Chapter 1 of 5

花川戸の家

人生辛酸を幾多経た今日でも私の記憶から喪失することのできないのは、三歳から十四歳までの春秋をおくつた浅草花川戸の家である。祖父、祖母、大叔母、小婢と私の一家五人が、世の中も亦平穏多倖なりし明治末年から大正中世までを何苦労もなく起臥してゐた。五渡亭国貞の絵がいかに婉やかに美しいか、それを教へたのはあの大そう腰の曲つた祖母であつた、児雷也豪傑譚や白縫譚さては万亭応賀の釈迦八相記がいかに怪奇で悲哀であるか、それを知らせて呉れたのはあの切髪にしたいろの黒い背の高い大叔母であつた、『江戸砂子』の作者菊岡沾涼の息と己とはありし日の茶飲友だちであつたわと私に屡々語つて呉れたは、顔一めんの痘痕のあとの子供心にも怖しかつた祖父であつた。それかあらぬか祖父は月並の発句もやつたし、川柳点の狂句もやつた、『柳多留』の原本と手摺れて光沢のでた古碁盤とは、いつも祖父を偲ぶとき、なつかしくわが目の前にあらはれて来ずにはおかない。

祖父はつひに死ぬまで「東京」を「とうけい」と発音し、また「日々新聞」を「ひびしんぶん」、「台湾島」を「だいわんたう」などと云つてゐた。祖母は「ステイション」と云ふ言葉が「すてんしよ」としか云へなかつた。私がそのころ「郵便局」と云ふより「駅逓」と云つた方が合点が早かつたのも大叔母の感化に他ならなかつたのであらう。即ち私はかゝる旧弊至極なる徳川文明の灯かげ一と時代前の生活の中に育まれては来たのである、と云つたら、人、今日のわが作品のあり方に付いても微笑んで肯つて貰へるであらう。

花川戸と云つても私の家は、講談「安政三組盃」中の与力鈴木藤吉郎の妾宅や落語「清正公酒屋」の虎屋饅頭お仲が清七との仲を割かれて隔離されてゐたごときすみだ川沿ひではなく馬道の通りの中程から東へ折れた新道にあつた。従つて私の家のおもて二階からは観音堂や仁王門五重塔さては弁天山の鐘撞堂などが、大銀杏の木かげ東錦絵のやうに美しく見えてゐた。この鐘楼では近火のたびに早鐘を撞き鳴らして一種、もの/\しい不安の念を、私たち少年の耳に響かせた。

私の家は五十坪に足らなかつたが、それでも町内では筋向ふにあつた鼻緒商の隠宅の六十坪に次ぐ広さであつたため、よく「坊つちやんのお家はお広いから」と近所の人々が私に云つた。その鼻緒商の家には大きな蒼々とした桐の木があり私のところの小庭にはそれ丈けが少し不釣合ひな位小高い松ヶ枝が一ともと忍返しの上へもの/\しく聳え立つてゐた。さゝやかなる築山には皐月が群生してゐて早夏真紅の花を燃やし、松の根方の八重山吹はまた暮春黄色い花を朽井戸の底深くへと散込ませた。沈丁花、山椒、野木瓜、黐それに泉水ちかく老梅の古木が、蜿々として奇なる枝振りを、見事に撓り、屈らせてゐた。私は大雪の夜など祖母とたゞ二人お湯へ入つては庭に面した小窓の障子を、湯槽の中から手を伸ばしてはそつと開け、子供ごころにも白一といろの世界の中におもしろい枝振りを見せてゐるこの墨絵のやうな老木を、眺め愉しむことが屡々であつた。さうした雪になる直前の、つまりいまにも白いものゝちら付いて来さうな冬の夜の記憶も亦忘れられない。路次いくつか隔てた遠方の町行く法印の法螺貝の音は炬燵にひとり魯文の『花ごろも狐の草紙』、京山の『朧月猫の草紙』などの挿絵に興じてゐる私に何とも云へないこの人の世の寂寥をつたへて来た。『狐の草紙』は狐を善玉、狸を悪玉いづれも遊侠の徒に見立てた「粋菩提悟道侠客」と云つた式の擬人化仕立の草双紙であつて、花吹雪切りなる某の社の大石段に五人男の勢揃ひにさすやうな太文字名入りの傘さした狸の親分が八畳敷を伸ばしに伸ばし、それに無惨に押敷かれてゐるわかい美しい雄狐の姿などどこまでも歌舞伎仕立で幼い私の目を喜ばせた。『猫の草紙』の方には懐紙咬へた猫の花魁が、妓楼の大屋根、暮春の月ゆらぐ天水桶に媚しいその面写して慨いてゐる国芳腐心の構図もあつた。此にはとら猫ぶち猫雉猫の善悪それ/″\が入り乱れてゐて、じつは当時幕政の一端を猫に擬らへて揶揄したもので、幾何もなくしてお咎めを蒙り板木を取壊されたものであると成年ののち私は知つた。後年、猫々道人を名乗つた前掲の仮名垣魯文も、『狐の草紙』と前後して、「花猫の目鬘」なる猫の擬人化小説をば世に問ふてゐる。恐らくや後学魯文は大先輩京山が猫の草紙の後塵を拝したものなのであらう。

