第一章 貴族階級
女の目に、むなしい怒りと絶望の涙があった。危機は重大だが、回避は簡単。青鹿毛の進路を変えさえすれば……。はみを引いて止めさえすれば……。手袋がびりっと裂け、きしゃな白い手首に青筋が浮いた。
だが依然として馬は岩道を駆け、墓地門へ突進している。すぐに門を通り、墓地へ突っ込む。もう、じたばたできない。門のアーチで鞍からたたき落とされ、一撃で命を失う。メアリ・ダッシュウッドにはよくわかった。あと数分の命だ。
歯を食いしばり、自慢の青い瞳から溢れる涙を、まばたきして払った。怖くなかった。今まで一族に臆病者はいない。しかし残念だ。
道の両側にはブナの大木が植わり、空は真っ青、小鳥のさえずりも聞こえる。よわい、わずか二十二歳、命は風前のともしびだった。
瞬間が近づいてきた。相変わらず青鹿毛は突き進んでいる。墓地門が見えてきた。鞍から身を投げたら、傍らの岩に当たって、ぐしゃぐしゃになる。青鹿毛には乗るなと常々注意されていたのに。身をかがめ、頭上の枝を避けると、帽子がはね飛ばされ、形のよい頭から、栗色の髪がきらきらたなびいた。
森の右側で、ばりばり小枝の音がした。百メートルほど先、高い柵越しに顔が見え、路上にかかる樫の大枝に男が登っている。ひょっとして女の危険を察したか。多分そうだ。というのも大枝に片足をかけて、両腕を路上に広げたからだ。冷静にはっきり叫んでいる。
「脇に寄せろ。近づいたら、手綱を放し、あぶみを外せ。恐れるな」
ほとんど命令調だった。
青鹿毛の巨体が突進中。危機のさなか、見えた男の両腕は強力で褐色、やれそうだ。
すべては一瞬で簡単に終わったので、危機など無かったかのようだった。男の腕は暖かくしなやかだが、鋼鉄のように強靱で、女の細腕をつかみ、軽々と鞍から持ち上げた瞬間、両足が路上にぶらんと浮いた。ダッシュウッド家の誇りと勇気も形無し。ただの女性、ほとんど路肩で失神している。
女がやおら目を開けて見れば、強力な男の腕で腰を支えられている。高貴な美しい顔がさっと紅潮した。半ば驚くや、半ばうれしや、男の顔を見たとき、ますます赤面した。
「ダーンリさん、ここで会うとは思いもよりませんでした。二年ちょっと前にも、パリで命を助けてもらいました」
「覚えていてくれてうれしいよ。再会はそんなに変じゃない。やみくもにここへ来たわけじゃない。用事があっただけだよ。公園を通れば解決すると言われたからだ。出発して雑木林を通っていたら、きみの窮地が見えて、急いで助けたのさ。あとはあの木のおかげだよ。ただ気になるのは、きみがここに居たってことだなあ」
「ちっとも変じゃありません。ふふふ、ここの邸宅が自宅なのですから」
普通に事実を述べただけなのに、ラルフ・ダーンリの心にぐさりと刺さったようだった。日焼けした褐色の顔がさっと青ざめた。澄んだ茶色の瞳に様々な疑惑が浮かんだ。
「よ、よくわからないな。二年前にパリで会ったときはメアリ・マロリイという名前では……」
「ええ、メアリ・ダッシュウッド・マロリイでした。当家のあるじが生きていましたから。二年前に亡くなりましたが、一人息子はどこか海外で数年前に死亡しました。とても悲しいお話です。父が爵位と邸宅を相続しました。現在ジョージ・ダッシュウッド卿です。姓が変わった理由がおわかりでしょう」
「ああ。知らなかった。しかしまあ、何と由緒ある広い土地と豪邸なんだろう。ここで育って気に入ってるだろうね」
メアリの高慢な態度が消え、気品が残った。
「好きよ。草木全部好き、人生そのものなの。ここで育ったようなものよ。父が大使館勤務で、母は若くして死んだものだから、誰かに面倒を見てもらう必要があったの。子供時代はここで祖母と過ごしました。祖母は、いま離れに住んでいます。すてきなお方です」
だが、ダーンリは上の空だ。必死に自制心を取り戻そうとしている。夢を見ているようだ。
