Chapter 1 of 3

往来で騒いでゐる声が何うも自分を呼んでゐるらしく思はれるので私は、ペンを擱いて、手の平を耳の後ろに翳した。

「誰だな?」

私は呟いだ。私は首を傾げたが、執筆に熱中してゐる頂上だつたので、そんな騒ぎも忽ち私の仕事の世界(Flattering Phantom)と混同されてしまつて、私は眼を輝かせながら更に呟いだ。

「GOD KHONSU の帰来かな? あの瑠璃色の翼を持つた大鳥が獲物を携へて、もう戻つて来たのか知ら?」

私は人々の騒ぎを覆つて堂々と打ち響いてゐる波の音を、人造大鳥である KHONSU の羽ばたきと聞き違へたらしい。

――私は、だゞ広い書斎の真ン中で、天井の隅から空(Vanity of Vanity)を覗いてゐる望遠鏡、一方のハンドルを回すと轆轤仕掛けで程好く廻転をする地球儀(私の発案制作に成る)、丁字、円形、三角等の大型定規、模型・発動機、その他種々なガラクタ様の物理器具等を控へて、

「ラガド大学参観記」

と称する記行録を、年余の歳月を費して作成してゐたのである。――私の部屋の天井には、これも私の発案作成に依る、大星座図が貼りつけられて、月々に依つて、その星座の隠見自存に工夫されてゐるもので、恰度W形のカシオペイア座が、きらびやかな翼をマールの花のやうに伸し、「ダイア」の女王がその花に凭つてゐるかのやうに目醒ましい秋の終りに近い晩であつた。その折々の空に従つて私は色紙製の星形を箱からとり出して、これを天空にピンで止めて、サソリ座も獅子座も鯨座も難なく現出させてゐた。

(ラガドは、嘗て、二百年前に私達のジヨナサン・スヰフトが訪ねたあの科学国の首都であるが、彼の訪問時代にして既に、あの大航空器を有し、人造人間を活動せしめ、思ふがまゝの凡ゆる時代の人物を時を選ばず眼前に、トーキー式に依つて現出し得る活動写真器を持ち……と云ふ風な具合で、今尚ほ彼の記録が吾々を驚嘆させるに足る超数学国であるが、――そのラガド市が、二百年の年月を経た今日、一九三〇年代に至つて、あの上何んな発達を遂げてゐるであらうか? といふ興味は、おそらく今日の文明に生きる吾々にとつては等しく感ぜられる好奇心に相違ないだらう。私も常々その熱心なる一員であつた。ところが偶然の機会で(これは別の日に詳しく述べるつもりだが)私は、ラガド大学の受験資格を得たのであつた。「ラガド大学参観記」は、私の入学受験準備の仕事である。そして、仕事即生活で悉く私は血眼の受験生になつてゐるのであつた。)

「GOD KHONSU――ハロウ、ハロウ!」

私は呟きながら窓を開いた。ラガド市では悉くの人々が夫々一台の小型航空器を所有してゐた。この器具には Vanity of Vanity 測定器と称する一種の(斯う云ふ抽象語は註されぬのであるが)顕微鏡が備へられてゐて、例へば若し我々が仕事に没頭中に空腹を感じたとすれば、我々は仕事にたづさはつたまゝ、この航空器を駆つて、一定の空間を回つて来ると測定器が“The Vanity”のうちから「有」を取り入れて自然に吾々の腹を充しもすれば、思想の場合には思想を充し――といふやうな作用を起して吾々の仕事を補助するのである。それはこの航空器のほんの一つの働きであつて、その他の機能を挙げれば枚挙に遑ない。GOD KHONSU は私が、自用の航空機に冠した洒落たつもりの(そんな洒落気があるうちは到底入学は覚つかないのであるが――)機名であるが私はラガド大学の受験生寄宿舎で日夜、天文と数学の応用ばかりを見物させられてゐると、此処の人々の間には決して無い現象なのであるが、私は砂漠旅行者がオアシスを恋ふに似た喉の乾きを覚へ(それは、叙情感、感傷、涙を希ふと云ひ代へても差支へない)て、人知れず KHONSU を放つて、原始時代の物語に準じナイル河の水源地からロータスの花と野バラの実(ヒツプス)を持ち帰らしめて、秘かに胸を湿ほさうと思つたのである。(これもラガド機の働きを示す一例であるが――)

