Chapter 1 of 2

閑古鳥

或る夏、一つのさるすべりの木が私を魅してゐた。ホテルの二階の窓から、私は最初その木を認めた。其處からは、丁度物置かなんぞらしい板屋根ごしにその梢だけが少し見えてゐたので、私はそれをホテルの木だとばかり思つて、ときどき何といふこともなしにそれへ空虚な目をやつてゐただけだつた。……或る日、ホテルの裏の水車の道の方へ散歩に行つて歸つてきた私はいつものやうに裏木戸から這入らうとすると、その日はどうしてだかそれが閉つてゐたので、仕方なく、いつもあまり通つたことのない、ホテルの横の、ギヤレエヂや運送店などのある、狹い横町を拔けて行かうとした時、私はふと道ばたに置かれてある一臺の空の荷馬車の傍らに、一本の美しい樹木の立つてゐるのに氣がついた。はじめにその根かたにいくつとなく眞つ白な花が散らばつてゐて、それが何とも云へぬ好い匂を漂はせてゐるのに氣がついて、それから漸つと注意深く見上げてみると、その青い葉ばかりに見えてゐた樹木は點々とその眞つ白な花を咲かせてゐた。それはこんな山間の村には珍らしい種類のさるすべりだつた。その上、その葉の茂みを透かしながら、籬の向うのホテルの物置小屋ごしに、私の部屋の窓が見えてゐた。私はこんなところにあらうとは思はなかつたこの美しいさるすべりの木を、それまで物置の隅に立つてゐる何の變つたところもない木だとばかり思つてゐたのだつた。……私はさるすべりの木がホテルのものとも、前の運送店のものとも、又その筋向うの煙草屋のものともつかず、三方でそれを自分のところのものだと主張してゐる擧句の果、いまだにそんなところに打ち棄てられたままにされてゐるのだと云ふ話を聞いたのは、夏ももう末近くなつてからだつた。それは私にはいかにもこの村らしい――それまで昔の俤もないやうな廢驛になり果ててゐたのが、近頃急に避暑地として發展し出してゐるこの村らしい插話の一つに思へたものだつた。……さういふ噂はともかくとして、その日からと云ふもの、一夏ぢゆう、その木は私を魅してゐた。毎日、私は少年時の思ひ出に充ちた小説を書き續けながら、ときどき筆をおいては、窓の中から、絶えず花をつけてゐるその木を物置小屋ごしにぼんやりと眺めてゐた。さうしてときをりその木の下をギヤロツプで通り過ぎる馬の足音に驚かされるのだつた。やがて木の蔭から、籬ごしに、眞つ白な乘馬服をきた少女が快活に馬を驅つてゆく姿が見え出した。そのうしろからは、いつもきまつて二三人、色とりどりなジヤケツトをきた青年達が自轉車に乘つて、何やら叫びながら、ついて行つた……

