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この病院に入院してから三ヶ月程過ぎたある日、宇津は、この病院が実験用に飼育してゐる動物達の番人になつてはくれまいかと頼まれた。病院とはいへ、千五百名に近い患者を収容し、彼等同志の結婚すら許されてゐるここは、完全に一つの特殊部落で、院内には土方もゐるし、女工もゐるし、若芽のやうな子供達も飛び廻つてゐて、その子供達のためには、学校さへも設けられてあつた。患者達も朽ち果てて行く自分の体を、毎日ぼんやり見て暮す苦しさから逃れたいためでもあらうが、作業には熱心で、軽症者は激しい労働をも続けてゐた。彼等の日常の小使銭は、いふまでもなくこの作業から生れてくるもので、夜が明けると彼等はそれぞれの部署へ出かけて行くのだった。かうした中にあつて、宇津はまだどの職業にも属してゐなかつたので、番人になつてくれといふ頼みを承知したのだつた。勿論これも作業の一つで、一日五銭が支給された。宇津は元来内向的な男で、それに入院間もないため、自分の病気にまだ十分に馴れ切ることが出来ず、何時でも深い苦悶の表情を浮べて、思ひ悩んでゐることが多かつた。その上凡てが共同生活で、十二畳半といふ広い部屋に、六名づつが思ひ思ひの生活をする雑然さには、実際閉口してゐたのだつた。さういふ彼にとつて、動物の番人はこの上ない適役であり、一つの部屋が与へられるといふことが、彼にとつて大変好都合だつたのである。
動物小屋は、L字形に建てられた三号と四号の、二つの病棟の裏側で、終日じめじめと空気の湿つた、薄暗い所であつた。どうかすると、洞穴の中へ這入つたやうな感じがし、地面には蒼く苔が食んでゐた。もともとこの病院が、武蔵野特有の雑木林の中に、新しく墾かれて建てられたものであるため、人里離れた広漠たる面影が、まだ取り残されてゐた。患者の逃走を防ぐために、院全体が柊の高い垣根で囲まれてゐて、一歩外へ出ると、もうそこは武蔵野の平坦な山である。小屋の周囲にも、松、栗、檜、それから種々な雑木が、苔を割つて生えてゐた。その中、小屋のすぐ背後にある夫婦松といはれる二本は、づぬけて太く、三抱もあるだらうか、それが天に冲する勢で傘状に枝を張つて、小屋を抱きかかへるやうに屋根を覆つてゐた。屋根には落葉が積つて、重さうに厚く脹れて、家の中へは、太陽の光線も時たま糸を引くやうにさすくらゐのものであつた。宇津の部屋も、この動物小屋の内部にあつて、動物の糞尿から発する悪臭が、絶えず澱んでゐた。殆ど動物達と枕を並べて眠るやうなもので、初めの間彼も大変閉口したが、重病室の患者が出す強烈な膿の臭ひよりは耐へ易く思つた。
動物は、猿、山羊、モルモット、白ねずみ、兎――特殊なものとしては、鼠癩に患つた白ねずみが、三匹、特別の箱に這入つてゐた。これ等に食物を与へたり、月に二三度も下の掃除をしてやるのが、彼の仕事だつた。従つて暇も多かつたが、別段友人があるといふ訳でもないので、大てい読書で一日を暮すか、病気のために腫れぼつたくむくんだ貌に深い苦悩を沈めて、飯粒を一つ一つ掴んで食ふ白ねずみの小さな体を眺めてゐるのだつた。日が暮れ初めてあたりの林が黝ずんで来だすと、彼は散歩に出かけて、林の中を、長い間歩き廻つた。さういふ時、動物達のことはすつかり忘れてゐた。彼は熱心に動物を観察して、そこにいろいろのことを発見したが、それに対して親しみやよろこびを感ずるといふことは一度もなかつた。
小屋を裏手に廻つて、ちよつと行くと、そこに監房がある。赤い煉瓦造りの建物で、小さな箱のやうであつた。陶器でも焼く竈のやうで、初めて見た時は、何であらうかとひどく怪しんだものであつた。
「どんな世界へ行つても、人間と獄とは、切り離されないのか。」
彼はそれが監房だと判つた時、さう呟いた。この小さな異常な社会の監房ではなく、一般社会の律法下の監獄に服役中の友人を思ひ出したからだつた。
