄てないようにするからと云いながら、どうしても便利であるため、やっぱり殆んどこの唐人川尻を利用するのであった。然し、今、沢田が口をもぐもぐさせながら、皆田老人がそう云ったといい、なにかしら、偉そうな風であったということは、最近の歎願書問題を繞って、何時もとは違ったものが感じられた。彦太郎は沢田の云った、皆田老人の偉そうな様子というのがまざまざと眼に浮かぶように思い、これは少し警戒しなければならぬと思った。三時頃から、角の諸式屋の自転車を借りて山に上り、途中の傾斜の甚だしいところは自転車を押して上った。秋風が芋の葉を動かしてはいたが、太陽はぎらぎらと背中に照りつけ、汗が淋漓と流れた。無花果の実がすっかり大きな赤い口を開き、柿がいくつも青い玉になって光っていた。坂道を汗だくになって登って行くと、向こうから背に薪を負った女が下りて来た。行きすり合うまで誰かわからなかったが、すれちがいさま、小森さんでないですかや、と向こうから声をかけた。びっくりしたように顔をあげると、暑いですな、商売忙しいでしょ、と女は大きな眼をくりくりさせて云った。それは卯平の女房であった。彦太郎は一瞬ぎょっとして卯平の女房の顔を見つめたが、いつか山の池の傍で見た時のような気違いじみた凄さはなく、にこにこしているので、もう狐は落ちたのだろうとようやく合点が行き、あんた、なおりましたかな、と訊いた。はあ、と女房は急に面映ゆそうに眼を伏せ、顔を赤めて、あの時はいろいろお世話になりました、恥かしゅうて、よう人に顔が合わされん、と遠慮したような笑い方をし、うちのは居りましたよ、大根の種を蒔きよりましたから、上の畑に上ってみて下さい、と云って、すたすたと坂道を下ってしまった。薪に半分以上隠れた後姿を眺めながら、たいそう痩せたと思い、いつかのように田舎に残したままの女房と子供を思い出した。あいつたちにも随分と苦労をかけたが、いよいよ自分の最後の勝利もそう遠いことではない、近き将来には必ず笑って手をとり合えることがあるのだ、と彦太郎はその待たれる日のことで胸がいっぱいになり、もう少しだ、ああ、もう少しだよ、と誰にいうともなく呟き、自転車を押して、汗に濡れながら、なおも山道を上って行った。今日は卯平に会い、市有開墾地の農作組合で必要な肥料のことを聞くためにやって来たのである。ようやく頂上の道まで出ると、上の方の畑で卯平はしきりに畝をおこしていた。下から声をかけると、上の方で手をあげ、鍬をかついで、斜面を駈け下って来た。暑いなあ、秋になってだいぶになるのに、今年は妙に涼しゅうならん、暑い、暑い、と卯平はしきりに暑がり、道端の小屋の蔭に入った。彦太郎も自転車をおいて入り、腰から鉈豆煙管を抜いた。それから卯平のいう農作組合の肥料の量を鉛筆をねぶりねぶり、帳面に控えた。話のはずみに今日運転手から聞いた話をすると、卯平は自分のことのようにぷんぷん腹を立て出し、皆田の老いぼれが何をぬかすか、市で承知して居るものを勝手にやめろとかなんとか気の利いたことをほざくな、俺に云うて来い、いつでも俺がやっつけてやる、と、矢橋村の方角を睨んだ。ありがとう、あんた、と彦太郎は答え、この口ばかり達者の男の好意を嬉しいと感じた。実際はたいして何の役にも立たない卯平であることが判って居ったが、心から自分のことのように同情して憤慨する男を何かしら頼もしげにも感じた。えらい汗かいて居るじゃないか、帰りに扇谷温泉にでも寄って汗を流して行ったらどうだ、この頃風呂も綺麗になったそうだし、それに仲居にたいそう別嬪が居るそうじゃ、と卯平が笑い笑い云った。ああそれもええなあ、あんた、この頃何やかやでごてごてし、ゆっくり風呂を浴びるということもない、今日はもう別に用もなし、温泉にでも浸って来ようか、だが別嬪なんか、そんなものはどうでもよいぞ、と彦太郎が答えると、どうでもよいことはあるまい、彦さんも昔はなかなかやったもんだからな、と云って卯平は彦太郎の肩をとんとつき、大声を立てて笑った。彦太郎もにやにやと笑い、昔は昔たい、糞の苦労で女なんぞのこと忘れてしまった、女の欲しい位の馬力がある時でないといかんな、と云って、二人は顔見合わせ、お互様になというように哄笑した、然し、彦さん、根が好きな道、その温泉の女というのは、とてもよい女というから、彦さん、気をつけたがよいぞ、と笑いながら云うのに、ほんとにな、あんた、気をつけんと危ない危ない、と彦太郎も笑いながら答え、肥料は明後日間違いなしに全部届けるからと自転車に乗りながら云って、飛び乗ると、今度は下りばかりで、赭土の道を砂煙をあげて疾走し出した。頬に涼しい風があたって、よい気持だった。十分位走ると、海浜にある扇谷温泉の大きな看板の立っている県道に出た。