私が今日、小動物、殊に猫を太だ愛して熄まないのは、この幼年時の京山や魯文、と云ふよりも国芳や芳虎の少からざる影響であらうと考へられる。寒詣りの「さんげ/\六根清浄」と叫びながら走つて行く腰の鈴の音が切りに聞えだして来るころになると、私の家の前には甘酒屋が朱塗りの台の上へ金いろの釜を仕込んだ荷を下ろした。「甘いイイ甘酒」の声がすると、大叔母が窓から、茶碗を突きだしては、「甘酒屋さん」と呼んだ。私は、床の中で飲む一杯の甘酒に、そのじぶん寒い/\夜の来るのが楽しみであつた。頭へ古い手拭を乗せた婆さんが破れ三味線かき鳴らして軒に立つのも同じやうな冬の夜が多かつた。大叔母は必らず大きな二銭銅貨をやり、稀には白銅貨を与へることもあつた。従つてこの路次の中で私のところは、婆さんにとつては有数のいいお得意に数へられてゐるらしかつた。「我がもの」だの「柳橋から」だの「御所車」だの「とつちりとん」だのを精一杯にやつた。だが婆さんの腕前は余り結構のものではなかつたらしく、とき/″\三味線の手をまちがへたりすると、祖母と大叔母とが火鉢を挟んでゐる顔と顔とを見合はせて、軽蔑したやうにくすりと笑ひ合つた。婆さんはそれでも何でもやる丈けのことをやつてしまふと「左様なら、有難うございます」とがさ/\したやうな声で云つて、路次の溝板踏鳴らし/\かへつていつた。私はたうとうこの婆さんの顔を見ずじまひであつたが、いづれは中流以下の妓籍にあつたものか場末廻りの女芸人が数奇な生涯のその果ての門附稼業であつたのであらう、二た冬余りでぱつたり婆さんは来なくなつた、陋巷にさびしく死んでいつたのかも知れない。

