Chapter 1 of 12

卓子に頬杖をして滝本が、置額に容れたローラの写真を眺めながら、ぼんやりと物思ひに耽つてゐた時、

「守夫さん、いらつしやるの?」

と、稍激した調子の声が、窓の外から聞えてきた。

(誰だらう?)

滝本は、この時、見境へもなく、返事が出来るほど、心が晴れやかでなかつた。

「矢ツ張り、留守なのか知ら?」

と、窓の外の人は呟いだ。

それで、滝本に――百合子だ……と解つた。恰で、他人と会話をするのと同じ調子の明瞭さで、稍ともすると和やかな独り言を呟くのが、滝本の印象に一番鮮やかな百合子の特徴だつたから――。

「居るんだよ!」

滝本は、慌てゝ窓を展いた。

純白の春の半オーバと、同じ色のターバン・キヤツプを無造作に被つた、素直に丈の高い百合子が、

「おゝ、好かつた!」

と片手を挙げて微笑んでゐた。片方の手には、スーツ・ケースを下げてゐた。

「元気の好い様子だね――お休みが余ツ程嬉しいと見えるね。」

滝本は、百合子の手から鞄をとりあげ、

「こゝから、お入りよ。さあ、手を執つてあげよう。」

と、前身を窓から乗り出して、両腕を差し伸した。――「随分、重い鞄ぢやないか、ひとりで来たの?」

「ひとりで大丈夫よ。」

百合子は、窓を指して微笑んだ。窓枠は、百合子の恰度頤のあたりまでの高さだつた。

「その、花の植木鉢をのかして頂戴な。」

二三歩後ろに退いてから、百合子は軽く勢ひをつけて、ひらりと窓枠の上に飛び乗つた。

「玄関で、何辺も呼んで見たけれど、一向に返事がないので、もう空家になつてしまつたのか知ら――と思つたわ?」

「うむ……それは、ちつとも気がつかなかつたけれど、相変らず阿母との間が面白くなくつて――僕は、何時でも玄関には錠を降し放しにして置くんだよ。で、百合さんは、何時帰つて来たの?」

と、百合子は、それには答へないで、

「ね、守夫さん――」

と仰山に眼を視張つて、問ひ返した。――「うちの兄さん来なかつた?」

「二三日前に、一度来たけれど……」

「それきり?」

「あゝ、何うして?」

「ぢや、矢ツ張り、妾と行き違ひに東京へ行つたんだ! いゝえ、そんなら、それで……」

百合子は、独りで点頭きながら、窓枠に腰掛けたまゝ靴を脱ぐと――これは、そつちの方へ隠しておいてやれ――と、卓子の下の方へ投げ込んだ。

「僕には、何とも云はなかつたぜ。」

「さうでせう。まあ、いゝわ。」

百合子は部屋に入ると、滝本が今迄腰掛けてゐた回転椅子に凭つて、

「田舎の春は好いな――妾、昨日から学校が休みになつたので、今朝、帰つて来たのよ、そしたらね――」

と、至極長閑な調子で、含み笑ひをしながら続けるのであつた。滝本は窓枠に乗つて膝を抱へてゐた。毎日/\、窮屈な思ひばかり続けてゐたせゐか、百合子の明るい態度が眼ぶしいやうであつた。

「只今ツて、お父さんのお部屋へ行つて挨拶すると、お父さんたら、まあ何うでせう、物をも云はずに、ギヨロツと、斯んな眼で――」

百合子は、滑稽らしくクスツと肩をすぼめると両手でつくつた眼鏡の形ちを顔にあてゝ、物々しい苦顔を示した。――「暫く、妾の様子を凝ツと睨んでゐたかと思ふと、いきなり、そんな妙な髪の者に家に居られては迷惑だ――と斯うなのよ。えゝ母さんも、ちやんと傍にゐて……」

云ひながら百合子は、キヤツプを、つかみとつて壁に投げつけた。――クロースバヴの髪だつた。

「で、斯んな重い鞄を持つて、此処まで来てしまつたの? はじめ妾、冗談かと思つたわ、父さん――でも、断然、そのまゝの顔つきぢやないの。妾、睨めつこをしてゐたわ、そしたら、遂々妾が、笑ひ出しちやつたの――憤つたわ、父さん。――兄さんが、手紙でいろ/\云つて寄したけれど、それほどとは思はなかつた。」

「…………」

滝本は、そんな事件を、みぢんも重苦しく考へないで、平気でゐられる百合子に羨望の念を感じた。

百合子は、断然、父親から離れる事に兄と話が纏つてゐる――と云つた。継母、破産、父の焦躁、家出――と、凡そ暗澹たる周囲にかこまれてゐながら、決してじめ/\とした考へに襲はれることなしに、寧ろ喜劇的に所理してしまふ百合子の態度に、滝本は反つて教へられるところが多いやうな気がした。

