Chapter 1 of 5

母がゐる町の近くに帰つたが母と同じ家に住む要もなく、何処にゐても自由であり、それなのに、何故自分は今までの都にとゞまらなかつたのか? でなければ、何故、常々憧れてゐる妻を伴つての長い旅路にたゝなかつたのか、それにも何の妨げもなかつたのに――? 何故、初めての眼新しい刺激のある何処かの地に住はうとはしなかつたのか、何か仄かな明るさを感じさせるのはそのことだけだつたが――?

樽野は稍ともすれば熱つぽい吐息と一処にそんな意味の呟きを洩した、そんな意味もあるらしかつた、彼の幾日間もの漫然たる吐息を強ひて綴り合せて見れば――。そして彼は、自ら己れに向つて「何故――?」を用ひることのわざとらしさと、何時にも笑ひのために動いたことのない苦気な表情とをおもつて苛々と首を振りながら夜になると、土堤の草むらが窓さきにふれかゝるほど蔓つてゐる奥の北向きの部屋に籠つたり、丘の下に借りてある舟大工の離れへ行つたりして何かこつこつと飽かずに営んでゐた。

「あそこの離れの明るさは何となく気に入つてゐるよ、親爺が殆ど自分の手ひとつで建てたさうだが――近いうちにもう一棟別に建てるさうだ、此処の家がとりこはされる時になつたらそれを借りやうかしら?」

「借りる位ゐなら――」と細君も新しい土地に移ることをすゝめた。「おぢいさん達にそこを借りてやることにしたら好いでせう。」

おぢいさん達といふのは十何年も前から此処の家の留守居をしてゐた夫婦である。

「だつて俺は何も斯んな家があるから此処に移つたといふわけでもない――来たから、まあ此処に住んでゐるやうなわけで。」樽野は辻妻の合はぬことを云つた。

「ぢや若しこれがなかつたら来なかつた?」

「――家などのことも問題ぢやない。」

「問題ぢやない……か。」細君は軽い嘲笑ひを浮べた。――「住みたくもないところに来るなんてほんとに好興ね。」

それに違ひなかつたが彼は、細君などに易々と決めてかゝられると、いつもムツとする反感が起るのであつた。彼は、景物・人情などに就いても細君が故郷である東京のことばかりに重気を置いて無下に彼の田舎を軽く云ふと気嫌が悪かつた。

「何にも心を惑かれるものはない、描きたい風景さへもない。」などゝ云ひながら――「あゝ、つまらないところだ、俺には故郷などいふものに囚はれる気持は始めからないのだ。」

「そのうちには如何したつて阿母さんの方に一処になることになるに極つてゐるわ、あたしは平気だけれど。」

「断然、そんなことはない。」

彼は、また首を振つた。彼は、環境に応じてどんなに浅猿しくも歪むであらう自分の性情の悲惨なフレキシビリチが怖ろしかつたが、あたつて砕ける程の環境などがある筈はなかつた。何の要もないのに斯んな風に帰つて来た自分の心の隅には、再び、退屈な、憂鬱な沼をのぞかうとでもするやうな因果な野望が潜んでゐたのかしら? そんな疑ひを持つたがそんな心の張りはなかつた。

彼は、兎も角、一つの仕事だけに夢中で突入してゐるらしい自分の坐像を見詰めてゐるだけだつた。言葉の無い熱情があるだけだつた。

「これがとりこはされる時になつたら、如何したつて自然に動くだらうさ……何かに、未練のない名残りを惜んでゐる見たいな……いや――」と彼は更に眉をひそめた。「何処にゐたつて俺は同じ筈だ。」

「若し、どうしても彼方と一処に住はなければならなくなつても――」

「それほど俺だつて生活力がないわけでもなからう。」

「だつて――」

「なくつても彼方には行かない。」

「何にもいらないことにして、さつぱりときまりをつけてしまつたんだから、いよ/\これからは勉強に精が出るでせう、さうなることをあなたは望んでゐたんだから。」

「出る――。俺は今迄の自分の若い日を想ふと哀れになる、嘔吐を催す。」

「Gさんがね……」

「Gにとられてしまふのも好いだらう、阿母さんの勝手だ。Gだつて俺が当然やらなければならない仕事の代りをつとめたんだもの。」

「…………」

以上の対話は写実的なものではない。彼等は生活上のことに就いてそんなに改まつた感想を述べ合ふことはなかつた。幾日間かの彼等の生活と呼吸とを一まとめにして対話に変へたのである。――樽野は、主に部屋に閉ぢ籠つてゐた。細君は、彼の案外な自信の強さに力を得て、何かゝら放たれたやうな爽々しさを感じてゐた。たゞ樽野は、仕事のはかどり憎さに伴れて冒頭の如き「何故――」を呟く自分を惨めに思つた。

遠くに夜釣りの舟の灯がチラチラとしてゐる静かな晩だつた。樽野は、表紙に藻しほ草などといふいたづらな文字が誌してある五六年も前の手帳を繰りひろげながら詩などのならんでゐる頁を飛ばして上隅が金具で止めてある個所を脱して見た。