湯槽の中に身体を浸し、眼を瞑じた。久しぶりにのびのびした甚だ陶然たる気持であった。一間四方位しかない狭い浴槽で、誰もいないので、彼は腕を伸ばしたり、ちぢめたり、掛声をかけたり、三勝半七酒屋の段を唸ったりした。腰硝子越しに芋畑があって、大きな葉が揺いでいるのを見て、この辺の畠はどこの肥料を使っているのだろうと思った。彼は最近の事件を色々と回想し、まず、大体、幸福であった。彼は手拭でごっしごっしと腕を磨き、首筋を洗った。顔をつっこんで、沈んでみて、すぐあぷあぷと顔をあげ、いつか山の池に長いこと沈んでいた卯平を思い出し、あいつはまるで河童だ、どうしてあんなに長く水の中に居ることが出来るんだろうと不思議に思った。彼はもう一ぺん鼻をつまみ、息を深く吸いこんで沈んでみた。すぐ苦しくなって、あぷあぷと浮いた。どうしても駄目だと思い、断念して、また首を出したまま窓から空を見た。汗を流して山道を登った時はまだ夏だと思われるほどだったが、こうして窓から見ると、空はまことに深く、青く、まさに秋であった。彼がうっとりと空を見あげていると、かたんと音がし、横の潜戸が開いた。振り返ると、彦太郎はどきんとした。潜戸から美しい女の顔が出て、にっこり笑ったからであった。女は微笑を湛えたまま、何かお支度をしておきましょうか、と云った。彦太郎は胸がどきどきするのに、我ながら驚きながら、何でも出来るのですか、と訊いた。何か咽喉に引っかかったように声がかすれるのを、これはいったいどうしたことだと思い、汚ない身体を見せたくないために、首だけ出して云った。何でも出来ます、と簡単に答えて女は返事を待った。何か肴をして、酒をつけておいて下さい、と彦太郎は女の顔をまじまじと見つめて云った。承知しました、そこに浴衣を出しておきましたから、と答えて女は引っこみ、潜戸が軽く閉った。彦太郎はふとためいきをつき、あれが卯平の話した女だなと思った。なるほど、あれなら一苦労してみる気にもなる男があるかも知れぬ、と昔の蕩児は往年を回想し、いつか十何年振りかで出合った自分の女のことを思い出し、何度もためいきをついた。彼は叮嚀に顔を磨き、浴衣に着換えて、潜戸を開けると、すぐ前に階段があったので、上った。上ると眼の前にぱっとまっ青な海が開けて、さっと塩風が正面から火照った顔に吹きつけて来た。部屋は四畳半のこぢんまりした部屋で、床の間もあり、餉台の上には既に酒肴の支度が整えられてあった。彦太郎が部屋に入ると、追いかけるように先刻の女がやって来たが、薄化粧した女の姿は浮いたように美しかった。彦太郎が坐ると、徳利を取りあげ、左の手で盃をさし、どうぞ、と女は云った。盃を受け取り、一口にぐっと飲んだ。焼酎を飲みつけている彦太郎の咽喉には、日本酒は最初は水のようで困るのだが、いずれにしてもあまりよい酒ではないなと思った。女が怪訝な顔をしたほど、彼は続けさまに盃を干した。最初は水のようであるが少し飲み出すと、味が出て、急速に酔の廻るのが彦太郎の癖であった。少年のように怖けていた彦太郎も酒のために勢が回復し、次第に平常通りの彼に返って来た。元気をとりもどした彼は、いろいろとこの風呂のことなど聞き、冗談などもいえるほどゆっくりした気分になって来た。非常に情の溢れたように見える一重瞼が何より美しかった。細い眉毛は墨で引いたようにはっきり反っていた。顎をこころもち引きながらものをいうところは、どこか照葉に似ているなどと思い、彦太郎は酔の廻るにつれて、あやしげな気持になって行くのをどうすることも出来なかった。浴槽の中での幸福な気持が、いつにない弛緩した心を誘い出したのかも知れない。