そろ/\夏ちかくなつて来ると、私は庭の泉水の水を換えてやるのが、何よりもの楽しみであつた。泉水と云ふと体裁がいいが、ほんの小さなセメントの池で、緋鯉や鮒や鯰や金魚や独逸鯉などが私の玩具に泳いでゐた。しかし私は中学校に入る年になる前後から何か桜か桃か杏か李か、春の旺りに一杯に美しく花の咲く樹をこの池のほとりへ植ゑて見度いと考へだした。幼少から親がなくこの年寄たちとも間もなく一、二年後にはことごとく死別しなければならない運命にあつた私は、そのころからそろ/\寄辺なき身を怨み佗びる性情が、心の片隅に巣を喰ひはじめてゐたのかもしれない。姉と妹のないことをおもつて死ぬやうに寂しくなつたのもそのころである。いまゝではたゞ美しいとのみおもつて見てゐた国貞の絵の面長のお姫さまや返り討になる若人の顔容が云ひしれぬもどかしさと悩ましさとを、少年の胸に縫込むやうになつて来たのもそのころである。私は公園の小屋で見た松旭斎小天勝の美貌に恍惚とし、小天勝と綽名された年上の女学生に恋文をおくつたりした。小天勝は行状の定まらぬ女で、愛慾流転、数年後、師の天勝から破門され、天華と名乗つて旅先に狂死した。トーダンスの高木徳子が此又旅興行中狂死したのも、小天勝の死と相前後するころであつた、とおもふ。私の家は細い路次の奥の井戸(間もなく共同水道となつた)の隣りにあつて、古びた腰障子やうの格子がはまつてをり、開けると薄暗い一めんの土間であつたが、されば公園などへ遊びにいつてゐてはかへつて来て、この格子を開けるたび誰か親戚のわかい女のひとでもやつて来てゐて赤い鼻緒や黒塗りの東下駄でも脱いであると分るたび、忽ち私は全身に救はれたやうなぱつと明るいものを感じておもはず上り框へと飛上がつては夢中で座敷の方へ駈出して行つてしまはずにはゐられなかつた。

わかい女と云へば、筋向ふの桐の木のある鼻緒商にも揃ひも揃つて美しい背の高い姉妹が三人ゐたが、何かの手ちがひから急にその家が潰れて四散してしまつた。私は文学者志望の念に駆られだしてのち、島崎藤村が序文をかき竹久夢二が美しい下町娘とその背景をなすところの昔なつかしい並蔵と堀割とを表紙に描いてゐる北川浅二と云ふ作者の『下町物語』の一冊をば翻いて、文中偶々この鼻緒商の娘と全く同じ哀切の運命にある下町旧来の評判娘の追懐録に遭遇し、往時を想つて懐旧の情に耐へなかつた。尤もそのころ最早私の家も亦祖父が不正無尽の会社に関与して家財を蕩尽し、筋向ふの鼻緒屋同様の落魄裡に次々と老人たちは死んでしまつてゐたので、一そうかうした感傷の念に駆られたものかもしれない。『下町物語』の作者は京橋大根河岸の住、のちにこの仁も亦狂死したとか聞いてゐる。

さるにても私は、間もなく浅草と別れ、花川戸の家と別れ、慕はしい年寄たちには死別、山の手の偽善づくめの官員屋敷許り立並んでゐる邸町の生活の中へ引取られていつたのであるが、境遇の激変は一そう私をして浅草を、花川戸界隈を、年寄たちへの哀慕の念と共に恋々と追想させないわけには行かなかつた。

花川戸の私の家の裏通りは、俗に頭の横丁と呼ばれ、土蔵造りの仕事師の家があり、その頭の家の前の横丁には助六稲荷と呼ぶ淫祠があつて、御神体は助六が江戸紫の手拭であるとつたへられてゐたが、その祠を取巻いてベイ独楽に興じてゐる子供たちの姿も、絶えず山の手の一角に佗び住んでゐる私の目先にいとほしく蘇つて来た。そのくせ私はお祖母さん子の内弁慶で、浅草にゐるじぶんにはおもてで近所の子供たちと遊ぶなどおもひも寄らない意気地なしなのであつたが、蓋しそのときの私は余りにも烈しい望郷の念にと駆られ過ぎてはゐたためであらう。

山雀の曲芸やダークのあやつりが客を呼んでゐた奥山花屋敷の古風な木づくりの門。

しつとりとさびしいいろを見せてゐたあの常盤座の海鼠壁。

三友館には電気応用キネオラマの見世物があつて、花の巴里か倫敦か、月がないたかほとゝぎす、古風な西洋館の窓々の灯へはすさまじく大夕立が降り切つてゐた。同時にそれらの景色も亦そのとき遠い佗びしい山の手から歴々と万花鏡のごとく哀しく美しくわが目前に泛んで来ずにはゐなかつたのである。

(大正十三年六月「文章倶楽部」、昭和十七年一月、同廿二年七月改稿)

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