Chapter 1 of 5

強ひては生活のかたちに何んな類ひの理想をも持たない、止め度もなく愚かに唯心的な私であつた。――いつも、いつも、たゞ胸一杯に茫漠と、そして切なく、幻の花輪車がくるくる廻つてゐるのを持てあましてゐるだけの私であつた。廻つて、廻つて、稍ともすると凄まじい煙幕に魂を掻き消された。

私は、そんな自分を擬阿片喫煙者と称んでゐたが、私の阿片は、屡々陶酔の埒を飛び越えて、力一杯私の喉笛を絞めつけながら怖ろしい重味で今にも息の根を止めようとするかのやうな勢ひで覆ひかぶさることが多かつた。

私の無上の悲しみは、私が、私の幻を幻のままにこの世に映し出す詞藻に欠けて、余儀なく、凡そ自ら軽蔑し去つてゐる筈の、在りのままの身辺事を空しくとりあげては、さまよへる己れの姿に憐れみを強ひられる嘆きであつた。地上で出遇ふ「悦び」や「悲しみ」――そして、あらゆる出来事に対して、何か私は縁遠い妄想感を抱いてゐるといふかの如き自覚! それ自体が、不断の嘆きであつた。そして、また私は、事毎に、この世で出遇ふあらゆる出来事に、在る間は、惑溺し、熱中し、根限りの現を抜かして、棄てられるまでは自ら先に離さうとしない執心に、因果な矛盾を感じるのであつた。私は長年の間、謙遜と諧謔と憧憬とをプレトン派に学び、エピクテイタス、マルクス・オウレリウス流に遡つてゐるにも係はらず、この劣等な学徒は徒らに営養不良に陥つたり、空しく神経衰弱に罷つたりするばかりで、己れの妄想を、理想! と称びかへるまで健全になり得なかつた。

それはそれとして、此処では斯んな雛祭りの夜の思ひ出から誌すのだ。

その年の桜を見た後に永らく住み慣れた横浜の家を棄てて、一先づ自国へ帰ることに決つてゐたH氏の一家だつた。H氏から私は娘のFを、私の友達の家の雛見物に伴れて行つて欲しい、と頼まれた。私は、その晩に私がその頃寄宿してゐた日本橋の雪子の家にFを誘つた。雪子の家庭は、長女である雪子とその頃十歳位ひだつた光子との二人姉妹で、両親が大変な派手好みだつたから、そこの雛祭りはFの悦びを買ふに充分だらう! と私は思つたのである。私達の父親が夫々友達同志だつたのである。私は、学校の休日が続く時には父親の命令でFの家庭に赴いて、彼等の習慣に親しまされてゐた。

「私はこの頃になつて漸くお前が、友達のない寂しい人であるといふことが解つた。」といふやうな意味のことをFが私に云つたのはその頃だつた。

「僕をFの家に親しませてゐるのは、やがて僕をお前の国に住はせて、彼に似た経歴を持つ人にさせようとする僕の父親の心使ひであるらしいよ。」といふやうな意味のことを唸りながら徐ろに腕を組んで、稍ともすれば武悪面のやうな表情を保ちながら蔭を向く癖が私に出来たのはその頃だつた。人との別れを思ふと、止め度もなく感傷的になれた私だつた。

「僕は誰に限らず人を見送るといふことが嫌ひだから、親愛なお前達の場合には殊に許して貰ひたい。」

Fが何と答へたか忘れたが何でも私は酷く笑れた後に、頬つぺたに接吻を享けたことを覚えてゐる。

雪子の家には、母親と姉妹との夫々の雛が三組もあつて、その家の隆盛時代を物語るかのやうに最も豪儀な姉妹の雛段が存分な綺羅を競ふてゐた。Fが来るといふので特にその時はあらゆる数々を批瀝して、蔵前の板間を打ち払つて飾りたてたのである。輸出商だから夜の仕事はなかつたが午過ぎから店員総掛りで万端の飾りたてに尽した。

