Chapter 1 of 10

七月二十三日

夕方だのに汽車は大へん混んでゐた。大部分は輕井澤へ行く人たちらしい。私の前には「天國新聞」といふのを束にしてかかへてゐる牧師さんがひとり。向隣りの席には、洋裝をした十九ぐらゐのお孃さんと、その連れらしいゴルフ服を着た中年の紳士の二人づれ。その紳士はそのお孃さんの叔父さんぐらゐの年輩だが、さうぢやないらしい。ほんの知合と云つたやうな樣子である。……それにしても高崎までの汽車の中の暑苦しいことと言つたら! 私は明日からどうしても書き出さなければならない小説の構想を汽車の中ですつかり組立ててしまふつもりだつたけれど、それどころぢやないのである。私はしやうがないので、自分の前の牧師さんが輕井澤でする講演の材料にでもするのか、「天國新聞」の束を一つづつめくりながら、その一齣を丁寧に折り疊んでは、その折目のところを舌でなめて、指先で切り拔いてゐるのをぼんやり眺めてゐた。が、それにも見倦きると今度はお隣りのゴルフ服の紳士とお孃さんの會話に耳をかたむけた。紳士、「去年の夏は何處でお暮らしになりましたか?」お孃さん、「瑞西のチロルで――」なかなか味をやるぞ。しかしお孃さんは輕井澤は始めてだと見えて、今度は紳士に向つて輕井澤のことをいろいろ質問してゐる。輕井澤のことなら俺に聞いて呉れりやいいのに。

「私の別莊など人力車も這入らないくらゐですよ……(紳士がお孃さんの質問に答へてゐる)……子供たちは自轉車で往復します……私もずゐぶん練習したですが、どうもうまく乘れんですな……もう年が年ですからな……うちの百合子などの方が私よりずつとうまいですよ……あなたは自轉車はどうです?」

「自轉車はまだ乘つたことがありませんの……けれど、オートバイなら少し……」

「ほほう!」

「でも、こちらで乘りましたら皆さんに笑はれましたわ。」

「しかし輕井澤ぢやようござんす。婦人がみんな馬や自轉車に乘りますからな……」

なかなか愉快なことを言ふお孃さんである。

「あちらで山登りでもなさいましたか?」

紳士が質問する。

「ええ、ユングフラウへ一度……」

「ユングフラウ? ……妙義山があれによく似てゐると西洋人が言ひますがね……晝間だとこのへんから丁度見えるんですが……」

あいにくもう日が暮れてゐた。碓氷峠にかかつた。アプト式になる。がたん、がたん、がたんと車體が無氣味に搖れる。

「だいぶ搖れますな」

「ええ、でもこれには慣れてゐますの……シベリア鐡道が丁度こんなでしたから。」

夜の九時ごろ輕井澤驛に着く。連れの紳士がそのお孃さんの黒いトランクを下してやつてゐる。私はそれに M. T. A. といふ頭文字のついてゐるのをちらりと見る。

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