そんな風にしてはじめてその木を見つけたその數年前と同じ場所に、恐らく殆ど誰からも氣づかれずに、一夏ぢゆうこつそり咲いてゐるそのホテルの裏のさるすべりの木の傍らに、以前とはすつかり變つて、もう三十にもなつた私は、或る七月の雨上りの夕方、その滑らかな木肌に觸れんばかりにして立つてゐた。數年前と同じやうにその木はいくつも眞つ白な花をつけながら、又、いくつかの花は既に散りながら……しかし、嘗つてその木の下を愉しさうに馬に乘つて通り過ぎたあの少女はこの二三年前からぱつたりその姿を消してしまつた。その他、私がこの村でよく見かけたいくたりかの少女もその後絶えてこの村に姿を見せない。……私がそこでひと夏小説を書きながら過ごしたあのホテルの部屋は相變らず木の上に見える。唯、前よりか少しけばけばしい色でペンキを塗られて。さう云へば、部屋全體も前よりかいくぶん見えにくくなつてゐるやうだが。これで、この老木はまだ少しづつ大きくなつてゐるのだらうか? ……あの部屋で私の書いた小説に出てくる私の少年時代の戀人は、私の知らない間に、結婚をして、さうして若い母になつて、しばらくして死んで行つたと云ふことを、私が聞き知つてからもう大ぶになる。が、いま、この懷しいさるすべりの木の傍らに立つてゐるうちに、私ははじめて、私の失つたものが何であつたか、私は自分の少年時の掛け換へのない戀人を失つたのであることを、胸が痛くなるほどはつきりと感じ出した。私の失つたもの? ……さう、さう云へば、なんでも長い間アメリカに留學してゐた彼女の姉は去年の夏からここの隣り村にある或るミツシヨン・スクウルのコツテエヂに舍監として來てゐるといふやうなことを何かで聞いたけれど、一度私は其處へ訪れて見たいものだ。あのいつも眞面目に勉強して、誰からも尊敬されてゐた、あの姉さんはいまどんなになつてゐるだらう? 恐らくはいま會ひに行つても、私の求めるやうなものは彼女からは何一つ得られないやうになつてゐるかも知れない。……だが、いまは彼女だけが私を私の失つたものに結びつけてくれる、生きた、まだ若い唯一のものだ。どんな風にだつていいから、いまのうちに一度彼女に會つて置きたい……と、そんな考へをとつおいつし出しながら、私はいつとはなしにそのさるすべりの木を背後にしてゐた。

とある朝、深い霧のなかを私は隣りの驛まで汽車に乘り、そこからまた空つぽのバスに乘つて、山の麓に散在してゐる二三の古い小さな部落を通り過ぎながら、だんだん霧が晴れあがり出した時分に、そのO村に着いた。桑やキヤベツの畠の間に二十ばかりの農家が散らばつてゐるきりのその村の中程から、村の人に教へられた通りに、私は北を向いて、無數の落葉松に掩はれた山腹の方へしばらくの間爪先上りに上つて行つた。二つ三つ薄暗い林を拔けて、すこしそこいらが明るくなつたところに、更らに何處までも續いてゐさうに思へる落葉松林を背負ひながら、一つの丸木造りのコツテエヂが認められた。が、そのコツテエヂの入口がだんだん近づいてくるにつれて、私はどうも普通の訪問のやうにして行くのは工合が惡いやうに思ひ出しながら、急にその中にはひつて行くのを躊躇しはじめた。彼女に會はないで、このままこの村に來ただけで、歸つてしまふのもいい。……さうだ、さうしよう。私は一人でこのあたりの林の中を歩いて見よう。會つたつてどうせこれまでも私とあまり打解けて話し合つたことのない彼女を當惑させる位が落ちだらう……そんなことを考へつづけながら、私は急に足を早めてそのコツテエヂの前を素通りして行つた。さうしてそのコツテエヂが再び木立の蔭に隱れてしまつたのを確かめると、私はそれまで私の心をしめつけてゐた妙な息苦しさから釋放されると同時に、何んだか取返しのつかないことをしてしまつたやうな悔いに近い氣持もしだした。私はますます足早にその林の中を上つて行つた。しかし、どこまで行つても同じやうな落葉松の林だつた。私は引つ返しだした。とうとう他の道を見出せなかつた私は、やむを得ず、再びコツテエヂの前を通つてゐる先刻の道を下りて行つた。再び心臟をしめつけられながら。……そのコツテエヂが否應なしに近づいてくるのを見ると、今度はその前の坂を利用して、二人の女學生が自轉車の練習をし合つてゐた。彼女達は山を下りてくる私の姿には氣づいてゐるらしかつたが、私の方へは一度も目を向けずにゐた。私はそのまま默つてその傍を素通りしてから、丁度そこがコツテエヂの入口になつてゐるのを認めると、不意に彼女達の方へふりかへつて、何氣なささうに、