「僕は雛などの知識がないんでいちいち訊ねられると困るんだが、雪ちやんは何故もつと喋舌らないのかな。」

雪子は私にばかりFの相手をさせて、はにかんでゐるので私が、云ふと、Fが横を向いた隙を窺つて、激しく手を振つたり、そんなことを云ふと後で酷いぞ! と云ふ代りに拳固を自分の顔の前で突きあげたり――する程慌てた。普段は左様でもないのだが何故かFは悉く自国の言葉で私に話しかけてゐたのである。私は気拙かつたが否応なく同じ言葉で応じてゐたのである。何かに就いて事毎にFは私の袖を引いて、店員達が「どん! どん!」と称び合ふのは何故か! とか、雪子さんとお前はあんな小さな机を並べて彼処に坐つて勉強するのか? などと質問の矢を放ち続けて、そして親切に私が答へなければならないのを私は、雪子に見られるのが嫌だつた。外套は私が脱がせて呉れるものだと思つて後を向いて立つし、唐紙は私が開けたてして通すのだつたし――私とFとの、そんな礼儀正しさを私は、雪子に見られるのを何よりも恥ぢずには居られなかつた。

粋! とか、芸妓風! とかといふことが念願であつた雪子は、Fが握手の手を差し出しても下向いてしまふのであつた。普段は騒々しい強ツ気なのだが、慣れぬ人の前では碌々口も利けない遠慮家なのである。その上、西洋人といふものを酷く特別な眼で見、一般に毛嫌ひしてゐる雪子だつた。――「あんたは矢張りFさん達に会ふと何となく女の気嫌ばかりとつてゐるやうな男になるの?」そんな馬鹿なことを私に訊ねることがある雪子だつた。「気嫌をとるわけではないが、それは――」と私も苦しく赤くなつて弁明しようとすると、雪子はもう頭から「おお、嫌だ」と身震ひして「でも、まさか、キツスはしないでせう?」と息をはづませて訊ねるのであつた。私は余り馬鹿々々しくて到底真面目にはなれなかつたので「手の甲や、額ぐらひなら――此方から先にすることはないようなものの……」と悲しさうに云ひかけると、雪子は真に汚らはしい者でも見るかのやうに沁々と私の顔を眺めながら、ほき出した。「まあ、あんたつて人は、図々しいのね。そんなでれでれした人とは思はなかつたわ。ああ、あたし聞いただけでも気色が悪くなつたわ。」と、胸を掻きつて、堪らなさうにカーツ! カーツ! と喉を鳴したことなどあつた。

そんな雪子の前にFを伴れて来たといふと私が酷く乱暴者のやうに映るが、雪子のは全くの抽象的神経から蔭で何うかするとそんな亢奮を洩すだけのことで、会へば、円満で、あらゆる歓待を惜まなかつたし、その晩のことなどは寧ろ彼女の発起と云つても差支へなかつたのである。私は、屹度私自身が窮屈になるだらうことを予想したから強ゐてすすめたわけではなかつたのだが、FはFで熱心だつたし、雪子も亦珍客をもてなしたがつたのでもあつた。――「あたしが、そのうちにお嫁へ行つてしまふことと、Fさんに別れるのと、あんたは何方が寂しい?」或晩私の枕元に坐つて雪子が云つたことがある。

「寂しい! だつて?」と私は吃驚りして訊き返した。嘗て、考へたこともなかつたのであるが、結婚! ときくと不図私は得体の知れぬ寂しさに襲はれた。恋ではない――普段、私の頭に始終もやもやとしてゐる熱つぽい幻が、はつきりと言葉をつかんで詰め寄つたかのやうに狂ほしく、寂しく、なつた。それと一緒に私は、私自身に堪らない幻滅を感じた。「恋を語れ! 相手を求めて恋を語れ! そしたらお前の似非神秘感は、お前の愚劣な神経衰弱であつたことに気づくだらう。」と私は夢にさゝやかれた。

「毎日々々、寝てばかりゐるのね、何うしたの? あんたFさんにでも恋してゐるんぢやないの?」

「……」私は点頭くことも出来さうだつた。

「寝呆けて、あたしの名を呼んだことがあつたわよ。」

「ほんたう?」

「それを光子つたら、とても笑つてさ。――あの子は、子供の癖に妙にませてゐて、あたし何だか嫌ひよ。あの子、屹度不良になるかも知れない。あたしが居なくなつたら、あんた気をつけてね。」