院内は平和で、取るに足るやうな罪もなかつた。随つて監房も休業が多く、時たま、宇津が散歩の折に房内からひいひい女の泣声が聞えても、それは大てい、逃走し損つた者か、他人の亭主を失敬した姦婦の片割れくらゐのものらしかつた。宇津も、間木といふ不思議な老人に出会すまでは、感情に波をうたせるやうな変つたこともなかつた。L字型をした二つの病棟の有様も、彼にはもう慣れてゐた。夜など、病棟から流れ出る光りが、小屋の内部まであかくさし込んで、畳の上に木の葉が映つたりすると、美しいと思つて長い間見続けたりした。病棟の内には重病者が一杯うようよと集まつてゐて、そこは完全な天刑病の世界である。光りを伝つて眺めると、硝子窓を通して彼等の上半身が見えた。頭をぐるぐる白い繃帯で巻いたのや、すつかり頭髪の抜けたくりくり坊主の盲人が、あやしく空間を探りながら歩くのが、手に取るやうに見えるが、入院当時のやうな恐怖は感じなかつた。入院当時の数日は、絶海の孤島にある土人の部落か、もつと醜悪な化物屋敷へ投げ込まれたやうな感じだつた。そして、これが人間の世界であるといふことはどうしても信ずることが出来なかつた。右を向いても左を見ても、毀れかかつた泥人形に等しい人々ばかりで、自分だけが深い孤独に落ち込んで行くやうで、足掻きながら懸命に正常な人間を探したものだつた。ぶらぶら院内を歩いてゐる時など、向うから誰かやつて来ると、激しい興奮を覚えながら、熱心にその者を眺めた。そしてだんだん近づくにつれて、足に巻いた繃帯が見え出したり、腐つた梨のやうにぶくぶくと脹らんだ顔面がじろりと彼を睨んでゐることに気づいたりすると、一度にぐつたりと力が抜け、げつそりしてしまふのであつた。その反対に、ひよつこり看護婦の白い影でも、木立の間にちらりと見えると、ほつと安心し、もうその方へ向つて二三歩足を踏み出してゐる自分に気づいたりするのだつた。宇津は、自分が癩病に患つてゐることを肯定しながら、自らを患者一般として取り扱ふことの出来ぬ心の矛盾に、長い間苦しめられた。
彼が間木老人と会つたのは、動物小屋に来てから十日ばかりすぎた或る夜中だつた。その日動物達に夕食を与へてしまふと、すぐ床の中へ這入つて眠つたが、悪い夢に脅かされて眼が覚めてしまつた。そしていくら眠らうとしても、眼は益々冴え返つて来るので、仕方なく起き上ると、小屋を出て、果樹園の方へぶらぶら歩いて行つた。運良く月が出てゐたので足許も明るく、眼を遠くに注ぐと、茫漠とした武蔵野の煙つたやうな美しさも望まれた。桃の林は黝ずんで、額を地に押しつけるやうにして蹲つて見え、月は、その下で丸く大きく風船玉のやうに、空中に浮んで、そこから流れて来る弱い光りが、宇津の影を作つてゐた。宇津が歩くと、影も追つて地を這つた。自分の影に気がつくと宇津は、それが余りぴつたり地に密着してゐるので、だんだん自分の体が浮き上つて行くやうに思はれて来てならなかつた。すると奇怪な不安を激しく感じて、もう一歩も歩くことが出来なくなつてしまつた。また来たな、と呟くと一つ大きく呼吸した。かうした不安は幾度も経験してゐるので、さほどに驚かなかつた。がこれが、何時何処で不意に表はれて来るか皆目見当がつかず、その上一旦突き上つて来ると、どうにも動きが取れなくなつてしまふので、それにはひどく弱つた。これは病気に対する恐怖が、死に感応して起るものであらうと、彼は自分で解釈してゐた。不安は執拗な魔物のやうで、その都度自分がだんだん気狂ひになつて行くやうな、また新しい不安をも同時に感ずるのだつた。かういふ時彼は、ぐうつと胸一杯に空気を吸ひ込んで、もう息が切れる、という間髪に鋭くハッハッと叫んで一度に息を抜くことにしてゐた。そこで大きく息を入れ、胸が張り切ると、ハッと鋭く抜かうとした途端に、
「枯野さん。」
といふ呼声が、突然すぐ間近でしたので、吃驚して呼吸が声の出ないうちに抜けてしまつた。
「枯野さんではありませんか。」
二三間しか離れてゐない近くで、今度はさう言つた。宇津は初めて、こんな自分の近くに人が居り、しかも自分に呼びかけてゐることを識つて驚いた。
「いいえ。」
と彼は取敢へず返事をした。その男は月影をすかして探るやうに宇津に近寄つて来ると、
「これはどうも失礼しました。」
と静かに言ふと、
「どなたですか。」