あら、鯛網があがったわ、と叫んで窓際に女は出て海の方を見たが、夕風におくられて、白粉の匂いがぷうんと彦太郎の鼻を打った。風に吹かれてまくれた裾から赤いものがちらと覗いた。もはや、彦太郎は、天魔に魅入られたごとく、邪念から逃れ去ることが出来なくなったのである。女は、あら、徳利がないわ、と云って出て行った。いつの間にか十本から上の酒を矢継早に腹に入れていた。しきりと思い出される照葉の想念を追いやるごとくにしながら、くくれた顎の似ていることが、彼をけしかけるように彼の心意を攪乱した。いつか、夕暮れ時、便所の汲取口から見た女の身体が、眼の先にちらつき、既に充分酔の廻った彦太郎は、囮を待つ猛獣のように待機したのである。彼は海に面した窓の障子を閉めた。やがて、階段に足音が聞え、徳利を持った女が入って来た。まあ、暑いのに障子を閉めて、と窓の方に行くのを、いいんだよ、あんた、お坐り、と女の手を掴まえて引いた。あれ、酒がこぼれる、と女は徳利を掴んだが、引き寄せられるままに、彦太郎の横に坐った。女の身体の温みが、ぶっつかった彦太郎の肩口から、ずんと身体中に沁みわたり、彦太郎は最早余裕を失って、いきなり両手で女の肩を抱いた。すると、まるでバネに弾かれたように後につき飛ばされ、彦太郎は音を立てて尻餅をついた。逆上した彦太郎が起きなおって近づこうとすると、女はすっくと立ち上って、あんた、衛生舎の小森さんでしょう、冗談はよした方がよいですよ、と云って、襟をつくろいながら、顎を引いて、艶然と笑った。愕然とした彦太郎は這いつくばったまま、異様の惑乱に戸惑いながら、自分の名を呼んだ女を穴のあくほど見つめはじめた。凝視しているうちに、あッと彼は仰天するように絶叫し、さっと色青ざめ、見る間に酔も醒めはてて行くとがたがたと顫え出した。何という俺は迂潤だったろう。何時か赤瀬の大将が何処やらの温泉に女を拵えているということを誰からか聞いたことがあった、奥さんからは、近頃主人に女が出来ているということだが、何か聞いたことはないかと訊ねられたこともあった、まさか町の近傍ではなく、よく旅行する赤瀬の大将のことだから、遠方の温泉地かと思って居った、ああ、この女だったのだ、この女だ、そう悟ると、彦太郎はまるで死刑の判決でも受けたように立ち竦んだ。突然、彼は決然たる眸をあげ、おせいを見つめると、そこへぴたりと両手をついた。ああ、私が悪うございました、どうぞ赤瀬の大将には秘密にお願いいたします、酒癖が悪いため、とんだ粗相をしました、どうぞ、どうぞ、お許し願います。そう云って、ぺこぺこと頭を下げた。立って居ったおせいもそこへ坐った。なにこれから気をつけたらいいんですよ、と仕方なさそうに答えた。どうぞ、何卒、大将にはおっしゃらないで下さい、お願いです、と何度も同じことを繰り返し、蟇口から十円紙幣を三枚出して餉台の上に置き、立ち上り、悄然として出て行った。階段の中途から、また引っ返して来て、どうぞ、間違いなく秘密に頼みます、と念を押し、下りて行った。彼は浴衣を脱いで仕事着に着換えると、自転車で夕暮れの海浜に出たが、どうも気になるので又引っ返して行った。おせいの姿が見えないので、あちこち探していると、電話をかける声がするので、どきんとし、近寄って耳をすましてみたが、それは赤瀬氏のところへではなく、町の酒店へ酒を註文しているのであった。電話を切ってこちらへ来るおせいに、さっきはどうもすみませんでした、なんにも知らないものだから、御無礼しました、一生のお願いですから、大将には内密に、と云いかけるのを、しつこいわね、一度聞いたら判っていますよ、前から大将からあんたのことは聞いて居ったし、こんなこと大将に云ったら、いっぺんであんたの仕事はおじゃんでしょうから、そんな気の毒なことはしませんよ、と吐いて捨てるように云って、おせいは台所の方へ行ってしまった。見えなくなってから、彦太郎はその好意が嬉しく、ありがとうございます、と云って心から叮嚀に台所の方にお辞儀をした。それから悄然と足を返し、自転車にまたがり、夕暮れの道を帰って行った。

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