姉も妹も、私と結婚するとしたら年齢が不似合だが、それが何だか却つて幸福のやうな気がしてゐる、屹度私は何時までも彼女等の親切な友達であり得るだらう――といふやうなことを屡々雪子は私に云つてゐたが、私には意味が解らなかつた。雪子は、恋! などといふことを口にする時には、無邪気な悪ふざけで矢鱈に放言したり、結婚などといふ言葉は大変事務的に云ひ得る性質だつた。

Fは雛段を指差しては切りと私に質問を浴せてゐた。

「あれは?」

「宮庭の音楽家である。太鼓、笛、小鼓、大鼓、そして唱歌者の五人である。」と私は説明するのであつた。

「その老人の人形は?」

「何う云つたら好いだらう。」と私は雪子に訊ねた。

「高砂ぢやないのよ。お目出度いことを云へば好いぢやないの。」

私は、先に雪子に云つて見た後に、咳払ひをして、生徒のやうに真面目な口調でFに向つて翻訳した。

「結婚者の永遠の健康を予想して、その幸福な姿を具象化したものである。彼等の年齢は百歳である。然も尚あのやうに健全で永遠の緑を持つ松の木の下で、円満な微笑を湛えて立ち働いてゐるのだ。」Eternal が口を次ぐ毎に私は、妙に亢奮して来るのであつた。「見よ、彼等の頭上には千年の齢を持つ一羽の鶴が祝福の翼を拡げ、彼等の脚下には万年の齢を持つ亀が悦びの双手を挙げて立ち上つてゐる!」

「おお、キレイ・キレイ。」とFは済して点頭いた。

「Fさんに訊いて御覧なさい、お気に入つたのをお持ち下さいツて?」

「あの提灯は何といふの?」

「ボンボリ――」

雛段の両端には、一段毎に一対の雪洞が花やかに燭されてゐた。

「ボンボン?」Fは再度訊ねる時には、私の低い語調がさうさせるのかも知れないが、相手の顔を眼近かに覗き込むのが癖になつてゐた。私は、何となく雪子を気にしながら「否、BON-BO-RI!」と稍迷惑さうに云つた。するとFは、菓子のボンボンに気づいて、自分の失策を自分で噴き出した。そして、独りで恥し気に笑ひこけて、わけもなく私の手を握つたりするのであつた。

恰度真上の二階では酒宴が始つてゐて、賑やかな笑ひ声や、歌声や、そして足拍子の音などが入り乱れてゐた。

「姉さん、あたしの踊りをFさんにお目にかけるんですつて!」梯子段を駆け降りて来た光子が、Fの手をとつた。光子は姉と違つて、子供ではあつたが凡そ人見知りをしない質だつた。私は、光子が現れたので、わけもなく吻ツとしたのである。大袈裟に云ふと救ひの手が現れたやうに思つた。私は雪子のお蔭で酷く神経を疲らされてゐた。

「ゆつくり話せば、一通りは解るんだから、女同志が好いよ。踊りは別々に見物仕様ぢやないか。」と云ひながら私は、先に立つて二階へ上つてしまつた。

私は、店員の仲間に加はつて光子の踊りを見物した。盃をさされると、私は無闇に酒が飲めるのに驚いた。(私が酒を口にしたのはこの時が初めてだつた。古いこの晩の記憶を未だに私は、初めての酒盃だつた! といふことにこだはつて回想出来るのである。)

雛節句の夜は此処の家では、家を挙げてのお祭りで、いろいろな人が招かれて来るのが例だつた。

一盃毎に眼を瞑つてグイグイ飲むと、忽ち頭の中がパーツと明るくなり、さつきから妙に胸に支へてゐた塊りが花のやうに散り去つたり、さうかと思ふと名状し難い寂しさが潮のやうに込みあげて来て危く涙が滾れさうになつたりした。(酒の酔ひツて、斯んなものかな? だが、これは何も彼も忘れるといふことのためには真に名薬ではあるらしい、何も彼も忘れるツて? 一体俺には忘れなければならない何があらう! 何にもない筈だ。)