「C……さんはいらつしやいますか?」といかにも親しい者の名前を言ふやうに訊いた。

「ええ、いらつしやいます」彼女達の一人が、即座に、まるでその問ひを豫期でもしてゐたかのやうに、私の方へは顏も向けずに、無愛想に答へた。

しかし私は、さう訊いただけで、それだけで滿足したやうに、中へは這入らうともせずに、寧ろ前よりも足を早め氣味に、そのコツテエヂから離れて行つた。

突然、私の前には數本の大きな古い樅に取圍まれた小さな墓場が現はれ出した。私がそこに達したとき、それが更らに大きな墓地の一部にしか過ぎないことが分かつた。私は構はずにその中にはひつて行つた。その墓地はその村ぢゆうをずつと見渡せるやうな小高い場所にあつた。その村の丘は、その森や桑畑と共に、ずつと向うの谷間らしいところまで下つて行つてゐた。其處からまた大地は、大きな森に掩はれながら、再び丘をなして高まつてゐた。私はさういふ思ひがけず展けた風景を見渡しながら、しばらくぼんやりとして佇んでゐた。

先刻、私はコツテエヂから村への下り道を來るときとは異つたのを撰んでゐるうち、その見知らない道は反對にだんだん上り氣味になつてきたので、これは間違つたかと思つて、すこしその道を續けることを躊躇しかけてゐたとき、私は一人の村の者らしい男とすれちがつた。その男は私とすれちがひながら、村の言葉で、慣れ慣れしく私に挨拶して行つた。その見知らない道で少しまごまごしてゐた私にはそれがいかにも異樣に聞えた。……途端に、その林のすべてのものが不意に私には何か前から親しみ深いもののやうに思へ出した。それから私は構はずにその見知らない道をよく知り拔いてゐる道でも歩くやうに歩いてゐるうちに、それがますます不安なくらゐ草深くなり出したと思ふ間もなく、突然、そんな墓場が私の前に現はれ出したのだつた……

あつちにも一かたまり、こつちにも一かたまりといふ風に、家々の墓をそれぞれ取圍むやうにしながら、大きな下枝をすこし垂れ氣味にさへ擴げてゐる古い樅の上方で、私の知らない小鳥たちが私にも恐れずに啼きながら、しきりに枝移りしてゐるのに半ば注意しながら、私は半ば足もとの、それらの多くは墓とは名ばかりのやうな石塊に注意してゐた。何といふ冷たさ! 何といふ靜けさ! 私はそれを快げに味ひながら、自分でも知らずに自分がそれまでかなり上氣してゐたことに氣がついた。……私は遂に墓地の一番奧の、四五本の古い樅の間に、苔の生え、蔦のからまつた、腕の折れた、小さな佛像がいまにも倒れさうになつてゐるところまで行つて見た。それはあたりの墓を守つてゐると云ふよりも、それ自身がもつと忘れ去られた墓ででもあるやうに見えた。が、さういふすべてのものは私には少しも異樣に感ぜられなかつた。さうして以前から私はこんなことを夢みてゐたのであつて、いまはただそれを現實でやつてゐるだけだといふやうな氣さへされ出してゐた。さうして私は、何度も何度もすつかり文字の摩滅した墓石の前にそれに何かの意味が見出せでもしはしないかといふやうに、いつまでもぢつと佇みながら、さうやつてゐる努力のうちに自分の生命を僅かに感じてゐた。

その墓地を縁どつた、一列の栂の木の彼方には、太陽の下にずつと桑畑がゆるやかに傾きながら擴がつてゐた。その眞ん中を一本の道が向うの落葉松林の中から横切つてゐた。その桑畑の南側にすこしばかりクロヴアなどの生ひ茂つた墓地があつて、それに數本の栂の木が快ささうな日蔭をつくつてゐた。疲勞といふよりも、一種の快さの豫覺が私をその木蔭に寢ころばせた。私は組み合はせた兩腕を枕にして、半ばあたりの風景に、半ば自分の裡のさまざまな思ひに、しばらくは放心したやうな状態になつてゐた。