KHONSU が帰来したと聞けば私は何事を差しおいても駆け寄つて、あの花の雫を浴び、野バラの実を食つて、いきをつかずには居られない場合であつた。この操従者には、これも私の秘かな命名に依るナルシサスといふ青年人形を指命して置いた。ダイアナ(Diana the huntress)の小間使ひとして、綺麗な悲恋に泣きつゞけてゐるエコウの想ひ人である Narcissus the hunter である。斯うした名前を弄して少しばかりのローマンスを味ふのも、この科学室に籠居する私の秘かな慰めであつた。「トローイア人を戦ひに飽かしむるまで――」の素晴しい勢で研究に没頭してゐる私にとつては、それは、箙にさしはさんだ梅花一枝の悲し気な風情でゝもあつた。

「渚に降りたのはナルシサスか? ナルシサスなら、僕の言葉に答へる先にヒツプスを投げよ。」

私は窓から半身を乗り出して斯う叫んだ。

「ヒツプスの代りに……」

と使者が答へたらしかつた。――が、崖の下の往来なので、人々と波の入れ交つた騒音の中から言葉を見出すのは余程の難儀であつた。その上、今宵は波が大分高いと見えて稍ともすれば騒ぎは波の音に消されてしまふのである。

「ヒツプスの代りに?」

私は(ヒツプスが得られなければ――)と、ギヨツとして、息苦しく乾いた胸を掻きりながら、思はず、

「おゝ、お前は何んな怖ろしい復命を、もたらせようとするのか?」

と追求したが、波がガヤ/\と砕けて何うしても次の言葉が聞きとれなかつた。

「おーい!」

「おーい!」

波と波とが砕け散つて、さらさらとする合間に聞きとらなけれはならなかつたのであるが、そして私は苛々としてその寂間を待つのであつたが、生憎このあたりは奇峭な岩ばかりの渚で、その間を縫ふて引き寄せる波が、恰も人の囁きにも似るかのやうに一勢に小石を転がし、朗らかに幽婉な響きを伝へるので、うつかりすると、それを人の声と聞き違へて、勝手な言葉を此方が想像するやうなことになつてしまふかも知れないぞ――。

「そんなことでは受験生の資格もなくなるぞ!」

と私は唇を噛んで耳を傾けた。

「おーい!」

「おーい!」

こいつは山彦かな?

山彦ならば――。

と私は注意して、

「バカ野郎!」

と試しに怒鳴つて見ると、

「どつちが馬鹿だ!」

微かに、だが、はつきりと太い声がした。友達の青野の声である。――おや/\、では、ナルシサスの復命かと思つたのは岩間を縫ふ波の響きを聞き違へたのか?

「青野か? 大ちやんか――」

と私が呼ぶと同時に再び大きな波が砕けて、人の声を消し、波の音ばかりが縹渺と天地に響き渡るのであつた。

「大ちやん達だつたら何もそんなところで愚図/\してゐることはないぢやないかね。用があらうとなからうと、ともかく此方へ入つて来ないかね――」

無論斯んな複雑な言葉が波の合間に通ずる筈もない。だが私は仮令自分の声であらうとも電話機の前の会話態見たいに述べられてゐる人の音声に滋味を感じた。ラガド市に入つて以来私は人の言葉といふものを殆んど聞いた験しがなかつたから。

ラガド市では、音声を発する為に人間の肺臓が何んなに無益な振動をするか? といふ測定をした上句と、仕事の能率とのために人間同志の会話を一切省いて、意志の表示にはそれに順当する物品を示すことで、至極簡明に古来から用ひ慣れて来たことは知らるゝ通りであるが(斯うした健康法が役立つて、この市には三百歳以上の沈鬱な長寿者も珍らしくない。)近年に至つては物品の代りにプリズムに依るスペクトルを利用して会話に代へるやうになつてゐる。憶測とか口論とかは物品時代から絶無であつたことは言を待たぬが、スペクトル時代に入つてからは、会話の度毎に物品を指さしたり、つまみあげたりする時間と力が省けることになつたので、市民達の意志は更に一途に、人事交渉を絶して数理の無限に向ふことが出来るようになつてゐたわけである。

だが私は、時にはそれも余りに頼りなかつた。種別を問はず口論、憶測、談笑等の彼等の所謂原始性が慕はれて、私は秘かにナルシサスを相手に、蔭では、この下顎を上下――時には左右に歪め、舌を巻き、喉を鳴らせる生れながらに慣れた発声法を用ひて猥らな言葉なども放たずには居られなかつた。