向ふ側を見ると睦し気に並んでゐるFと雪子の姿が、私の眼に、それは普段でも時々一寸したハズミにあることだが、あたりが倒さまに当てた望遠鏡で見るやうに遠く小さく映るのであるが、その時もそんなになつて、豆のやうに見えた。私はその眼で、豆のやうなFが私に向いて遥かに洋盃を挙げるのや、私が斯んなに離れてゐるのを難じる雪子が人知れず私に向つて拳を示したのを、見た。私は慌てて光子の踊りに眼を向けるのであつた。

……「おやおや、此処にもゐないわよ。何うしたんでせうね、仕様のない人だわね。」それは雪子の声だつた。

「お酒を飲んでゐたらしいが、慣れないので病気にでもなつたのぢやない?」それはFの声だつた。二人は切りに私を探してゐるのであつた。雪子は何時の間にかすつかりFに慣れてゐたが、Fは拙い危い日本語だつたし、雪子は当り前の口を利いてゐるので、半ばまでが辛うじて意が通ずる位ひらしかつた。その上、雪子は、私の為に夥しく慌ててゐた。「探し出さなかつたら、あたし困つてしまふわ、チヨツ! まさか酔つた気嫌でフラフラと何処かへ出かけたんぢやないでせうね。」

「どうしてあたし達は、気がつかなかつたんでせう。」

「かくれて逃げ出したのよ、屹度!」

「今迄にもそんなことあります?」

「お酒のことはないけれど、あたしあの人が書いた滑稽な手紙を見たことがあつてよ、とても熱情的な……」それは私が、何ともつかぬ悶々の情を誰にともなく出鱈目に書いた手紙ともつかぬ反古である。

「宛名は?」

「惜しいことにはそれは書いてなかつたのよ、ホヽヽヽヽ。」

あれを、宛名のある手紙と思はれては堪らない、油断のならない雪子だな! と私は慄然とした。

私は、さつき踊りを見てゐると急に胸苦しくなつたので、そつと座を外して階下に降りて来たのであつた。殆ど夢中だつた。――皆な二階に集つてゐたので、蔵前の雛段の前には人影がなく、徒らに雪洞の灯が明るいだけだつた。私は、よろよろとしてもう歩けなくなり板の間に転げてしまつたが、不図思ひついて雛段の下に逼ひ込んでしまつたのである。暫く其処で休むつもりだつた。そして私は、重病人のやうに唸つてゐたのだつたが、そのうちにうとうととしたと見へて、あの声で始めて吾に返つたのである。斯んな処から逼ひ出したら彼女等はさぞ驚くことだらうと気づいて息を殺したのである。

「写真を撮ることをまさか忘れやしないでせうが?」

「関はない。」とFは云つた。「私のことを忘れることはないんだから……行つてゐませう、光子さんの踊を見に!」

「ええ。」雪子は点頭いたが、到底Fには通じない早口調の疳癪声で呟いた。「あんな当にならない人つたらありはしないわ、いまいましい。誰かと一緒に吉原へでも行つたんぢやないかしら! ねえFさん、うちのお店の人達と来たら、斯んな晩にはね、父さんが酔つて来るのを見定めて置いてね、それあ上手に、一人減り、二人減りといふ具合に姿をくらませてね、途中でしめし合せてから、屹度、吉原といふ凄い処へ遊びへ行くのよ。」

雪子は、桜時分になると、斯んなにも大きな雪洞が沢山並んで、そこの夜桜といふのは昔からの名物だから、今年は一緒に行つて見ませうか――などといふことを述べながら、また二階へ上つて行つた。「あたしも、多分東京の桜は今年で当分の見収めになるかも知れないのよ。」

私は、上向けに寝てゐた。眼上の赤い布に雪洞に照らされてゐる人形の影が立ち並んでゐた。斯うして裏から眺めると明るい赤と、鮮やかな黒との段々が、私の妙な眼であつたからだが、私の胸に架けられた、何処へ昇つて行くのか解らない空しい階段の一端を眼にでもしてゐるかのやうな、心地がした。私は、それを一、二う、三い? と数えあげたり、ひよつとして栄螺の呟きでも聞えないかしら? と耳を傾けたりした。――何れが踊りの足拍子とも判別出来ない、わやわやとどよめいてゐる二階の物音が私の胸に遠雷のやうに響いてゐた。

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