「不気味な妥協! これを恐れなくなる日が来るかしら? ――恐るべきだ。」

「――いつもの主張の持てない気分のうちから抒情感や空想癖さへもが次第に影をひそめて、ただ、悪く、弱々しく、どんなものからも抗し難き圧迫を強ひられる? ――哲学的でなしに、?の符号を胸に抱かせられるのは忍べない。呪はしい掟であり、だが何処の王様が定めた掟でもない、破つたところで牢獄につながれるおそれのない掟が悲しい、そして破り得ぬために悲しむ掟でもないことが呪はしい。」

「理性の鎖につながれて人家に囚へられてゐるのだ。感情は野性のまゝで山野を駆け廻つてゐる――余は斯く呟きながら、さて、理性を験べて見れば、それはまたあまりに白々しい放埒の仮面をかむつてゐるではないか。」

樽野は、和文や英文の感情的な筆致でそんな文句が次々に走り書きされてゐる頁を煙草を喫しながら読んだ。こんな無稽な文字を何うして金具でなどとぢたのかしらなどと思ひながら先を繰つて行くと、処々が鼻血の痕で汚れてゐた。同じ町のうちの夫々の家で、父は父、母は母、悴は悴で、不平の煙りをあげてゐた頃の、そして、鉛の剣をのまされて徒らに苛立つた自分の姿がたよりなく浮びあがつた。

「――その後、そして現在でも時に依ると余は父からの(無言の遺言)と母からの(無言の情け)とを夢に見る。そんな夢に余は毛程も従順ではないが、そして凡そ親に対して子としての価値を思つたことのない余であるが、それは、人がこの世に疑ひもなき真実の子を持つことの何か(恵み)を感ぜしめるものがある。子から子へ永く生きる無言の生命を知らしむるものがある。様々ないさかひも、どんな善、悪も、それらのことは、この自身の遥か足許で自由である――と余は思はなければならない。」

樽野は、古い手帳の好い気な「自由」を想ひながら机に伏してうつら/\としてゐた。春らしい霞のかゝつた晩だつた。

「さつきから大ちやんが来て待つてゐるのよ、御飯の仕度も出来てゐるんだけれど。」

窓から彼の机の上に顔を出して細君が云つた。

「直ぐにさう云へば好かつたのに、俺は退屈をしてゐたんだ、珍らしく――」

「あら鼻血が!」彼女は樽野の鼻を指差した。

「陽気が好過ぎるんだ、さつきから俺は居眠りをしてゐたらしい。」

「毒ね。」

「大ちやんは始めないの、好さゝうな空ぢやないか?」

「どうも落着いて仕事が出来ないから当分遊ぶつもりなんだつて、大ちやんもさつきから寝転んでうと/\してゐる見たい、何だか酷く元気がないわよ。」

理学士である青野の大ちやんは其処の真上の樽野の丘の中腹にある家に来て、物干台から星の観測を仕事にしてゐた。閉めた窓の下ばかりで空などを見あげることもない樽野は、青野が来てゐると聞くと明日は好い天気だなと思ふのが常だつた。

「大ちやんの望遠鏡が俺の胸に向つてゐるんだ、おい何をふざけるんだよ、止さないか/\と俺がまた莫迦に狼狽して逃げ出すんだ。逃げても/\振り返つて見るときよとんとして此方を指してゐる、海の砂原だか野原だか解らない何んにもない広々としたところでね、俺の脚はとても軽いんだ、早く家の中へ逃げ込まうと思ひながら俺は、バツタだ/\と叫びながら翅を鳴して面白く飛ぶんだよ。さうするとね、以前の停車場の前の古い家が見えたんだ。只今! と、いつか俺は何処からか帰つて来た者になつてさう云ふと、ちやんと机に向つて習字をしてゐる阿母さんが俺を振り返ると急に腹を抱えてゲラゲラと笑ひ出すんだ、ふつと俺は天井を見あげると、空なんだ、家は芝居の背景見たいに外側だけで、入ると、やつぱり其処は野原なんだ。今踊りが始まるから行かうぢやないか? と阿母さんが誘ふ……」

「夢はみんな日頃の何かに関はりがあるものね、誰でも――」

「さうらしい、それで、まざまざと日頃の何かに関はりがある夢を見ると自分に軽蔑を感じるね。――だけど、これは関はりがない、もう少しおきゝよ。」

「だつて大ちやんの望遠鏡だなんて!」

「そいつはちよつと困つたな。」

彼等は、黙ることなしにおしやべりを続けながら懐中電灯で足許を照して小径をのぼつて行つた。石段をのぼるにも玄関をあがつても細君が食膳の上を整える間も樽野はしやべり続けてゐた。

「夢を見ながら居眠りをしてゐたんだつて――」

「フワツ!」と青野は言つた。「もうお止しよ、夢の話は御免だ。」

「さうすると物干台見たいなところで親父が顔を剃つてゐるんだ。阿母は阿母で未だ机の前に坐つてゐるんだ、天井がない襖の蔭なんだね、どつちも斜めに見降せるんだ、恰度土佐絵のやうに。」

樽野は鼻の栓を気にしながら止め度もなく夢の話を続けた。鼻に栓がしてあるので黙ると口をあけてゐなければならないのが具合が悪るかつたからでもある。「ふと俺は、一体自分は今何処に立つてゐるのかと思ふと……」

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