Chapter 1 of 9

重苦しい八月の太陽が巴里を押しつけていた。ウイリアム・ル・キュウ氏は、サラ・ベルナアルの招待を受けて、巴里郊外アンジャン・レ・バンの湖岸に建っているサラの別荘の午餐会へ出かけて行った。別荘は大きな白※の影を静かな湖面に落として、遠くからは上下につながって二倍に見えていた。

食堂の開かれる前ル・キュウ氏は、同じく招かれて来ていた二人の紳士と、マリイ・ドルニヤックという、髪の毛の黒い、活発な少女と一緒に、景勝の地として有名なその湖上にボウトを浮かべて時間を消した。ル・キュウ氏は、その二、三個月前に、トゥルに近い知人の家でこのマリイ・ドルニヤックに紹介されて、顔見識りの間柄だったのだ。サロンのヴェランダから、美しい芝生の傾斜が湖に続いていた。四人は同じ汽車で巴里から来て、すこし早く着き過ぎていたので、食堂があいて呼び込まれるまでボウトを漕ぎ廻った。

ウイリアム・タフネル・ル・キュウは、有名な英国の老大衆作家だ。小説家として亦旅行家として広く知られていて、多くの冒険並びに探偵物の作品があり、「モンテ・カアロの秘密」、「勝利への道」等、今では些か古いが、彼の得意とする密偵ものなど、一頃は日本でも、可成り愛読されたもので、探偵小説の読者には、懐しい響きを持つ名前である。

食卓でル・キュウは、古くからの相識であるゾラ夫人と並んだ。エミル・ゾラの夫人だ。ゾラが晩年に近い頃だから、――ゾラの死んだのは一九〇二年――この話しはそんなに古いことではない。一九〇〇年の八月だった。

すると、ル・キュウの右側に、一人着飾り過ぎた、肥った婦人が坐っていて、何やかやとル・キュウに話しかけたのだが、正式に紹介されたわけではないし、それに、あまり人好きのするタイプでもなかったので、彼は、食事の合間に、いい加減に応対していた。その婦人は、何方かと言えば余り教養のない、智的でない人のようにル・キュウは観察した。言葉に田舎訛りがあった。のみならず、その田舎訛りの会話の到るところに、盛んに巴里人の通語を挟んで振り廻していた。妙にちぐはぐな効果だった。

ゾラ夫人が、ル・キュウを越してその婦人に言った。

「まだこの方御紹介申し上げませんでしたわね。ウイリアム・ル・キュウさんです。宅のお友達ですの。矢張り作家の方でいらっしゃいます」

夫人は、良人のエミル・ゾラのことを言うとき「愛するエミル」という言葉を使った。

ル・キュウに対する婦人の態度は、忽ち変った。それは、単に食卓で並んだという形式的なものから、急に全身的な微笑と愛嬌への躍進だった。これがテレサ・ウンベルト夫人だった。が、ル・キュウは、夫人の名前を聞いても、何ら格別の興味も注意も呼び起しはしなかった。社交会の午餐では色んな人に会うのが常だし、ことにあの名女優サラ・ベルナアルの招待だから、各方面の一流で食堂は一杯なのである。ル・キュウは、マダム・ウンベルトを何処かの金持の無智な夫人と許り思って、無礼でない程度にあしらっていた。

当時得意の絶頂にあったサラである。ちょうど合衆国と加奈陀の巡業から帰仏した時で、サラを中心に食卓の話題は多岐に賑わって往った。が、ル・キュウの隣のウンベルト夫人は、しばらくその饒舌を収めて、何かしきりに考えている様子だった。やがて言った。

「お仕事のほうは如何ですか。お名前はよく存じ上げております。ずっと昔あなたのお父様にお眼に掛ったことがありますの。今それを考えていたのですが、やっと思い出しました。サラからも始終お噂を伺っております。エミルのお友達でいらっしゃいますってね。あの偉大なエミルの! そして、あなたも小説をお書きになるとは、まあ何というお羨しいことでしょう。御成功をお祈りしますわ。わたしは作家の方が次つぎに立派な御本をお出しになるのを拝見しますと、あれ程楽しいお仕事はなかろうと何時も思います。私の妹のマリイを御存じのようですね? マリイ・ドルニヤック。先刻ボウトに乗せて頂いているのを見ました。こう申上げれば、私が誰であるかお解りでしょう」

しかし、それでもまだル・キュウはこのウンベルト夫人が何者であるか思い出せなかった。

仏蘭西の田舎トゥルウズの洗濯娘が、雇主の息子と結婚して巴里へ出た。そして直ちに或る巧妙な物語を唯一の種に全市を煙に巻いて吸血鬼のように他人の財産を吸い取り、殆んど一生涯、真に無一文の身で大富豪の驕奢を擅にしたのだ。この巴里に於る一田舎女の驚くべき「大成功」こそは、近世における最大の傑作と目されている有名な詐欺事件である。じつに二十年の長きに亙って、無資産の洗濯女が皇女のような生活を続けた。文字通りの赤手空拳で、ただ頭脳の働きと口先一つで国際的な名流に伍し、社交界の花形と立てられて凡ゆる栄耀栄華を極めたという、全く活社会を背景にした一つのお伽噺とでも言いたいほど、それは不可思議な事実談なのだ。

田舎の洗濯女テレサ・ウンベルト夫人が私かに自分のために書き下ろして、その一生をもって独演した名狂言だった。

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