一 ある寒い冬の晩のこと
随分寒い晩でした。私は宵の中から机の前に坐つて、この間から書かうと思つてゐるものを、今晩こそは書き出さうと、一所懸命に想を凝らして居りました。――ところが余り寒いのでついペンをとる筈の指先は火鉢の上を覆ふやうになつてしまふのでありました。窓の外には目に見ゆる程な寒気の層が湖のやうに静かにたゞずむで居りました。火鉢の上に翳して暖たまつた私の眼で、硝子越しの寒い暗い光景を眺めてゐることは私のやうなものにも神秘なお伽噺などが想はれて、――「冬の夜」といふものが心から情しく嬉しく思はれるのでした、ものを書くなどゝいふ面倒なことをするよりもこうしていつまでも沁々と冬の夜を味はつてゐた方がどの位いゝか知れないと思ひました。あの有名なシエークスピヤの「冬物語」といふ、――ある寒い冬の晩、外には音もなく降る雪が断え間のないのを窓に見ながら、赫々と炎ゆるストーブを大勢の人等が取り囲むで、ある一人の詩人が最近に作つたお噺をするところ、テーブルの上の古いランプの灯影は一心に耳を傾けてゐる人達の横顔を画のやうに照してゐる……炎え盛る火と切りに降る雪と葡萄酒の香りとに抱かれて過ぎゆく冬の夜……を想つてゐた方がどれ位心に合ふか知れないと思ひました。――雪こそ降つてゐませんでしたが、湿つた夜の黒い空は私の窓の前迄泌みよせて居りました。まるで私は湖の底に坐つてゐるやうに思はれました。窓側をかすめてハラリと散つた梧桐の一ト葉を、私は湖に泳ぐ魚かと怪しむだり、朝母が活けて呉れた床の間の花を水底の藻かと思つたりしました。私は魚になつたかのやうな気持で煙草をすぱりすぱりと吹いては、煙が室の空気に溶けて終ふまで眺めました。煙が消ゆると又新たに吹きました。――いつ迄たつても際限がありませんでした。で、さあ書かう、と夢から無理に醒めてはみても、矢張り夜と睨めくらをしてゐる方が、余程美しい世界に居られるのでペンを執る気にはなれなかつたのです。
いつまでこうして居ても限りがないから暫くの間母とでも話して気分を取り直さうと思つて室を大変散らかしたまゝ私は茶の間へ行きました。
茶の間では妹の美智子が火鉢を囲んで何やら母と面白さうに話して居りました。
「今ね、兄さんに解らないとこが出たのでお尋ねに行かうと思つたら、母さんが兄さんは今御勉強だから後になさい、ておつしやるので此処でお待ちしてゐたのよ。」
「学校の事なの?」
「えゝ、さう。」と云ひながら美智子は自分の室の方へ駆けて行きました。
「若し差支へがなかつたなら少し教へてやつておくれな。先程から待つてゐたんですから。」と母に云はれた私は、別に勉強も何もしてゐなかつたのを母や美智子はそんなに遠慮してゐて呉れたのかと思ふと――笑ひ度いやうな気の毒なやうな淋しいやうな……解り易く一口に云へば悪かつたといふ気がしましたので、
「ハヽヽヽ。」と笑つて「関やしなかつたのですのに。」と云ひ乍ら美智子の室へ行きました。
丁度私が美智子への読本の下読を終へたところへ、美智子のお友達でお隣りの艶子さんが、今日は土曜日だからといつて遊びに参りました。
「兄さん、何かお噺をして下さらない。」と美智子が云ひました。いつもこの伝は私を一番困らせる事だつたので、私は聞えない振りをして逃げ出さうとすると「あらずるいわ。この間からのお約束なんですもの、今日こそは逃がしませんよ。」と二人して無理に私を又そこに坐らせてしまひました。
「僕はね。」と私はこゝですこしばかり真面目な顔になつて「ほんとに皆を喜ばせるやうな噺は仕たくとも出来ないのだ。」と云ひました。それでも二人は容易に私を許して呉れませんでした。で私は仕方がなくなつて、
「――えゝと、昔々あるところにお爺さん……」と言ひかけると二人は激しく首を振つて、
「嫌々、そんなのは。そんな古いのならわざ/\兄さんに頼まなくてもお婆さんの方が余程上手よ。」と立所に打消して、もつと新しいものをと云つて諾きませんでした。これには私もとんと当惑せずには居られませんでした。こんな事なら此間中何か西洋の物語本でも読むで置けばよかつたと私はつく/″\後悔しました。