それは長い沈默だつた。それから自分にも何のことやら分らなかつたやうな私自身の私語、それからまた沈默。……ときどき私は目をつぶりながら、或る少女の顏のびつくりするやうな青白さ、その放心してちつとも目じろがない目つきを空に浮べた。そんな幻像は一分位續いた。それから私は何かしきりに片言のやうなものを口ごもつてゐる。やつと私自身でそれに氣がついて、それまで絶えず繰り返してゐたにちがひないその文句に、はじめて自らそれに耳を傾ける……

われは死者をもてど、彼等をして去るがままにす……

さう、さうだとも、――死者達は私達から靜かに立ち去つて行くがままにさせよう。彼等の裡に生への郷愁のやうなものを掻き立てて、私達の悲しみや苦しみに立ち入らせることがいかに罪深いことか! ……もう三十にもなつた私は、人生といふものが男達にとつてよりも女達にとつていかにより悲劇的であるかを漸く知り出してゐる。が、私はそれと同時に、さういふ偏つた人生をも素直に受け入れてゐる女たちのあることを知り得た。……私が少年時に偶然に出會つて、無邪氣に自分の戀人のやうに仕立ててゐた、少女もさういふ一人だつたのだらう。私達が別れ別れになつてしまつてからも、私はときどき誰からともなく聞いて知つてゐた。彼女が長いこと病氣をしてゐたことを、それから彼女が結婚をしたことを、それから間もなく母になり、そのうちまた病氣が再發して、長いこと患つてとうとう身まかつたことを。……まだ若い彼女には母になることが恐らく無理だつたのだらう。が、彼女は默つてその長い、困難な仕事に堪へた、さうしてその母の仕事を仕上げぬうちにあへなくも死んで行つたのだ。……それもまた、そのままで、何とも美しい、小さな人生であるのではないか? ……さうやつて靜かに、誰にも知られずに、その長い仕事に勵みながらそれを完成し得ずに、しかもいささかも心殘りなく死んで行つた者を、いま私が再び自分の生にまで呼び戻して、何か心殘りのやうなものを彼女自身にも感ぜしめようとしたのは何といふ罪深いことだつたらう! ……さういふお前自身よりもお前についてはよく知つてゐるかも知れないお前の姉のところに、かうやつて私が會ひに來ながら、しかも會はずに歸つて行くのは、私達には一番自然なことだつたのかも知れない。さう、それは大層よいことであつたかも知れないのだ……

クツクウ、クツクウ……向うの林で閑古鳥が啼き出した。その啼き聲は一層高くなつたかと思ふと、不意にそれは消えた。

私は半ば身を起してみた。そのとき、私は向うの林の中から、一人の少女が自轉車を走らせながら、桑畑の中を突つ切つてくるのを認めた。

彼女は快活さうに唄つてゐた。彼女は私を認めると、急に默つた。が、私からすこし遠ざかると、再び唄ひ出した。

私はやつと立ち上がつた。さうしてときをり思ひ出したやうに閑古鳥の啼いてゐる林の方へ最後の一瞥を與へながら、思はず溜息をしながら、いまの少女が自轉車を走らせていつた道を村の方へゆつくりと下りて行つた。もう眞晝に近いらしかつた。村には全く人氣が絶え、火山砂の村道ばかりが白じらと光つてゐた。私がその村道へ出かかつた途端、突然けたたましい爆音を立てて、大きな荷を載せた一臺のトラツクが一面に埃りを上げながら、まるで空虚な村でも通り拔けるやうに、傍若無人に疾走して行つた。私はいそいで道ばたの栗の木蔭へ身を避けながら、そのトラツクの立てた埃りを行き過ごさうとした。さうしてその栗の木に手をかけたままで、しばらくじつとしてゐると、その埃りのまだ消え去らぬ間に、また何處か遠くの方で閑古鳥の啼くのが聞えてきた。

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