と訊いた。何処か沈んだやうな調子の声で、何気ない気品といつたものが感ぜられた。宇津はすぐ老人だなと感じた。月の蒼い光りの底を、闇が黝々と流れて、どんな男かはつきり見極めることは出来なかつたが、宇津はすぐさう感じた。しかし宇津は、こんな深く品を沈めた、余情を有つた言葉を、まだ一度も聞いたことがなかつたので、激しく心を打たれながら、何者であらうかと怪しんだ。
「僕、宇津といふ者です。」
ちよつとの間を置いて、さう答へると、
「宇津?」
と鸚鵡がへしに言ふと、また、
「さうですか。宇津? 宇津?」
ひどく何かを考へる様子で、さう繰り返した。これはをかしい奴だと、宇津は思ひながら、
「御存じなんですか。」
と訊いて見た。
「いえ、いえ。」
と狼狽しながら強く否定して、
「わたしは間木といふ者ですが――。」
「はあ。」
と応へながら宇津は、老人の過去に、宇津といふ固有名詞に関する何かあつて、それから来る連想が心に浮んでゐるのであらうと察した。
「何時、入院されたのですか。」
「まだ入院後三ヶ月ばかりです。どうぞよろしく。」
「ほう、さうですか。」
さう言ひながら老人がぽつぽつ歩き出したので宇津も追つて歩いて行つた。宇津は注意深く老人を観察しながら、どうしてこんな夜中に歩きまはつてゐるのか、それが不思議でならなかつた。
老人は病気の程度を訊いたり、懸命に治療に心掛ければ退院することも出来るであらうから心配しないがいいと元気づけたりした。
「全治する人もあるのですか。」
と訊ねて見ると、老人は暫く何ごとかを考へる風だつたが、
「さあ、さう訊ねられると、ちよつと答へに困るのですが……この病院の者は、落ちつく、といふ言葉を使つてゐますが、つまり病菌を全滅させることは出来ませんが、活動不能の状態に陥れることは出来るのです。」
と言つて、癩菌は肺結核菌に類する桿状菌で、大楓子油の注射によつてそれが切れ切れになつて亡びて行くものだといふことを、この病院の医者に聞いたし、顕微鏡下にもそのことが表はれてゐると説明して、無論あなたなど軽症だから今の間にしつかり治療に心掛けることが何よりで、養生法としては凡てのものに節制をすること、これだけだと強く言つて、これさへ守れば癩病恐るに足らぬと教へた。
入院以来宇津はもう幾度もこれと同じやうな言葉で慰められたり、力づけられたりして来たので、この言葉にもさほどの喜びを感じないのみか、老人の口から出る語気の鋭さに、一体この老人の過去は如何なるものであつたのだらうかと、それが気になつて彼は、全神経を澄み亙らせて対象を掴まうとしてゐた。老人は所謂新患者に対して心使ひをする楽しさを感じてか、それからも宇津に、病院の制度のことや患者一般の気質などを話して、最後に、今何か作業をやつてゐるかと訊いた。
「動物小屋の番人をやつてゐます。」
と答へると、
「さうですか、あそこは空気の悪い所ですから胸に気をつけなさい。この上に肺病まで背負ひ込んではたまりませんよ。この病院に癩肺二つに苦しんでゐる者がかなり居りますが、そりや悲惨なものです。先日もあんたの小屋の裏にある監房へ入れられて――女と一緒にここを逃走しようとして捕まつた男なのですが、房内が真赤に染まる程ひどい喀血をして死にました。」
宇津は老人の言葉を聞きながら、竈のやうな監房を心に描いて、この病院には、人間の為し得ないやうな恐しいことが、まだまだ埋つてゐるに違ひないと思つて、深い不安と恐怖を感じたのだつた。
今まで宇津以外に誰もゐない動物小屋の、薄暗い部屋へ、時々間木老人が訪ねて来るやうになつた。宇津が豆腐殻に残飯を混ぜて、動物達の食餌を造つてゐると、老人はこつこつとやつて来て、宇津の仕事振りを眺めたり、時には手伝つてくれたりした。今まで見たことのない老人の姿に、猿が鉄の網に縋つてキヤッキヤッと鋭く叫んで、初めの間騒いで困つたが、だんだん馴れて来ると、老人は、甘い干菓子を懐に忍ばせて来て、猿に握らせてやつた。が老人が一番可愛がるのは、小さな白鼠で、赤い珊瑚のやうな前足で一つびとつ飯粒を掴んで食ふ有様を見ると、素晴しい発見のやうに喜んだ。鼠癩に罹つたのを見る時は、大てい貌をしかめて、余りその方へは行かなかつた。