「妾、二三日此処に泊つて行つても好いでせう。少し、此方で遊んでゆきたいの。」

「…………」

滝本は、即座に返事も出来なかつた。百合子の、曇り気のない顔を、ぼんやり眺めただけだつた。

「守夫さんは、何時頃東京へ行くつもり?」

「この仕事が、多分今月中には出来あがる筈だから……」

机の上に拡げてある翻訳の仕事を、滝本は指さした。

「そしたら――」

と百合子は、言葉を絶らずに急速に云ひ続けるのであつた。「アパートを借りて、私達と一緒に生活しないこと? 妾と、兄さんと、三人で……皆なで、働くようになつたら愉快ぢやないこと!」

「それは好いだらうな。」

父親が没なつた後の家庭上の紛擾と戦ひながら、斯んな処に堅苦しく籠居して、日増に厭世観を高めて行く自分を思ふと、滝本は、自身に怖れを覚えた。

「妾、お父さんが、そんなつまらないことに因縁をつけて、とても不機嫌さうに眉をひそめてゐるのを見て、酷く、がつかりしたわ。怖くも、口惜しくも何ともないの――たゞ、もつと、はつきり云つたら好さゝうなものだと思つて、今度の妾達の新しいお母さん――」

百合子は、云ひかけて、何の蟠りもなく、ふわツ! と笑つた。

「あの母さんの気嫌をとるだけのことで、逆に、いろ/\と妾達に難癖をつけたりなんかするなんて、馬鹿/\し過ぎるわ。そんなこと何うでも好い、兎も角、妾、あのお父さんの顰め顔だけが滑稽だわ。ナンセンスたら、ないぢやないの!」

思ひ出しても笑はずには居られない! と云つて、百合子は、父親の声色などをつかひながら、腹を抱へて、傍らの寝台に倒れたりした。

「家を出て……そして?」

「まあ、守夫さんたら、何うしたつて云ふのよ。何を、いち/\、妙に、考へ深さうな眼つきばかりしてゐるの――家なんて、もう、とつくに出てゐるわけぢやないの。――学校だつて、もう止めるわ。それとも兄さんの働きで、行かれゝば、続けるし……」

百合子は、二年程前に、やはり東京で女学校を卒業してから、今は語学の専門学校へ通つてゐた。――滝本も二年前に、大学の理科を出てゐた。と同時に、父の死に出遇つた。滝本の母は、自分の経済上の安全を計つて、新しい負債をつくり、負債だけを彼に譲つて、長男である彼を、半狂人的の遊蕩児と吹聴した。――滝本は、何故、思ひ切り好く郷里を棄てることが出来ないのか? 自分ながら判断がつかなかつた。

「ローラのことだつて、阿母にだけは未だに隠し通してある。親父は、二十年隠し通して、更に秘密を僕に譲つたわけだが――」

不図滝本は、そんなことを云つた。百合子達だけには、古くから滝本は「秘密」を明してあつた。

「まあ、これ、ローラさんの写真――妾、見違へたわ――守夫さんのお得意の西部劇にでも出て来る女優かしらと思つたわ。」

百合子は滝本の卓子から置額を取りあげた。

「去年の夏のだつて――」

ローラは、アメリカ人を母に持つ滝本の妹である。そして今、七年振りで日本を訪れようとしてゐる。

滝本が、家うちの話などを初めると、

「妾、そんな深刻めいた話、厭ひだわ。」

と事もなげに百合子は一蹴した。

「ローラを何ういふ立場に置いたら好いかしら、と思つて――」

「奇智が必要なのね。」

と百合子は、勿体らしく首を傾げた滝本を冷笑した。滝本の一見真面目らしい、責任感などは、結局何うすることも出来ない架空の感傷だ――と百合子は思つた。母親の財産を掠奪してゞもローラにだけは、物質上の分配をしたい――滝本のそんな考へが百合子には無駄に思はれた。

「マヽと一緒に来るのか知ら?」

百合子は、わざと白々しく云つた。

「観光団に加つて、ひとりで来るらしい。親父が送つてゐた生活費の最後の分を、そのために貯へて置いたのだつて――」

「兄さんに会ふために、遥々と海を渡つて来るなんて、それだけで、とても楽しいことだらうな――」

皆な同じやうに、新しい生活の出発点に立つてゐるのだから、来てからの上で、

「さうだ、妾がお友達になるわ。」

と百合子は、片づけた。――「守夫さん、相対性原理の説明をして呉れない。」

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