未だ八時になるかならないかといふ宵でしたのに、あたりにはまるで声がありませんでした。軒をうつ小雨の音もなく、たゞ火鉢の炭が起る音と美智子の机の上の小さな時計の音より他世界は皆眠つてしまつたやうでした。何故なら私はお噺が出来ないで黙つて考へ込むでしまつたし、二人は私の話し出すのを今か/\と息を殺して待ち構えてゐるのですもの……。
こゝでちよいと皆様に説明しなければならないのは、美智子の室に可成大きな二つ折りの金屏風があることなのです。それに恰で本物の様に美しい孔雀が一羽描いてあります。然し全く孔雀がたつた一羽金泥の上に描いてあるといふだけで、その他には花も木も草も何にも描いてないのです。ですから丁度別の処から孔雀の画を切り抜いて来て金箔の上に貼り付けたと云つても差支へない位でした。がそれだけに孔雀は単独のものになつてゐて、見方に依つてはまるで孔雀が美智子の室にぼんやりと訪れて来てゐるやうに見えるのでした。
「美智子さん、私は遠い印度の国からわざ/\貴方にこの私の美しい羽毛をお目に掛けに参りましたのですから――そのおつもりで。さあよく見て下さい。さうして私の国はこの美しい私が羽根を拡げて闊歩するにふさはしい程素晴しく立派であることを連想して下さい。そのために私はわざとこうして何にも描いてない屏風の前にたつた一人でたゝずむで居るのです。私の体のやうに美しい背景は、とてもこんな小ぽけな屏風には描けませんからね。」屏風の孔雀を凝つと見てゐると、その孔雀は今にもそんな事でも言ひたさうな顔付をしてゐるやうに見えました。
私はその時お噺がどうしても出来なかつたので屏風の方へ顔を向けて、別にお噺を考へてゐたわけでもなかつたが、せめて考へてゞもゐるやうな風をしてゐなければとても二人が許して呉れさうもなかつたので、黙つて孔雀の画を瞶めて居りました。
「この絵の孔雀に若しなつたらどうでせうね。」「だつて大変だわ。屏風にされてしまふんですもの。動きがとれないじやありませんか。」私が余り話し出さないので二人は少し飽きてきたのか、そんなつまらない話をして可笑しさうに笑つて居りました。
何燭か知りませんが兎に角非常に明るい電灯が昼間のやうに紅色の覆の下に輝いてゐました。さうして室はもう充分暖たまつて居りました。春が急に来たのではないかと怪むだ程でした。私はその明るい室で黙つてゐる間に、いつか私の心はある不思議な世界に飛んで居りました。冬の夜で暖まつた明るい室と金屏風と孔雀とさうして晴れやかな少女の笑声とが私をある美しい国に運むで呉れたのでした。といつても春の楽園で美しい姫等が、孔雀と戯れてゐるところとか、銀河の流れに緑の岸を伝ひほがらかな女神が琴をかなでゝゐるところとか、などゝいふ古雑誌の口絵のやうなだれでもがすぐに想ひ浮べるやうな光景ではありません。――それは余り奇抜で予想外で皆さんは屹度アツと云つてお驚きになるに異ひありません。――で私は急に嬉しくなりました。皆さんは何とおつしやるか知れませんが兎に角美智子と艶子さんを喜ばせることが出来るだらう、と私は安心しました。私の心は明るい電灯のやうに輝き、私の胸は孔雀の美しい翼の如く喜びにふるへました。それ程この瞬間に思ひだしたあるお噺――といふより私がある世界に引き入れられたその空は不思議な色で輝いて居りました。
「さあ、ではお話ししやうかね。」と私は勝ち誇つた勇士のやうな悦びで、今迄考へ込むで屏風を眺めてゐた顔を二人の前に向けました。
美智子と艶子さんはもう私がとてもお噺など出来ない者だとあきらめてゞも居たのか、私がさう云つてにこ/\と笑つた時には、寧ろ案外だといふやうな顔をしました。
私の眼には美智子の室が夢の国のやうに更に明るく見えました。屏風の孔雀が今にも私の傍へ来て何とか話しかけるのではないかといふ風に見えました――そこで私はエヘンと一つ落着いた咳ばらひをして坐り直しました。静かな夜の外気も私の噺をきくために黙つてゐるかのやうに――静かに更けてゐました。
さて、このお噺下手の私がどんなおはなしを始めるでせうか。