第一章
サックビル・メインはまだしらふで、相客もほぼそうだった。モーニントン・アームズ・ホテルの大理石時計が時を刻んでいる。メインは長年の酒びたりでも、領主の雰囲気を失ってない。でも領主に必要な領地はとっくに失くしていた。
夕餉の礼儀作法も失ってない。丁重に讃えた夕食は、相客カブア公爵が旅行中にもてなしてくれたものだ。ワインなどこれ以上望めないほどだった。
相客のカブア公爵が完璧な英語で言った。
「嬉しいですな。また会えて。ナポリで最後に会ったのは何十年も前でしたな」
メインはすっかり忘れていた。自分の記憶より公爵がずっと信頼できる。メインの知ってることは公爵が述べた時分、ナポリにいたことだけだった。
相客のカブア公爵は初老のだて男、目が細く、滑稽なほどピンと口ひげを伸ばしている。眼鏡越しにうなずいて言った。
「楽しかったですな。二十年も前か。全くだ。でも昨夜ビリヤード室で君を見たとき、すぐ分かったよ。近頃どんな馬を走らせているんだい」
メインが相好を崩した。弱点を突かれてしまった。家族崩壊元凶の放蕩息子を溺愛する母親のように、まだ競争馬にご執心で、それが破滅の原因だった。
「すっかり落ちぶれてしまいました。全く自分がウサギ小屋に住んでるなんて信じられない。ささやかな道楽がありましてね。ダービー優勝馬を二頭も繁殖、出走させたことを自慢できる男はそういませんよ」
「かつてのゴドルフィン血統馬ですな」
とカブア公爵が探りを入れた。
メインがうなずいた。両者には一つの接点があった。公爵のことはゴータ年鑑で当時ちらっと知っていた。同年鑑の記録によれば、カブア公爵は競馬狂。
メインはほろ酔い気分で、なんでそんな偉い人物がモーニントンにいるのかといぶかった。
カブア公爵が尋ねた。
「まだ競馬を?」
「あ、いや、出来ないのですよ。出来たらいいのですが。来週オールドマーケットで行われる王立クラレンドン賞の決勝戦に若駒を登録したんですが、差し押さえのはめですよ。私の若駒バーシニスター号ならどんな競争馬も蹴散らして、ああ本命馬のリアルト号にも勝てます。不調でも」
「その意気だ、君、そんなに凹むことはないぞ」
メインがグラスを見てにっこり。うまいワインで、こころ持ちがほぐれた。同時に自信を取り戻した。
「そうですね、少し元手があれば、道が開けるのですが。千ポンドで魂を売りますよ」
「男ならその額で危険を冒すものだ」
「ええ、人殺し以外なら、何でもやりますよ」
公爵は黙って、煙草を細い指でいじった。初老の痛風患いで、頸動脈辺りがうっ血気味の紳士にしては、しわの無いがっちりしたきれいな手だ。
「危険を冒さず千ポンド手に入れられますぞ。金を受け取り、黙っているだけで」
「なんてうれしい。で、条件は?」
「たった一点、あなたの若駒バーシニスター号の借金ですよ。王立賞でひと儲けしましょう。あなたの馬をあした指定の厩舎に送ってください。そうすれば、後日行われる王立クラレンドン賞で勝てますな」
「一ヶ月以内では無理ですよ」
公爵がニヤリ。小さな両目に奇妙な輝きがあった。
「もちろん手違いが色々あるでしょう。どっちみち、バーシニスター号の勝敗は関係ない。想定内の些細なこと。問題はですな、金を払えば馬が手に入りますか」
「その質問ですが、もちろんオーケイです」
「よかった。いいですか、極秘ですぞ。あなた名義で出走させますから、馬をオールドマーケットにあるガンター厩舎に送ってください。バーシニスター号の勝敗は関係ない。本命馬は同額賭金で堅いから、私なら賭けない」
メインは無造作に承知した。悪意をちっとも感じさせなかった。当時の常識では、競馬界の公爵に元々道徳が無いのは清掃員以上だった。そこで応じた。
「金さえもらえれば同じことです。ところで、王立クラレンドン賞の次に銀溜杯がありますけど、もう出走馬の登録はされましたか」
「私の繁殖馬のコンフェティ号を登録したよ。残念だが勝てない。賭け率は四十対一の不利だ。私が英国にいることは数人の友人しか知らない。たぶん賭け率はもっと悪くなるだろう。すぐ分かるよ」
メインが催促した。すると、公爵がポケットから一千ポンドの札束を取り出して、言った。
「明朝オールドマーケットに行くよ。だがカブア公爵としてじゃない。実は故あってスミスと言われているんだ。私に連絡を取りたかったら、必ずガンター調教師を通してスミスの名前でそうしてくれ。くれぐれも、このことは内密に」
しばらくのち、メインは荒れ道を我が家へ向かった。モーニントン郊外にあった。
*
一方のカブア公爵、別名スミスはホテルの居間に籠った。いったん煙草をつけ、扉に鍵をかけた。手品のようにかつらと付け髭を取り、しばし素性を表わした姿はフィリックス・グライド本人だった。
椅子にふんぞり返ってつぶやいた。
「ええと、俺の立場だが、今はカブア公爵だ。変装して、あの有名人の姿を拝借して、カブア公爵に化けて、格の違いを見せつけた。当分の間、本物はジェノバの個室に監禁してある。このことは誰も知らない。更にことを安全に運ぶために、俺は勝手に出歩かない。ただし、胴元から金を引き出す最終場面は別だ。まさか誰も知るまい、銀溜杯の出走馬コンフェティ号がカブア公爵の若駒じゃないなんて。策を弄して、このヤマで十万ポンド儲けてやる。その資格がある。だって、まるまる一年、心血を注いで計画したのだから」
そう言いながら立ち上がり、やおら鍵付き箱を開け、中から大きな写真を二枚取りだした。両方とも馬の写真だ。同型の感光版で撮られている。ためつすがめつ眺めた。
「そっくりだ。誕生月が同じ、斑点も同じ、みんな同じ。両馬はゴドルフィン血統だろう。まったくどっちがメイン所有のバーシニスター号か、クラレンドン重賞本命馬であるジョージ・ジュリアン卿所有のリアルト号か、わからん。メインはなんて言うだろうかなあ。俺がこの写真を撮るために六週間、張り付いていたのを知ったら……。大成功が転がり込むぞ」