「ねえ、大ちやん、何故来ないんだよ。例の婦人の伴れでもあるのか?」

などゝ下らぬことを訊ねたが、波の音ばかりで一向に透らず、次に辛うじて聞きとれるのは、たしかに、ナルシサスの復命である。岩間を縫ふ小波の音と間違へてはならないと私は深く注意をしてゐるのだが、

「ナイルの……」

といふ声は、はつきりとナルシサスだ。二人の間だけでは概ねスペクトルを用ひないことにもしてゐたから――。だが、そのあたりの薄闇の中に光りの点滅も窺はれる。

そして、辛うじて聞きとつた彼の言葉の断片と光りの信号とを綴り合せて見ると、斯んな意味になつた。……ナルシサスがヒツプスを索めながら、森深く入つて行くと、はからずも古沼のほとりで、さめざめと泣き暮してゐるエコウに出遇つた。ナルシサスの無情を憾み続けてゐる可憐な娘である。

「お前がラガドにゐるといふことを妾は知つてゐる。そしてお前は、妾がラガドに住むことの出来ぬ身であるといふことを知つてゐる。お前は強ひてあの市に住む必要はないのだ。今日から是非この森にとゞまつて妾と一処に暮してお呉れ。」

娘は男の腕をとつて離さなかつた。

「やあ、そいつは羨しいな!」

私は、思はずそんな声を放つてしまつた。するとナルシサスは黄の原色光を斜めに振つたので、私は慌てゝ口を拭つた。

その光りの意味は、

「汝の言を軽蔑する!」

の意で、ラガド市上では殆んど使はれることのない古語に属するシニカルであつた。

だから私は即坐に、

「失礼。」

と挙手を返した。こんなところで「軽蔑する」だの「失礼」だのと仮令一分間でも時を無駄にすることこそ、彼等にとつては黄の光りを斜めに強く振るべきなのであつた。

何故、ラガド市にはエコウが住むことが出来ぬかといふ理由を一言附け加へて置かう。

ラガドでは十年前から音響の圧搾といふことが行はれてゐる。凡ゆるものゝ音響をラツパ状の巨大な反射管で吸ひとり、これを地下道のタンクに貯蔵して、恰度吾々が瓦斯の配給を得るやうに音響は縦横のパイプを通じて諸々に送られてゐるのであつた。汽笛の類ひは云ふまでもなく、近頃では発音体の振動数の差に依つて生ずる力を利用してモーターの代用にも用ひてゐる。――就中あの娘の叫び声(吾々は山彦と称び慣れてゐる。)は、貴重品として貯蔵され、数奇な調節を加へられた発送管で全市に敷かれて至るところで様々な音楽に変つてゐるのである。斯んな風で発音体が次第に減じてゐたが、一方では風力から音響を搾取する方法が請じられてゐたので、別段森の奥へエコウを捕へに行くほどの要もなかつたのである。また万一人間が声を発する場合には、郵便ポストのやうに街の辻々に反響管が備へられてゐるので、唯一つの欠伸、咳、クシヤミの類ひでさへおろそかにすることなく、これに向つて放つのであつた。凡ゆる音は変音所を通つてタンクに入るのであつたから、悉く同種同音に圧搾されて貯蔵されるわけである。(理論と実験説明は大学参観記で私が述べてゐるところだつた。今日は私にとつての日曜日であるから、仕事の説明からは自ら逃れたのである。)

「私は、これからエコウの許へ去らうと思ふのですが?」

言葉を止めてナルシサスは、斯んな信号を私に送つた。

「君に行かれてしまつたら僕は途方に暮れずには居られない。」

私は、反射管に向つて叫んだ。こんな大音を滅多に受けたことのない受話機は景気好気に突飛な振動をたてた。

「俺の天井のカシオペイア座が薄れて、アンドロメタが鯨と闘ふ星月夜まで待つて呉れ、ナルシサス、どうぞ頼む――でないと俺は……」

私は、声を振りしぼつて懇願したが、あゝ大きな波の砕ける音! 私の悲痛な声は鵞毛のやうに吹き飛んだ。

「待つて呉れ/\。」

とそれでも私は、執拗に腕を伸して虚空をつかんでゐたが、自分の声を聞き直して見ると、如何にもそれが息苦し気に響き、不図近頃の自分が多くの債権者に支払延期の申わけを余儀なくされてゐる姿が、まるで今と同じやうな物腰態度であるらしいのを思ひ合せると、思はず両手の平で口を圧へてしまつた。

Chapter 1 of 3