「気持ちはよくわかるよ。ダッシュウッド家が三百年間ここを治めてきたそうだね。豪邸だし、世襲の家宝は値がつけられないとか。おっと失礼」
メアリが感づいて見上げた。
「ダーンリさん、なんだか悲しそうですね」
「夢が消えたからだよ。きみの父上はパリで貧しかった。今はちょっと立場が上がったけど。パリでの最後の夜を思い出してごらん」
メアリのほほに再び朱が差した。
「ええ、でもダーンリさん、あれで終ったのよ」
「違う。終っちゃいない。きみに一目惚れした。死ぬまで愛し続ける覚悟だ。求婚したが断られた。ダッシュウッド家の女主人になる人が、カリフォルニア牧場のせがれのところへは行けないとか。でも僕は生まれながらの英国紳士だよ。拒絶は冷静に受け止めたけど、大ショックだった。きみしかいない」
「ごめんなさい。できません。たぶん昔気質にしつけされたせいですね。同じ階級同士で結婚するのがダッシュウッド家の家訓なのです。昨今の成金やお騒がせ人は当家の敷居をまたげません。父は投資が好きですが、仕事仲間を家へ入れることはありません」
ダーンリが苦笑い。ありし日のパリを思い出した。メアリの父がいかがわしいパリの株屋と親しくしていたからだ。
「話がずれてきたようだが、とにかく拒絶されても、こたえないよ。失うものがないから。僕の父は優良銀山を残してくれたが、シティの詐欺師どもに乗っ取られてしまった。すっかり信じたばっかりに。その最悪な相手がホレイス・メイフィールドだった」
今度はメアリがばつの悪い番だった。美しい顔がまたもや赤面した。
「メイフィールド氏なら知っています。父が唯一、家へ招く仕事仲間です。例外的に認めています。関係が深いからです。率直に言えば、好きじゃありません。でも、まさか……」
「根っからの冷血な金融悪党だよ。信用したばっかりに文無しにされた。世間は本当だと言うよ。無一文になったので、身内の財産がないか探しに来たわけさ。そうしたらきみにばったり会って、また純情に火がついて、死ぬまで燃え続けようとしている。おかしいと思うかもしれないね、貧乏人がダッシュウッド家の令嬢にこのように話しているから。でも僕は若いし、強いし、能力があるから、自分の王国を必ず手に入れてやる。それに愛は何にも代えがたい。お金とか地位とか、出自よりも尊い。ああ、いま僕を愛していると言ってくれたらなあ。きみは本当に美しい。誇りの裏には女性らしい真心が脈打っている。願わくは時期が来て、良縁に恵まれますように。喜んでその男性にゆだね、握手しよう。だが俗物、つまり名門爵位だけを目当てに不埒を覆い隠そうとする悪党の妻になったら、とても耐えられない。その男を殺しかねないよ」
ゆっくり、はっきり、すぱっと言い切った。冷静だったが、震え声だ。女を引き寄せ、両手を相手の肩に乗せ、底知れぬ青い瞳を見おろした。
妙なことに女は怒らなかった。ほかの男なら、無礼な振る舞いだったろう。この男にはなにか強く引きつけるものがある。男の妙な優しさと自信にぞくっとし、愛されている自覚があった。まさに告白通り、文無しだろうけど、お金を取り戻すのは強い男しか成し得ないのかもしれない。
ダーンリがとても穏やかに優しく言った。
「好きなんだ。愛してる。これ以上何も言えない。きみの気位と氷が溶けるまで見届ける。真の女らしさが花開くまで見届ける。その日がいつか来る。善良な男の心をつかむほうがダッシュウッド家を自慢するよりも、ずっと誇らしいよ。眉をひそめるかもしれないが、やがて真実だとわかる。その間、僕は絶望的だね」
メアリの声が震え、涙目になった。
「できません。あなたが善良で正直なことはわかっています。でもごめんなさい。愛なんて、単なる名目です。あなたは命の恩人ですし、感謝しきれません。時が来ればですが……。わがままですね。あら、あなたの腕、傷から血が。鞍から持ち上げたときに違いありません。邸宅へいらっしゃい。すぐ手当てしなければ」
「必要ない。でも、行こう。たいした傷じゃない。馬を捕まえてから一緒に行こう」